経験談

生きづらさを感じる人が語る 経験談

経験談はそれぞれの投稿者の個人的な価値観や感じ方をそのまま掲載しています。一部、リアリティのある描写や強い価値観が含まれるため、読む人にとっては負担等を感じる場合もあります。各自の判断で閲覧してもらえるようにお願いします。

永遠に成長しない私

現在大学2年生。私より不登校歴の長い人を見たことがないくらい長期間不登校でした。
進路未定のまま中学を卒業し、未所属の時期に自殺未遂も経験しました。失敗しましたが、そのことは家族にも誰にも言えずにいます。
それから半年遅れて通信制高校に入学し、さらに半年遅れて実質一年浪人で大学入学しました。
今に至るまで単位も落とさずサボらず通えており、学生の本分を果たせるようになったと安心したのも束の間、また強い希死念慮に苛まれるようになりました。

きっかけは今年から就活サークルに加入し、就活を意識し始めたことだったと思います。
サークル活動で自己分析を行うことになり、小学生の頃から現在までを振り返って今の性格が形成された経緯や今までの出来事などを書き出すというワークに参加しました。
周りが部活動やバイトなどガクチカとして立派なエピソードを書き連ねる中、私は自分の人生があまりにも空っぽであったことを改めて実感し愕然としました。
その時は大学に入学して以降のエピソードを絞り出してなんとか終えたものの、その後のワークでも同じように自己嫌悪に襲われることが多くありました。

空っぽなのは過去の私だけではなく、今もそうなのだと思います。
毎日大学には通うけど、それだけです。バイトもできず、ボランティアもできず、アクティブなサークルに所属しているわけでもない。
サークル長の演説で「こうするといい」という知識だけは入ってくるのに、全くその通りには動けない自分とのギャップで、どんどん希死念慮が強くなりました。

働くことは生きることと直結しているため、一度希死念慮が湧いて出てくると就活に意識を向けること自体難しくなりました。
そもそも生きていたくないのに、なぜ働くの?なぜ休むの?なぜ稼ぐの?いつまで生きることに耐えられるかもわからないのに、長く働けそうな企業に就職することになんの意味があるの?などと考え始めると止まらなくなります。

同じタイミングで姉から、「国家資格をとる学部にいるとかサークルとかで忙しいわけでもないんだからバイトしろ」「働いたことない人にも元不登校にも世間の目は厳しい」「就職できなかったら迷惑するのは家族だから」と言われたこともプレッシャーになっていると思います。
言われたことが傷になっている気がします。ですが今まで家族に散々心配と迷惑をかけた分、これ以上負担になってはいけないとは私も思っているので言い返せません。

なぜ周りはあんなに活動的なのかわかりません。
どうして毎日学校に通って、バイトして、遊ぶことを並行できるのでしょうか。
学校に通うので精一杯です。土日は外に出られません。友達とも講義以外で顔を合わせるのは煩わしいとまで感じてしまいます。
一人で没頭できる趣味はありますが、楽しい、嬉しい気持ちと死にたい気持ちは別腹なので、どれだけ楽しいことをしてもそれで死にたくなくなることはできません。
楽しい予定を立てていると、その日まで生きる予約をしているようでしんどく感じる時もあります。

サボらず大学に行こうが、友達がいようが、資格を取ろうが、それで「自分は普通じゃない」という気持ちが和らぐことはありませんでした。
そもそも普通になることが私の幸せなのかもわかりません。ただ周りから求められるから普通を追いかけているだけです。普通がなんなのかもわからないのに。

今までの人生、歳をとればとるほど辛いので、社会人に希望を持てません。
実際、実家暮らしの学生というぬるま湯に浸かりながら勝手に溺れている私は社会の荒波に耐えられないだろうとも思います。

もはや希死念慮を抱えていることは私にとっては当たり前なので、それで特別焦るというわけでもありません。
ですが、ここのところ変な気がします。
いつものように悩みをぐるぐる考えていても、気がつくと死ぬ方法を真剣に考えている自分がいます。
口癖のように「あー辛い、死にたい」と考えることはあったものの、ここまで死について意識しているのは中学生以来な気もします。
とっくに成人ですが、15歳かそこらの頃から何も成長していないということです。

「いざとなったら死ねばいい」と思っているくらいの方が生きていて楽なのは中学生の頃に実証済みですが、その分突発的に実行してしまうリスクも孕んでいます。
このまま結局ダラダラ卒業まで生きているかもしれないし、どこかのタイミングで糸が切れて死んでしまうかもしれない、半々の気持ちです。
正直、自分でも自分のことがわからなくなっています。

