経験談

生きづらさを感じる人が語る 経験談

経験談はそれぞれの投稿者の個人的な価値観や感じ方をそのまま掲載しています。一部、リアリティのある描写や強い価値観が含まれるため、読む人にとっては負担等を感じる場合もあります。各自の判断で閲覧してもらえるようにお願いします。

頑張りたくないから死にたい

今までずっと「頑張らなきゃ」「ちゃんとしなきゃ」って思いながら、頑張り続けてきました。

手を抜くということが出来なかったし、駄目なことだと思っていました。逆に、頑張り続けるのは良いことだと信じていました。
だから「これが出来た」「これを頑張ってる」という姿を周囲に見せて、「頑張りたくない」「やりたくない」という感情は隠し、自分さえ騙して無視してきました。そんなだから、弱さを曝け出すことができず、相談も中々できませんでした。

1年ほど前、ついに何も出来なくなりました。きっかけは、職場の体制変更で業務内容が大きく変わったことでした。

ずっと頑張ってきたんです。遠回りも沢山したし、紆余曲折も多かったし、荒れた時期もありました。それでも「努力すれば報われる」「夢は叶う」と信じて、頑張って乗り越えて、やりたかった仕事に就きました。職場は遠方だったので、就職に伴って一人暮らしも始めました。
仕事はとても楽しかったです。「今までずっと頑張ってきたのは、この為だったんだ!」とさえ思えました。

だけど、業務内容が大きく変わり、精神のバランスが崩れるようになりました。
やりたかった仕事をする為に、遠方で一人暮らしをしていたんです。仕事の内容が全く違うものになったら、何の為にわざわざ遠方の地に1人で住んでるんだか分かりません。
やりたかった仕事ができたのは、たった1年間でした。これからずっと、定年まで楽しく働けると思っていたのに。これでやっと報われたと思っていたのに。たった1年間。
「今までずっと頑張ってきたのは、こんな喪失感を味わう為だったのか」と絶望しました。

だんだんとメンタルが荒れるようになり、疲れやすくなり、仕事を辞めて実家に帰ることにしました。
実家に帰った直後の約1ヶ月、昼も夜も眠っていました。眠くて怠くて、頭も何も回りませんでした。起きてる間は、毎日のように1人で泣き叫んでいました。

その後、心療内科に通い始めました。付いた診断は、ASDとADHDと気分変調症でした。
どうやら私は、普通に生きるだけでも人より努力が必要みたいです。もしかしたら幼少期、頑張らないと怒られることが多くて、「頑張り続けなきゃ」と強く思うようになったのかも知れません。

でもそれも全部、「もう頑張りたくない」と思う私が、言い訳の為に考えた後付けの説明かも知れません。
診断だって、本当にそうなのか分かりません。診察室ではいつも、本当のことを言ってはいますが、診断欲しさに無意識に少し誇張している気がします。もし診断が何も付かなかったら、頑張らなくていい理由を失いそうで、また頑張り続けないといけなくなりそうで、怖いんです。もし「あなたは正常ですよ」なんて言われた日には、もう立っていられません。
でも、処方されたADHDの薬を飲むとメンタルが荒れにくくなったから、薬が効くのなら診断は本当なのかも知れません。そう思いたいです。でもそれさえも、診断が欲しいから薬が効いたと思いたくて、そのせいで勘違いしているプラシーボ効果なのかも知れません。

少し前に、就労移行という福祉サービスがあると知りました。障害者向けとのことですが、精神疾患や発達障害でも利用可能とのことで、私も利用できるそうです。
何度か体験に行きました。とても居心地が良かったです。同じ机の人と無理に喋らなくてもいい。しんどかったら途中で抜けてもいい。出来なくてもいい。頑張らなくてもここに居ていい。そんな居場所でした。
体験後のお話の際、「ここは福祉だから、死にたい気持ちを吐き出す場所としても使って欲しい」と言って頂きました。凄く有り難いな、心強いな、利用したいな、と思いました。

でも、利用するなと止める私が居ます。
私の診断は、間違いかもしれない。本当は正常なのに、頑張らない言い訳が欲しいがために、ズルをしてもぎ取った診断かも知れない。就労移行なんて甘い場所で怠けてないで、早く社会復帰しないといけない。頑張り続けないといけない。甘えてはいけない。怠けてはいけない。何もしてない私が情けない。早く動け。診断を言い訳にして逃げるな。お前は正常だ。頑張りたくないなんて甘えたことを言うな。みんなもっと頑張ってるのに、恥ずかしくないのか。
そんな声が、ずっと脳内で私を責めます。

