経験談

生きづらさを感じる人が語る 経験談

経験談はそれぞれの投稿者の個人的な価値観や感じ方をそのまま掲載しています。一部、リアリティのある描写や強い価値観が含まれるため、読む人にとっては負担等を感じる場合もあります。各自の判断で閲覧してもらえるようにお願いします。

こころのトランスミッション

私はクルマが好きだ。
もちろん乗るのはマニュアル車だ。
エンジンの振動、音、タコメーターの回転数から
クラッチを踏んでシフトレバーを操作して
適当なギアを繋いであげる。
まぁたまにはエンストしたり
繋がりが悪い時もある。調子悪い時だ。

しかしながら私のこころは古いオートマ車の様だ
沢山ギアが無く、適切なギアが選択できない
それに加えてよく故障する
エンジンの動力を適切に伝えられないんだ。

しかしながらオートマ車もどんどん進化していて
今ではマニュアルより効率的に走るらしい
あとはギアという概念がなく
無段階に変速するものとかもあるらしい。
技術の進化とは恐ろしいもんだ……。
周りはとても上手にこころのギアを合わせてる

だけども……私のこころのギアは
ずーっと古くて壊れたまま…
誰でもいい、マニュアルでもいい
載せ替えてくれよ…

感想1

投稿ありがとうございます。
投稿者さんの想いが最後の一言に強く感じられました。
心のギアは本当に融通がきかないと感じます。心のギアにあった回転数で活動することが理想だけど、だいたい頑張りすぎて気づけばレッドゾーン(限界寸前)まで回転数があがってしまっているように思います。
そして、ずっと回転数が高い状態を維持し続けることは、エンジン(自身の心)に負荷をかけ続ける行為に等しいと感じ、だけどそれらが分かっていてもうまく調整できないもどかしさに苦しんでおられるのかなと勝手ながらいろいろな想像をしているところです。
そして、「古いオートマ車のよう」で「よく故障する」、「エンジンの動力を適切に伝えられない」投稿者さんの心の状態は、高回転を維持し続けていることで傷を蓄積した結果ではないかと感じ、「なんでもいい、誰でもいいから載せ替えてくれよ…」と思わずにはいられないな、と私も同じ立場ならそう感じるだろうなと思います。
投稿者さんの心のギアにあった回転数が見つかるといいなと影ながら願っています。投稿ありがとうございました。

感想2

こころとからだが思ったように繋がらない、加速したくても力が出ない、そんなもどかしさが表現された文章だと感じました。車が多くの部品の緻密な組み合わせによって動くように、人間のこころやからだも、すこし何かが欠けたり、いつもよりちょっと疲れたりするだけで思ったようなパフォーマンスを発揮できない…と考えると、上手くできない日が続いても、思うように動けなくてもすごく自然なことのような気がしてきます(メンテナンスが必要という点でも)。しかしどうして人間は「気力」や「気合」という不確かなものをあてにして急かされたり、こころとからだが連動していないと責められたりするのでしょうね。「思考」があって、それが過信されすぎだからだろうか…なんてことを考えました。

自分が止まっているときほど、周りはスイスイと進んでいるように見えますが、それは本当に進化・適応によるものなのか、それは本当に幸せなのかな?と疑問に思う私がいます。むしろこころとからだをおざなりにして、感性や身体のキャパを超えて摩耗(麻痺)することでかろうじて走っているだけなんじゃないかなと思ったり…。耐性が上がることって、いいことなのでしょうか…当分ぐるぐるしそうです。
車になぞらえて考えてみることで、ふだんでは思いつかないところまで発想を飛ばせたような気がしました。投稿ありがとうございました。

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