つい先日大好きな祖母(母方)を亡くしました。
祖母との思い出は沢山ありますが、両親と祖父母で旅行、祖母の地元に連れて行ってくれたり成人式の時には着物姿の私を見て可愛いと言ってくれるなど沢山可愛がってくれました。
その祖母が仕事を定年退職し辞めた後から病気がちになり、歩くのが難しく車椅子生活になるまでになりほぼ寝たきりになってしまいました。また、日に日に痩せていくのも目に見えていました。
大好きな祖母が一時危篤になったと母に連絡があり祖母に会いに行ったもののもう話せなくなった状態でした。
そんな祖母の前で泣くことしかできない私。
老いて亡くなるのは当然だけど、あまりにも早いよ!もっと大人になってから祖母孝行したかった、結婚式や孫の顔を見せてあげられなかったと後悔の念が出てきて、聞こえていたか分かりませんが、大好きだよの一言しか伝えられませんでした。
それから2週間ほど落ち着いていたとのことですが、帰らぬ人となりました。
病気で苦しんできたけど最期は静かに亡くなっていったよと叔父さんから聞き、祖母の安らかな顔を見た時は正しい表現なのか分かりませんがほっとしました。
葬儀の時は少し泣いてしまいましたが、また会えるよねと信じて送り出せました。
人は亡くなった後記憶から初めに忘れるのが声だと聞いた事があり、写真や記憶などで顔は覚えていられるけど、今思い返したらもっと祖母に会いに行き声を聞いておけば良かったと後悔しています。
そして、祖母の代わりに私が病気を変われないのか、そうしたら誰も悲しまないのではないかと危篤状態の連絡があった時に考えてしまいました。
あれから母は1人になった時に暗い顔をし泣きそうになっています。
その時に私は何も声をかけることが出来ず、そばに居てあげるのが正解なのかも分からず避けてしまいます。
本当に母もいつか祖母の後を追って消えてしまうんじゃないかと心配になってしまいます。
時間が経てば自然と笑える時が来れば良いのですが…。
人の死はこんなに呆気ない物なんだと約30年生きてきて感じています。
祖父が言った「60年近く一緒にいた婆さんが死んだのに悲しくならないのはおかしいんかねぇ?」と私には重い言葉でした。
支離滅裂な文章で申し訳ないです。
ここで拙い文章で申し訳ないですが、吐き出させてください。
経験談はそれぞれの投稿者の個人的な価値観や感じ方をそのまま掲載しています。一部、リアリティのある描写や強い価値観が含まれるため、読む人にとっては負担等を感じる場合もあります。各自の判断で閲覧してもらえるようにお願いします。
儚い
感想2
経験談の投稿ありがとうございます。祖母さんを亡くした痛みと、それをどう受け止めていいのかわからない戸惑いというのか葛藤が伝わってきました。
大好きだった祖母さんを亡くされた悲しみの中で、それでも「また会えるよね」と送り出せたことは大切な人を見送る覚悟と、まだ受け入れきれない現実が同居しているように感じます。人の死に直面すると、「もっとこうしておけばよかった」などと後悔の気持ちが湧いてくるものだよなと、私も身近な人を亡くして感じることではあります。その後悔は相手との関係性によるものだとも思いますが、少なくともあなたはそれだけ祖母さんを想っていたし、なんとしても“失いたくなかった”という気持ちがあったのかなと思います。
あなたが“もっと声を聞いておけばよかった”と思うのは、記憶が薄れていくことへの恐れであり、同時に、その存在を自分の中で生かし続けようとする心の動きでもあるのかなと私は感じます。お母さんに抱く、心配な感情も切実なもので、失った痛みや苦しみを共有する者同士がどう支え合えばいいのか、その正解は簡単に見つからないものだよな…と。そばにいることも、距離をとることも、どれも一つの形でしかないと私は思いますし、あなたが「避けてしまう」と感じているその行動も、何も悪いことじゃないよと伝えたくなりました。(むしろ自分を何とか保つために必要な、自己防衛でもあるのだと感じました)
祖父さんの「悲しくならないのはおかしいんかねぇ?」という言葉は、祖母さんと長い年月を共にしてきたからこその、言葉には表現しきれない気持ちが込められているように私は感じました。悲しみは、涙の量で測れるものではないですし、弔う気持ちは個々に形が異なっていても何も問題はないのではないかなと改めて考えていました。
失った痛みや悲しみが現実のものとなるまでには、どうしても時間がかかるもののように感じます。「時間が経てば自然と笑える時が来れば良い」というあなたの言葉の中には、悲しみを急がず受け止めようとするまなざしがあって、そのままの気持ちでいること自体が、すでに自分を癒すための一歩なのではないかと私は感じました。なかなか自分の中にある気持ちを整理していくのは難しいことではありますが、また死にトリが必要に感じた時はいつでも訪れてほしいです。
感想1
読ませていただきました。
この経験談を書きながら、改めて祖母さんのことを思い出したりしたのだろうかと想像しています。言葉にして書くことは、あなたが祖母さんと過ごした時間と、相互にやりとりしてきた気持ちを手繰り寄せ、その儚さを抱きしめようと試みる行為でもあるのでしょうか。
確かに実在していたのに、写真にも記憶にも「居る」のに目の前には「居ない」という感覚は、頭では理解できても、心がどうにも拒むような感覚であるように感じました。考えてみると、人は人に対して自覚する以上に多くの要素で「その人らしさ(存在感のようなもの)」を見出しているのかもしれないなと感じました。声や匂いといった写真に残せないものが記憶から薄れていく悲しさと同時に、お互いに生きているからこそ生まれるあたらしい会話や思い出を予感することさえ叶わないということが、「人が亡くなる」ことの喪失感を増幅させる気がしました。
あなた自身はもちろん、他の家族や近しい人もまだ、受け止めきれていない段階なのかなと思います。家族にしかわからない思いもきっとある以上、家族間で分かち合う時間も少なからず訪れるかもしれませんが、今は誰かの分の悲しみまで背負わずとも、あなた自身の悲しみと向き合う時間にしてもいいのではないかと思いました。投稿いただき、ありがとうございました。