経験談

生きづらさを感じる人が語る 経験談

経験談はそれぞれの投稿者の個人的な価値観や感じ方をそのまま掲載しています。一部、リアリティのある描写や強い価値観が含まれるため、読む人にとっては負担等を感じる場合もあります。各自の判断で閲覧してもらえるようにお願いします。

死ぬよりも怖いこと

読んでいただいてありがとうございます。

前置きとして、助けて欲しいというより、ただ吐き出したいという趣旨の内容として軽く見ていただきたいです。何故わざわざこんなことを書くか?と言うとおそらく読めば重たい気持ちになると思うからです。それを悪いことであると私自身が認識しているからタイトルのようなことになるし、表立って助けを求めようという発想にもならないのだろうなと一応自己分析はしているのですがね…。

話を始めますが、私は最近自分の思っていることをネットに書くようにしているんです。主に将来の方向性とか未来志向的なものです。それで公開するからには少なからず他人の意見というのも参考にしたくて、目の前の石ころを拾うくらいに「誰にでもできるけど、誰も思い付かなかった」ような盲点を突いた発想というのを日々探しているんです。何故こんなことをするか?と言うと、人前でどんな振る舞いをしていようと、幼い頃から一貫して自分が1番になりたい!という野心があるからです。しかし私は現代の著名人のような成功モデルとはかけ離れています。

過去天才だと思った人というのは「好きなこと」と「得意なこと」がピッタリ噛み合っており、努力を努力と感じさせないような軽やかさで日々精進していました。私も物事に対して年単位で必死に努力をしたことはありますが、段々毎日の努力が夢の実現の為ではなく義務感でやるようになり、例えるなら私がヒエラルキーのトップ層に辿り着いたかと思えば、天才というのは既に枠組みを越えた領域に進出していました。正に次元が違うなと思い知らされました。

例えば海を泳ぐとして、魚は泳ぐことなんて朝飯前のことだと思いますが、人間が泳ごうと思ったら努力が必要だし、努力をしても魚と競争して勝てないのは想像に難くありません。つまり天才というのは現代という海に適応した魚のような人たちであり、私のような凡人が人間のまま闇雲に努力したところで贔屓目に見て中間層ぐらいで丸く収まるのが関の山だと思っています。

それでネットに書き込んだのは、じゃあ既存のコンテンツで自分の「好き」と「得意」が噛み合うものがないなら、自分で新しく作れば良いじゃないか?、いきなりそれを社会システムに落とし込もうとした所で無謀なのは百も承知だから、まずは社会の縮図たる娯楽の対戦ゲームのシステムにて試行錯誤して実験的に表現してみたいな…と思って、そういう内容を投稿したんです。つまり凡人が凡人であることを認めた上で、現代の天才と呼ばれる人たちに一泡吹かせてやりたい!ということです。

以前は争いはいけない、みんな平和に!という考えに賛同していたのですが、心からそのように思うならともかく、私の場合はどうせ努力しても勝てないから…という諦めから来る消去法的に賛同していたので内心すごくモヤモヤしていたのですが、今はやっとやりたい道が見えたなという思いです。

そうやって夢を語れるし、今の自分が出来ることというのを考えたまでは良いのですが、思ったよりその投稿に関心を寄せた方が多かったようで、たくさん返信をいただいたのですが、ほぼ全員アイデアの話というより、構って欲しい、個人情報を知りたい、出会いたい、これらのいずれかに該当していて(私の思い込みです)、ログインするのも億劫なくらいに気持ち悪くなってしまったんです。

あぁ…また軽い自己紹介と感想からの、次の一手は悩み相談か個人情報の聞き出しかな?みたいに考えてしまって、私は本当にただゲームのシステムの知恵を出し合いたいだけなのですが、「話し合いの場」にそれ以上の価値や意味を見出して過度な期待をされている方がよく見受けられるのです。

もちろん色んな人がいると思いますので、投稿すればどうなるか?くらい全くわからない訳ではないつもりですが、相手の求めているものを理解してしまうこと(私の思い込みです)、それが私のそれとまるでベクトルが違う方向であることが、心が重くなると同時に孤独感もあるという、何とも形容し難い気持ちになるんです。