感想1

人によって生きるために使うエネルギーや消耗後の回復時間はかなり違うと私は思っています。しかし、それは見えないので、ほとんどの人は自分を基準に考える傾向があります。もしくは、多くの人たちが基準とするものを普通と思っていることも多いかもしれません。実際に見えなくて、比較もできないため、ある程度そうした傾向があるのは仕方のないことかもしれません。しかし、その基準によって苦しめられる人がいます。あなたの経験談を読み、そんな見えない違いについて考えています。いろいろなことを一度にやって充実する人はそれはそれでいいと思いますが、一つのことを自分のペースでやるのだってそれでもいいと思います。しかし、どうしてか何もかもたくさんする方がいいことで、優れていると思われ、できない人は劣っているという考え方になってしまいがちです。そもそも人間を含む生物は機械や商品と異なり、能力や個性は異なるので、そうした基準にあまり合理性はないと思うのですが、社会の中に浸透している能力主義や効率主義の発想が知らず知らずのうちにあちこちで発動して、無意識のうちに求められるような人になるように、社会に適応するようにと圧をかけてくるように思います。
そんな圧をおそらく、あなたはずっと受け続けてきたのだろうと思います。あなたのせいではないと思います。不登校はその事情や状況に関係なく、挫折のように思われがちですが、学校が性に合わない人もいると思いますし、学ぶ環境として苦しい人も一定数いると私は思います。働き方も同じで、週に5日間8時間を上限にした法律がありますが、いつしか週5日8時間働くことが最低限のような意識がある節もあります。そして、週5日8時間働かなければ最低限の生活費を稼ぐことができない現実もあります。人によって働ける時間や日数も異なるはずです。そして、力を発揮できる環境も異なります。でも、学校も仕事も用意された基準に合わせることが求められ、課せられ、それに適合しないとダメ出しをされるような扱いを受けてしまいます。そんなスタンダードがあると私も感じるので、あなたが死にたくなるのももっともな話だと思います。そもそも基準がおかしいと心から感じます。(ここで、私が熱く訴えても、すぐに変わるものではないのですが…)
成長していないとあなたは表現していますが、あなたに合った成長する環境やチャンスを与えらえず、無理を強いられたり、不要なダメ出しをされてきたのですから、成長できないとしてもあなたのせいではないし、無理もないことだと思いました。むしろ、そのような中でここまで生き延びて、その気持ちを書いて送ってくれたことに意味があると私は感じました。大学の就活サークルでやった自分の人生を振り返るワークには、私は魅力を感じませんでした。基準はあらかじめ決まっていて、それぞれの人がいいと思うことや魅力的だと思うことを出し合うような場ではないと思ったからです。むしろ、あなたが長い時間をかけて重ねてきた時間や悩みや苦しみを聞いてみたいし、話してみたいと思いました。そこに今私たちが本当に考えなくてはならない大事なことがあると思うからです。だから、基準や見方を変えるとあなたは空っぽでもなんでもなく、あなたが積み重ねた生きることへの問いが詰まっているように思います。その一端をこうして書いてくれたことに敬意を伝えたい気持ちになります。あなたは自分が感じることや考えることに耳を傾け、それを軽視しないからこそ長年苦しんできたのではないかと思いました。私たちは何を大切にしたらいいか、改めて考える必要があると思いました。投稿、ありがとうございます。

感想2

長い不登校の期間にあなたはどんなことを思ってきたんだろう、どんな風に過ごしていたんだろう…ひとりで部屋にいるあなたの姿を想像しながら読み進めました。
中学生になると自分一人のことだけではなくて、周囲と自分を比べることで焦ったり、今まで考えなかったようなことを考えたり、感情がうまくコントロールできなくなったり、そんな時期なのかもしれません。それにしても終活サークルでは閉じ込めていた記憶や感情を掘り出された感じで、自分でも対処に困ったのではないでしょうか。
私は「就活」や「キャリア教育」などといったものに違和感を覚えています。なぜなのかなって私なりに考えてみると、理想的なキャリア形成のモデルとか価値観みたいなものがジワっと社会には存在していて、そこに乗っかれるのが良くて乗っかれないのはダメみたいなイメージがあるからだと思います。あなたが言う「普通」を求められるというか。キャリア教育や就活で指導する学校側には生徒一人一人に就職してもらいたい気持ちはあるのだと思いますが、その学校側も社会のあるべき論「普通?」に飲み込まれているような気がします。(あるべき論の片棒を担いでいるというか…)サークル長の演説内容もそのひとつなのかもしれません。そういった集団にいることで、そこに乗れない自分を責めてしまう構図が生まれそうです。
あなたの根底に死にたいがあるのは、人知れず長い間何か生きづらさや抑圧を抱えてきたのかなと想像しました。自分が分からない(言い換えると意思や感情を感じ取る、整理して考えることが難しい)感覚を持っている人の中には自分の感情や意思の否定された経験をもっている人も少なくありません。今もそしてその先もどうしていいか迷子になっているときは不安だし、怖いし、生きていくことを考えると足がすくんでしまう場合もあるかもしれません。そんな時はこうやって自分のことを何らかの形で言葉にすることで少し見えるものがあったり、安心感を覚えたりすることがあります。
少し話が戻りますが、私は「普通」だけではなくて「立派」とか「偉い」という意味が昔からわかりません。どういうことが立派とか偉いと言うのかピンとこないんです。できる、できないで評価しているから違和感があるのかなって思います。だからあまり集団の塊に入ることを好みません。同調圧力みたいなものも嫌だからです。社会人に希望が持てないあなたの感覚も分かる気がします。
今回のようにこうやってあなたの経験を言葉してくれたことは、あなたが自分自身の成長を促すことになるかもしれないなって思いながら、私の方が色々と考えさせられました。あなたなりに実は成長しているはずなので、時々こうやって言葉にしてみませんか?匿名のSNS相談に話してみるのもおすすめです。もちろんよかったらここにもまた来てみてくださいね。

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