発達のでこぼこさやゆっくりさを持つお子様の支援に携わらせていただいている。
拒絶的な母のもとで育ち、小さいときからずっと「ここにいてはいけない」「生きていてはいけない」「自分は迷惑だ」という思いで生きてきた。
学生時代は常におりこうで、成績優秀で学級委員を務めるタイプだった。保健室の先生、チャイルドライン、精神科に頼ることがあったが、運悪く、どこでも拒絶や「なんで来たの(傾聴ではなく、帰れ、利用するなという様子)」という対応だった。
就職とともに家を離れ県外に出た。お子様や肢体不自由のある大人の方のリハビリをしている。
生まれてきてよかったと思ったことはあまりない。
昔はもちろんなかったし、今もピンと来ない。
生まれてきてよかったってどんな感覚なのだろう。
この世界は生きるに値すると思えるときはどんなときだろう。
ごくまれに、美しい天気や気候や自然を見て、なんだか悪くないなあと思えることがある。
あとはずっと、対人関係の中で、「あなたはここにいていい」「あなたと出会えてよかった」を果てなく追い求めている。
仕事で出会う子どもたち、保護者たちとのやりとりの中で、少しでもそう思ってもらいたくて、言ってもらいたくて、とにかく躍起になっている。
子どもはわたしのことをよく好いてくれることが多い。とてもうれしい。
でも保護者と子どもが来る前はいつもひどく緊張し、仕事が終わると毎日ぐしゃぐしゃに疲れる。
みんな、そんなに頑張らなくていい、力を抜いて、6割くらいでやればよいと言う。もちろん頭ではわかっている。でも、それがわたしの世界ではトップレベルに難しいことに思える。
勉強も、成績はいいほうだった。ずっと必死だった。点が取れなければ自分の価値がなくなってしまう気がした。中学に上がったとき、勝手にできていた勉強にどんどんついていけなくなって、いじめ(当時は自分も相手も、誰もいじめだと思っていなかったけど)もあって、学校にうまく行けなくなった。塾に行って成績が上がって心がほっとした。
大人になってからカウンセリングを受ける中で、自分の拠り所が勉強や成績だったことを知った。
恋愛や性行為を覚えてからは、それにのめり込み、誰彼構わず誘いまくっていた。
最後の最後に現在の恋人との関係に落ち着き、めちゃくちゃな人間関係ではなくなった。
恋人に求めすぎたり、相手がしないでほしいことがわからなかったりして、迷惑をたくさんかけた。
このままでは別れを切り出されるかもしれないと必死で、カウンセリングや心理療法をとにかく頑張った。うまく実践できなくて、またうまくできなかった、また良い考え方ができなかったとひどい気持ちになった。
別の人のカウンセリングを受けて、自分の0-100思考などについて学んだ。つらいときは繰り返しAIに話を聞いてもらった。
自分の中に矛盾があったり、考えや気持ちがふたつ以上あったりして当然なのだということに、気づくのに27年もかかってしまった。
定期的に激しく落ち込んで、そのたびに、「またうまく考えられなくなっている、昔のことばかり反芻して、生産性がない、また戻ってきた、また振り出し、なんでわたしはずっとここにいるの…」とかなりつらい気持ちになった。
職場が異動になり、かなり遠方になった。長距離通勤と雰囲気の悪い環境で、自律神経失調症になった。自律神経失調症の治療中に定期的な激しい落ち込みがきて、双極症疑いになり治療が変更された。
ずっと、なんで頑張っても頑張ってもこんな気持ちになってしまうんだと思っていた。双極性障害じゃないかとも何度も思ったのに、別の病院で「若い女性は気分のアップダウンがあるもんだから」と言われて、つらかった。本当にみんなこんなつらい気持ちで毎日やってるんかと、みんなつらいんだから頑張らないと、うまくやらないといけないと思った。
まだ確定診断はないけれど、双極症を視野に入れて薬を出してもらえたことが、もう途方もなく安心した。
