経験談

生きづらさを感じる人が語る 経験談

経験談はそれぞれの投稿者の個人的な価値観や感じ方をそのまま掲載しています。一部、リアリティのある描写や強い価値観が含まれるため、読む人にとっては負担等を感じる場合もあります。各自の判断で閲覧してもらえるようにお願いします。

逃げ出したいな〜

小さい頃自分が死んだらどうなるんだろうって考えてみて、どこからどう考えてもどんな生物も人間も最終的には無になるんだって思った。
そのあと神様とか仏様とか天国とか地獄とか色々な生前の行いや死後の世界の考え方を知って、どうにか縋ろうと、生きてる間だけは信じるものが必要だからと思ったけど、無能だから頑張っても苦しいし、たまに楽しいこともあるけど一瞬で一瞬すぎて大体が辛い思いをするばかりで生きている意味もわからなくなった。早く死んだほうが辛い思いもする時間が少なくて早ければ早いほどおトクなんじゃないか!って思うと同時に、具体的な疾患とかがあっても日本じゃ安楽死もできなくて、終わらせる方法が(死ぬのが怖いのは生き物だから仕方ないけど)物理的に痛かったり苦しい方法しかなくて、それを実行する根性すらない。頑張って働いてもどんどん世の中の発展とともに要求されることのレベルは高くなっていく。発展していく世界と裏腹に無能だから適応できないのに頑張って疲れ切って、稼げてもいなくて抜け出そうとして手を出したことも失敗してさらに困って、惨めになっていく自分。普通のある程度の苦痛が少ない生活すらどんどん遠のいて、身の程にあうレベルは「普通」とは程遠いという現実にヒステリーを起こす感じ。生まれなければよかった。どうしてもこの世界に命として生まれてくる必要があったのなら、路傍のひと夏だけ生えて枯れる葉っぱとかでその義務を終わらせたかったな。多分、私にとっての地獄は今で、死んで無になったら解放されるんだと思う。死という過程を飛ばして消えられたらな。いちおう私が死んだあとも世界が続いていくのは理解しているつもりなので、わずかに私を知っている人に万が一死ぬことで辛い思いをしてくれる優しい人がいたらいけないし(いないと思うけど)みんなに忘れられた上で消えされたらそれが多分一番私はしあわせなんだと思う。でもここにこんな文章を書いていること自体は矛盾しすぎてるし、多分それすらも高望みなのかな。もう何も考えたくないし逃げ出したいからポチって押したら人生が終了するみたいなボタンが欲しいよ。ごめんねあんまいないだろうけど読んだ人がいたら忘れてね〜

感想1

投稿ありがとうございます。
死後の世界、私もよく考えることがあります。もし自分がこの世を去ったとしたら、その後はどうなるんだろう、天国?地獄?無?ファンタジーだけど転生?いろいろな思考が頭をよぎります。結局、いろいろ考えた末にたどり着いたものはあなたと同じ「無」でした。
楽しいと感じる瞬間は一瞬で過ぎてしまうのに、つらい瞬間はもはや瞬間ではないし時に鮮明に思い出してしまう…人の生存本能(「つらい記憶=危険」の回避のため)として正しく機能していると考えれば妥当なことかもしれません。が、技術の進歩や、SNSの普及に伴い、より優れたものが目に映ってしまう環境が身近にあることは、他者と比べることを容易にしてしまい、結果的に自分を追い詰める機会が増えてしまっているように感じます。私も他者と比較して落ち込んでしまうことがぼちぼちですが、ひょっとしたらあなたもそうなのかな?と感じました。ただ、つらい気持ちを抱えながらも、「何とかしよう…!」と社会に適応するために頑張り、はたまたそこから抜け出そうと必死にもがいているあなたの姿を想像し、「見習わないとなぁ…」としみじみ感じているところです。
某映画で、「人は二度死ぬとされていて、一度目は肉体的なもの、二度目は世間的(情報的)なもの」という設定があるのですが、二度目の世間的(情報的)なものは「この世の誰の記憶からも当人の存在が消え去ったとき」だそうでした。この映画で言う二度目のものがあなたのいう「消える」にあたるのかな、なんて思いました。(映画の話なのでフィクションですが、なんとなく腑に落ちた部分があったのでお話させていただきました。)
つらい気持ちを吐き出すことに「つらい」以上の理由は必要ないと私は感じていますし、あなたが今感じている気持ちはこの投稿を通して少なくとも私には伝わっているよ、つらい気持ちや消化できないもやもやした気持ちが吐き出せないときは、またこうやって書きに来てもらえたらいいなって思いました。
改めて、投稿ありがとうございました。

感想2

「逃げ出したいな~」「忘れてね~」、重い響きにならないようにと、相手をおもんばかる文章のように感じ、普段から周囲に気持ちを寄せ、自分の事で時間を取らせたら悪いなと、「大丈夫、大丈夫」と言っているあなたを勝手ながら想像しました。

自分も「死んだらどうなるんだろう」と考えたことがありました。そして失恋を期にずっと気になっていた四国のお遍路に「何かを探しに行ってみた」ことがありました。毎日40キロくらい歩き、日に焼けなんだか精悍な顔つきになっていきました。けれども、歩きながらいつも考えていることはお腹空いた、足が痛い、そんなことばかりでした。あなたが書いているように、信じるものが必要だと思いましたが、あえなく棄権したことを思い出しました。

「頑張って働いてもどんどん世の中の発展とともに要求されることのレベルは高くなっていく。」、自分の業務のこの部分が、仕事、しいては社会全体のどの部分に役に立っているのか、わかり難くなっていく一方で、個人への要求は上がり続け、出来たことよりも、出来なかったことばかりに目を付ける、そんな風潮をひしひしと感じています。人生にふりかかる様々なことのほとんどを、自己責任という言葉で片づけられそうになる場面はたくさんあるのですが、「頑張っても苦しいだけ」という世の中の責任は個人だけにあることなのだろうか?と、神様や仏様に聞いてみたいところです。投稿いただき、ありがとうございました。

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