それで気付いたのですが、私は他人に近付かれることが何よりも怖いのだなと最近自覚してしまいまして。元々私はネガティブな所があって、生まれても結局は死ぬだけ…って思うような人間でしたので、痛いのとか怖いのは嫌だな…という死に方に良し悪しはあれど、死ぬこと自体が悪いとか避けたいと思ったことはないんです。

じゃあ何でもできるじゃん!と言いたい所なのですが、どうも他人を心の底から信じられない性分で、どんなに長年の付き合いで認めている人でも、お互いにあまり干渉しない一歩引いた関係が一番居心地が良いと思うように、私自身に関心を寄せられると途端に逃げたくなるんです。

個人で考えられることに限界があることは理解していても、そういういざ他人を信じるとか、同じ志を持って何かに取り組むとはどういうことなのだろう?とまた新しい悩みが出てきた今日この頃です。

結局私1人でやれば良いじゃないかという話にもなるのですが、先も書いた通りAIも含め個人の発想なんて大体傾向があるので、本人はいくら深く考えたつもりでも、昨日まで砂糖だったものがいきなり塩になるようなことは基本的にないと思っているので、だからこそ共同作業を夢見ているのですが、距離感にすごく悩むという話でした…。正しくは距離感云々というより、単にベクトルが近い人と出会っていないだけという気もしますが…。

最後まで読んでいただき、ありがとうございました。

感想1

経験談を寄せてくれてありがとうございます。あなたの思考と経験を丁寧に開示してくれていたので、あなたとは別の経験をして生きてきた他者としてなるべく率直に書いてみようと思います。
まず「1番になりたい」については、あなたがそれをどんなものだとイメージしているのだろう、と気になりました。「盲点を突いた発想」をすることや「天才」という言葉が出てきていたので、それが「1番」とニアリーイコールの存在なのだろうか?と考えたりもしています。
私の中ではなにを以て1番とするのかが、そもそも難しい気がしています。たとえば、クラスに所属しているときその中で何かのテストの点数を比較して1番は決められそうです。あるいは模試みたいなもので順位が出る場合も1番はありそうです。でもそれは過去から現在、未来までの時間軸の中の一回にすぎませんし、模試もテストも無数に行われています。ただ点数化できない価値のほうがこの世には多いように思います。絵画や音楽といった芸術分野もあれば、スポーツなど、あるいは性格など。世界にはあまりにも無数の、さまざまな価値があります。だからこそ1番になるということは、逆説的に、土俵と枠組みを規定し「その外側は見ない」という制限が必要になります。私はそれがとても難しいことのように感じています。私は「私にとって1番」と思うことがいろいろとあります。好きなものや、大事なもののことです。でも、それはあくまで「私にとって」であり、社会や他の人とはあまり関係のないことだなぁと思います。
あなたにとって、なりたい姿や憧れるイメージは非言語的に存在して、それに自分なりに近い言葉を当てはめるなら「1番」ということなのだろうか……とも思ったのですが、どうでしょうか。

読んでいると、そういうことがあなたなりにまとまってきて、自分なりに試行錯誤しながらの「夢」なのかなと感じました。ただ、それを他者との関わりの中で実験しアップデートしていくにあたり、インターネット上で表現し始めると、それが他者にうまく受け取ってもらえなかったり、ニーズの違いを大きく感じるものが多かったりしたのかなと思います。
相手の対応からパターンを抽出して、過去の経験と照らし合わせる作業を無意識にやることで、防衛してきたのかなぁと思いました。「私の思い込みです」と書いてあったけれど、それはこれまで、あなたなりにコミュニケーションに対処するために行ってきたものだったのだとも思いました。ただ、危機管理としては有益だとしても、それ以外の可能性に自分でも気づきにくくなってしまう難しさがありそうだと感じました。
私は「話し合いの場」であっても、相手への興味や関心を持ってしまいがちな方で、私とは違う感性の他者を知ることが自分にとって大切な日課のような感覚があるので、この経験談への感想自体、あなたにとって踏み込みすぎたものであったらすみません。