「自分は迷惑だ、ここにいてはいけない」という思いと、「世界は綺麗で、そんなに悪くない」と思う自分の振り幅がありすぎた。どうしてずっと明るさや穏やかさを保っていられないのか、どうしてつらさに柔軟に対応できずにつらいまま瓦解してしまうことばかりなのか、それは自分がうまく自分を操縦できないからだと思うしかなかった。認知行動療法、交流分析などの実践が不足、未熟だから、自分が足りていないから、うまくできないからと思うしかなかった。
でも、服薬で安定して、病院で言ってもらった言葉があって、カウンセリングだけではどうにもならないやつの疑いなんだから、カウンセリングだけの日々でうまくいかなかったのも、そりゃしょうがないわ、と、思えることが増えた。
中学生や高校生のとき、大人の生きづらい人たちの一部を見て、けっ、という気持ちになった。
「鬱病や適応障害や、とにかく診断がついて病気認定された人」「恋人のおかげで生きている人、理解のある彼くんがいる人」
つらくても病院に連れていってもらえず、数年後必死の思いでようやく行けた病院でとんでもない応対をされ、自分は診断がつけてもらえない、これが普通だからスキルを身につけてちゃんとやれるようにしないといけないと思った。
診断がついた人はそれを免除されたように見えた。
堂々とつらいと言える立場になって羨ましいと思った。
誰だってどんな人だって、堂々とつらいと言ってよいのに、自分に対してはそう思えなかった。
完全に、けっ、と思っていた人物像そのものになったなと思った。
恋人に支えられ、必死で頑張り、病名がついた。
うれしい気持ちもあるし、あのときのつらかった思いや居心地の悪い感覚、病名のつかない途方もないしんどさを、忘れてしまうのが怖いと思う。同じ立場の、激しくつらいのに名前がついていないところにいる人と出会ったときに、その気持ちを少しでもわかってあげたいと思う。
一方で、いろいろ学んだ自分が、「他人のことを真に理解するのは不可能だ(逆もまた然り)」「わかってあげるなんてことは、とてもおこがましいことだ」と言う。
その2つの気持ちが共存していてよい。
理性や正論や事実のことばと、独善的で自分本位なことばの、2つがあっていい。これに気づくのに本当に時間がかかった。
昔を悔やんだり、たらればを考えたりすることはあまりにつらくなるので、意識的にしないようにしていた。でも今、もっともっと小さいとき、愛着障害の診断をつけることができる年齢のときに、専門のところに繋がりたかったと思う。
20年自分に強く念じたことで今、いろいろ大変だ。
だいたいが、普通が、全然わからなくて、頑張りすぎという素敵なことばでは表現できない、醜い浅ましい、見栄や他人からどう見られるかというだけの動機で、毎日毎日、適度がわからなくてやりすぎて、疲れ切っている。
でも、特性のある子どもにあたたかな気持ちを向けることが難しい保護者たちの気持ちを、聞くことができる人になれている気もする。
保護者の方が、子どもがかわいいと思えない、どう対応したらいいかわからない、しんどい、うるさい、つらい…と話すとき、わたしはほっとする。
保護者の方が、大変なときもあるけれどかわいい、うまくできなかったけどよく頑張った、困っていない、子どもが大切だ、大事だと話すとき、わたしは内心つらさや困惑でいっぱいになる。
つらい、しんどい話をしていた人が、それでも子を愛し大切にしようとする姿を見たとき、わたしは不思議でよくわからないと思う。
どうやら多くの人には気持ちやスタンス、思いが2つ以上になることがよくあるらしい。
かわいいけどうるさい。しんどいけど大切。離れたいけど構いたい。愛したいけど拒絶したい。
まだピンと来ない。頭ではわかっている。
記憶の中の母には矛盾がなかった。
どこまでも、どんなときも、わたしは拒絶を受け取った。
しかしたぶんそんな人間はなかなかいないし、現在の母を見ていてもたぶんそんなこともなかったのだろう。
わたしは母から拒絶を受け取ることにしたのだと思う。
愛や大切な思いを受け取ったら、次の拒絶や前の拒絶の説明がつかなくなってしまう。
