経験談

生きづらさを感じる人が語る 経験談

経験談はそれぞれの投稿者の個人的な価値観や感じ方をそのまま掲載しています。一部、リアリティのある描写や強い価値観が含まれるため、読む人にとっては負担等を感じる場合もあります。各自の判断で閲覧してもらえるようにお願いします。

普通とは

20代後半のメーカー勤務です。

いわゆる「普通」のハードルが高く、
どうしたら楽に生きられるのか?について悩んでいます。

・生い立ち
医者の家系であったこともあり、母は私を医者にするため教育熱心でした。
小学生の頃は難関私立中受験のため、毎日習い事と塾に通い、母の望む成績や振舞いが取れない場合、暴力や暴言を受けていました。
11歳の時に、そのような生活に限界を迎え、家のもの(壁や鏡、窓ガラス、机など)を壊しました。
その日のことを見た父は、
「何も知らなかった」と言いました。

その一件以降、習い事と塾は全てやめて中学受験は拒否しました。
公立中学へ行き、自分が何したいかを考え、手を動かすことが好きだったので高専へ進学しました。
しかし、1年生で理想と現実のギャップに悩み、留年しました。当時の友人の助けもあり、その後はストレートで大学院まで卒業しました。

・過去の経験から現在思うこと
両親からは愛されていたとは思いますが、
家庭は私にとって寂しい場所でした。

母が私に厳しかったのは、
責任感の強さや自身のコンプレックスが
背景にあるのだと思います。
父が私の状況に気づかなかったのは、
家族を食べさせるため、必死で働いてくれていたからだと思います。
今の私があるのは父と母のお陰であり、
とても感謝しています。

しかし、このような生い立ちのせいか、
私は自分を肯定できず、否定的な言葉に愛情を感じてしまいます。
褒められても素直に受け取れず、誰も助けてくれないだろうという思い込みから、
周囲への警戒心も強いです。初対面で躊躇なく人とコミュニケーションを取れる人を羨ましく思うこともあります。

さまざまな困難に躓きながらも、自分なりに考えながら生きてきたことは、私の強みだと思います。
しかし、社会に出て、自分一人でできることなどたかが知れている。自分が無力であることを痛感することも多くなってきました。
自分はプライドだけが高く、中身のない人間になってしまったと感じます。

・私の性別について
また、私は性同一性障害(FTM)です。
性自認は男性ですが、体は女性です。
普段は男性として生活しており、私がFTMであることを知る人は限られた友人のみです。

恋愛面でも、シスジェンダーの方が躓かないところで悩んでしまいます。

社会的にも性別について配慮されることが増え、息苦しさを感じます。
自分の性別は恥ずべきものではないのに、
「普通」のハードルの高さに押しつぶされそうになります。

生い立ち、性別の両方からくる生きづらさからどのしたら楽になれるのか?
最近はそればかりを考えています。

まとまりのない文章になってしまいましたが、
読んでいただきありがとうございます。

感想1

投稿ありがとうございます。実は私も、「普通」に対して思うところがあるので、感想を書かせていただくことにしました。
あなたの投稿を読んで、改めて「普通」という言葉の意味を調べてみることにしました。複数の意味があったのですが、まとめると普通とは「ありふれている・特に変わっていない」ということを指す言葉のようです。この意味に従うなら、ある人を取り巻く環境によってありふれているもの・通常の状態はそれぞれ異なると思うので、普通って人によって変化するものなのかなと、私は思いました。
だけど、あなたは「普通」へのハードルを感じているし、その感覚には私も覚えがあります。そう思うと、先述した意味での普通だけでは、私たちの感覚は説明がつかないような気がします。だから私なりに、普通には「人それぞれの普通」と「社会が求める普通」との二通りがあるのではないか。そして私達にハードルを感じさせているのは、後者なのでないかと思い至りました。
というのも、私は「社会が求める(というか、私が求められていると感じる)普通」って、いろいろな人の「人それぞれの普通」がぶつかり合った結果、ものすごく高い、遠い所に行ってしまったような感じがしています。普通なはずのに、まるで手に届かない感覚というか…。そういう側面によって、私達は押しつぶされそうになっているのではないかと考えています。
例えば、あることを「できる」か「できない」か、どちらが普通かと問われると、人それぞれの普通においては、できるもできないも普通になりえると思います。でも社会が求める普通においては、高確率で「できる」だけが普通になってしまっている現状があるような、そんな気がしてならないのです。その現状が、潜在的に人々に与えている疎外感や無力感は、多大な物なんじゃないかと私は勝手に思っています。
そういう「社会が求める普通」に打ちひしがれている私としては、分野は違えど「普通」のハードルの高さや息苦しさを感じているあなたの気持ち・葛藤を、受け止めたいと強く思いました。そして何より、人や社会の求めとは関係のない、本来のあなたの普通・ありのままを尊重したいなと、あなたの経験談を読んで感じさせてもらいました。改めて、投稿ありがとうございました。

感想2

タイトルの問いが心と頭の中で反響し続けるような感覚で読ませていただきました。投稿してくださったあなたも、日々何かに悩んだり、「ズレ」のようなものを感じるたびに「普通とはなにか」「普通にするには」等の問いを自分に投げかけているのかなと想像しています。

あなたが生い立ちで受けた精神的なストレスや暴力は、言い換えれば常に「今の自分以外」になることを要求され続けるようなものだと思いました。その点、「否定的な言葉に愛情を感じる」というのは、他者からのまなざしとあなた自身の自己評価が混線し続けた結果、評価軸が自分の心と分離してしまった感じなのではと勝手ながら推測しました。社会に出て他者評価が物を言う環境に身を置く機会が増えると、「今の自分」と「そうでない自分」そして「自分が持ちえないものを持った他者」が同時に出てきて、どこに指標を置いて進むべきか、自分とはなにか…と、ますます分からなくなっている最中なのかなとイメージしました(私自身もまさに迷子の途中…という感じなので、偉そうに聞こえたらすみません…)。

終わり際にあった「どうしたら楽になれるのか?」という問いは、あなた自身の中でまだ続いていくのだと思いますし、同時に、今の社会に対する問いかけにもなり得ると思います。「生きづらさ」という(背景には個人では抱えきれない課題があるのとは別に、感覚として)極個人的なものを取り扱う上で、私は「普通」を自分なりの語彙で言い換えてみる方法を時々試みます。考えるタイミングによっても答えが違って面白いので、お伝えしたくなりました。改めて、投稿いただきありがとうございました。

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