「個人の発想なんて大体傾向がある」というのは私もすごく賛同するところで、思考において他者は唯一の裂けめとなるとても大事なものだと感じています。そして、だから私は他者の話を聞かせてほしいという思いが強くあるのだと、この経験談を読みながら改めて感じました。私はADHDという発達障害の特性が結構強く、いわゆる定型発達の人とも自閉スペクトラムと呼ばれる人とも、人間関係の中で「違い」を感じることが多くあります。もちろん、発達特性よりも個々人の個別性のほうが大きく、発達障害だけで片付けられることではないのですが、さまざまな違いを日々感じるからこそ、私とはなにか違う感じ方・認識の仕方や感情のバランス、そして経験を持つ人たちのことを教えてもらいたいと思う気持ちがいつもあります。ただ、そういう関心を対話に持ち込むことがノイズになってしまう場合もたしかにあるなぁ、と改めて考えました。
でも、それももっと考えればノイズのないコミュニケーションはほとんどありえない気もしてきています。ノイズとなるか・ならないかは、結局のところノイズと感じられるか・感じられないかという部分に尽きるかもしれません。弦楽器の音楽は世の中で愛されてきているものだと思いますが、聴覚過敏でヴァイオリンの音がどうしてもつらいという人もいます。コミュニケーションの中でハラスメントや無遠慮な踏み込みは廃れていくことを願っていますが、それ以外の部分については、自分にとってなにがしんどくて、なにが心地よいのかを私なりに知っていきつつ、他の人のあり方にも目を向けていくことしかできないのかなとも考えました。あなたにとって心地いいコミュニケーションは、あまり踏み込まず踏み込まれない中で、あらかじめ規定された目的からずれることなく行われるものなのかなと想像しました。

「生まれても結局は死ぬだけ」というのは私も同感なのですが、それってすごいことだなぁと個人的には思っているので、あなたにとってそれがネガティブに感じるのはなんでだろうと思いました。そもそも生まれたこと自体が奇跡の積み重なりのようなもので、生命がここに存在している事実だけでびっくりするぐらいすごいことだと私は感じます。意味がないことは苦しいことというような言説もありますが、むしろ意味なんてなくても存在できていることが一番の奇跡のようにも感じるのです。
また死よりも他者への恐れがある中で、それでもインターネットに自分のことを書き、死にトリにも経験談を投稿しているあなたは、あなた自身の変化や可能性を見据えているように感じました。

感想2

経験談への投稿ありがとうございます。
一般的に「死」という概念は恐怖の極地として語られることが多いように思いますが、それ以上に怖いと感じることがあって、それは一体何なのだろう・・とタイトルに目を引かれました。

冒頭に読み手への影響を案じる言葉がありましたが、私は終始興味深く読みました。なぜそう感じたのだろうと考えてみると、あなたの自分の思考や目の前で起こっていることを丁寧に分析して言語化する力や、湯水のように次々と湧き出る言葉の豊かさに圧倒されているからかもしれません。

「自分が1番になりたい!という野心があるからです」との言葉には、どこか清々しささえ感じてしまいました。
自分の視点を広げてくれるような新しい発想に出会うには、まず自分の思っていること、感じていることを公にするのは一理あるなと思いました。
天才を海の魚になぞらえた例えは分かりやすく、「確かに・・」と思わず納得してしまいました。
凡人の私から見ると、あなたも十分才能に溢れているように思いますが、あなたが求めていることは、称賛や承認ではなく、自分という人間に対する何かしらの手応えのように感じました。
努力を努力と感じさせないような軽やかな振る舞いには、憧れや嫉妬など、さまざまな感情が入り乱れているのでしょうか。
天才と呼ばれる人たちにも何らかの苦悩があるように想像しますが、取り沙汰されるのは成功した部分だけで、実態が見えにくいようにも私は感じています。

社会をゲームのシステムとして捉える表現は、面白いなぁと思いながら読みました。
長く続く不全感を土台にして練り上げた閃きが多くの人の目に止まることは、喧々諤々と意見を出し合うようなイメージがあったのでしょうか。
あなたが言うように「いろんな人がいる」と片付けてしまえばそれまでなのかもしれませんが、想定とは違った反応への失望感や、真剣であるが故の寂しさのように感じました。

思いがけず他人との距離感について考えるようになったことが書かれていましたが、自分に関心を向けられる恐怖について、お返事を書いている私もどこか覚えがあり、小さく頷きながら読んでいました。
相手側が、こちらの距離感を尊重して関わってくれたりするならば、少しは違うものなのでしょうかね。
他人を信じること、同じ志を持って協働するということは、私自身も未だ問いの中にいるように感じます。
つらつらと思ったことを書いてしまいましたが、また言葉を交わしてみたい思いです。
よかったらまたお話を聞かせて下さい。

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