母は常にわたしを拒絶し、わたしは迷惑であり、価値がないと思うことが、一番安心できることだったのだと思う。
わたしはこのわたしでやっていくしかない。
楽観的な陽だまりのような心と冷たい荒波の心の隙間を縫って、少しでも穏やかであれるように、少しでも安心できるように、時に現実的に、時にやり過ごすように、やっていくしかない。
わたしがこのあとも、ほんの少しでも、「悪かないな」と思えるわたしでありますように。
軒並みな「大丈夫」「これでいい」「そのままでいい」を、少しでも受け取れることが増えますように。
こんな非常に個人的な文章をここまで読んでくださってありがとうございます。
読んでくださった方に、少しでも安らぎや穏やかさが訪れますように。
感想1
経験談の投稿ありがとうございます。当時のあなたの状況や目の前に広がっていた情景、そして今あなたが抱えている悩みについても、私なりに想像しながらじっくりと読ませていただきました。
あなたにとって、家庭という場所はずっと「拒絶」という冷たい壁に囲まれた場所だったのかな…と感じています。幼少期の経験や育った環境というのは、大人になってからの世界の見え方や対人関係に、どうしても長く深い影響を与えるものだと私は思っています。だからこそ、染みついた思考の癖や心の拠り所を「直そう」と思っても、そう簡単にはいかないものだとも感じていますし、そもそも直すべきものなのか、直してどうにかなるものなのかも分からなくなってしまう…そんな途方もない難しさを感じることもあるのではないかとも感じています。
幼少期から「ここにいてはいけない」という感覚を持ちながら、学生時代は「おりこう」だったことも、あなたがそうありたかったというよりは、そう生きなければ自分を保てない環境だったからこそ、必死に適応されてきた側面もあるのかなと想像していました。「おりこう」という鎧を身につけることでご自身の心を守っていたのかな…と。
家庭以外で勇気を出して頼った場所で拒絶されたことも、それは外の世界までもが「助けてくれない場所」だと突きつけられるような、心細い体験だったのではと思います。あなたも書いてくださったように、そこがありのままの気持ちを安心して話せる場所だったらよかったのに…と悔しい気持ちになってしまいました。
今は、対人援助職として働いていらっしゃるのですね。保護者の方が「つらい」と話すとホッとし、「かわいい」と話すと困惑してしまうという感覚…。私は、それが今のあなたにとって自分の心を守るための、とても自然で切実な反応なのかなと感じています。あなたにとって「拒絶」や「つらさ」は、悲しいことであると同時に、ある意味で「嘘がない」と信じられる、慣れ親しんだ世界にも見えているのかな…と、私の目線にはなってしまいますがそう思いました。逆に、無条件の愛や、大切にされるという光景は、あなたの経験では測れない「未知のもの」であり、いつ手のひらを返されるか分からない「恐怖」にも似た感覚があるのかもしれない…とも想像していました。(あくまで私の勝手な想像にはなってしまうんですけれどもね。)
「気持ちが2つ以上あっていい」という気づきに27年かかったとも書いてくださっていましたね。あなたにとっては、あまりにも長い道のりで、「もっと早く気づきたかった」と感じてしまう事も、もしかしたらあるかもしれません。けれど私は、あなたが悩み、カウンセリングやAIを活用したり、薬の助けを借りたりと試行錯誤しながら過ごしてこられたその27年という時間があったからこそ、今のその深い気づきに辿りつけたんじゃないかな…と、そう感じていました。
「わたしはこのわたしでやっていくしかない」という言葉は、傷を無理に埋めるのではなく、その傷も含めて自分なのだと引き受ける、静かな覚悟のようにも私は受け取っています。あなたがご自身のペースで「悪くないな」と思える瞬間が少しずつ積み重なったらいいな…と私の気持ちを勝手ながらお伝えしたくなりました。またいつでも、気持ちがギューッとなったときには、ここに書きに来てくださいね。