もう何が正しいのか分かりません。
「私を責める脳内の声」だと思っている言葉が正しくて、今の私は本当に怠けているだけで、診断も全部間違いで、早く動かないといけないのかも知れません。
「今は休みなさい」「それは怠けじゃないよ」「焦らなくて大丈夫」なんて甘言は、堕落への誘惑かも知れません。信じたくなる言葉は、耳障りが良いだけで、私の人生の責任を取ってはくれません。

なんか、もう、疲れました。
これ以上考えたくない。頑張りたくない。全部終わりにしたいです。

でも、半年ほど前に自殺未遂をして、凄く苦しかったんです。1秒だって耐えられませんでした。
死ぬ瞬間は覚醒状態になるから、どんな死に方も苦しいんだ、楽な死に方は無いんだと聞きました。
死さえも、逃げ場になってはくれないみたいです。

感想1

読みながら、大変切なくなりました。自分の努力や頑張りを頼りにし、自己責任の元それぞれがより良く生きてね、という世の中の見えない戦法が憎らしく思いました。目標や条件だけを目印に人は生きていけるのでしょうか。何事も正解はひとつだけなのでしょうか。いい訳が無いと、自分自身の休息が取れない社会は正常なのでしょうか。何度読み返しても、あなたはずっと頑張ってきた。「私の人生の責任を取ってはくれません。」とファイティングポーズを崩さない差し伸べられる手もすぐに払われるのではと用心する。あなたが世の中を信用しない理由が、これまでいくつも重なってきているのだろうと傷ついてきたあなたを想像します。頑丈な盾を持ちながら鋭い剣を振り回す、疲れて当然だと思います。画一的な価値の中で生きるということは、そこから逸れると自分も他人も「良」「悪」の二択のような気がします。職場の体制変更で業務内容が大きく変わったことも、あなたにとっては「悪」で夢も希望も奪われたという出来事になったのかと思います。これまでと違う価値に触れた時、脳内が抵抗するのはあなたが真面目に学習してきた成果かと思います。社会は「甘えるな」という言葉だらけだからです。あなたの今の辛さを十分承知の上で、少しあなたの治癒力を見守ってあげて欲しいそんな風に思いました。投稿いただき、ありがとうございました。

感想2

読みながら、あなたは実はずっと限界スレスレのところを走ってきたのかもしれないと感じました。頑張らなければ、という気持ち1つで走り続けてきて、ようやく報われたかと思えば、ほどなくして終わってしまった。仕事という自己実現の手段が絶たれたこと自体も絶望だったろうと思いますが、それだけでなく自分の「頑張り」や生き方さえ否定されたような、そんなショックの大きさだったのかなと想像しました。
ずっと走り続けてきたら、途中で「頑張りたくない」「もういやだ」と感じるのはとても自然なことに思えるのですが、あなたはそう思うことさえ自分に許すことができなくて苦しんでいるように見えました。そこにはどんな感情があって、どんなまなざしがあなたの気持ちを抑え込もうとしているのだろうと思いを巡らせています。

そもそも世の中全体に、誰かに許してもらわないと休んではいけないような空気が漂っているのは1つあると思っています。自分で全部やる、躓いたら自分でリカバリーする、それが美徳とされているような気がして、気が済むまでゆっくりしてから戻る、みたいな選択をするのはすごく難しいなと感じます。
一方で、世の中や周りがどうあれ、自分の中で自分を許せない、怠けてはいけない、と思うこともきっとあるよなあと個人的には思います。私自身、特性による不得手を、事前の脳内シミュレーションや感性の敏感さで必死にカバーしながら、「バランスの良い人」「自分で何でもできる人」であろうとしてきた幼少期~現在があります。今では、世の中の風潮が内在化され自分を苦しめていると思うことも多少ありますが、同じくらい「自分で自分を許す」ことの難しさと悩ましさ、そして「自分で責任を取らなくては」という気持ちもたしかな感覚として持っています。休めない世の中に適応したいわけではないけれど、今の自分の在り方や考え方そのままに納得しているわけでは決してないというか…。そんな私にとってのあなたの経験談は、「出来ることなら、頑張り続けられる自分でありたかった」という願いのようにも受け取れました(私自身がそう願っている節もあるなあ、と書きながら今感じています。自分とあなたを不用意に重ねてしまっていて、全然ズレていたらすみません)。

「ずっと頑張れていたのだから」「頑張らなければ」「頑張る以外のやり方なんてわからない」そんな”頑張る”にまつわる様々な感情がぐちゃぐちゃになって、あなたを取り囲んでいるようなイメージが浮かんでいます。どれが正しいか、どれを選んだら楽になれるのか、答えがないから簡単にはすっきりしないなあと感じます。今回のように、1つずつ言葉を介して降ろし、吐き出していく過程が、時間がかかる分結果として、「”頑張る”とはまた別のあなたの過ごしかた(在り方)」の1つになればと、勝手ながらにそう思いました。

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