わたしは子供の頃の記憶が全て朧げです。
(子供の頃だけではなく去年のこともあまり思い出せません)
友人に去年こんなこと話したよね?と聞かれても、わからないのです。
旅行に行ったとか、遠出したとかはうっすら覚えているけれど、そこで何を話したのか何が起きたのか思い出せません。
楽しい記憶ほど思い出せません。
他の方も、こういうものなんでしょうか?
これは個性?病気?普通?
嫌な記憶はすごく鮮明に思い出せて、今でも苦しくなるのに、、、
誰かに聞いてもらって昇華したいので、ここに失礼します。
幼稚園の頃、周りの子が母親を「ママ」と呼んでいるのに憧れて、送迎バスのお迎えで「ママ!」と声をかけると「気持ち悪いからやめて」と言われたこと。
小学生の頃、新聞をポストから取ってきてと父に頼まれて嫌々取りに行った私に父が激怒しティッシュケースが飛んできたこと。
「お前がカメラのバッテリーを無くしたんだろう」と追いかけ回されて怒鳴られた後に父親の机から発見。謝罪はなくうやむやにされたこと。
お菓子の裏にメッセージ欄があったから「だいすき」とかいて母親に渡したら「こういうのをね『他人の褌を借りて相撲を取る』っていうのよ」って言われたこと。(子供なので意味はわからなかったけれど、多分貶されてるんだろうと言うことはわかった)
中学生の頃、母親がヒステリックを起こして先輩から誕生日プレゼントで貰ったマグカップを割ったこと。
居間で昼寝していたら、5歳年上の兄が私のお腹に馬乗りになって両手を押さえ込んできたこと。(押さえ込まれただけだけど、気色悪かったし、兄が何かを見て実際に試してみたくなったのかもと思うとゾッとする)
高校生の頃、老人ホームに入っている父方の祖父が買い物に行きたいというので、連れて行くと、叔父も父も兄も全員自身の買い物へ行って認知症の祖父は置いてけぼり。最年少の私が祖父の欲しいものを聞いて介護したその日の晩。風呂上がりの父に「お前は金目的で親父(祖父)に会いにきてんのか!愛想がない!」と怒鳴られたこと。
正直、父方の祖父母には愛着はない。
父方の祖父母は私達を愛していなかったし、夏休みに無理やり連れて行かれる田舎の家。歓迎されたことは一度もなし。
他の孫にはよく来たねってニコニコ迎え入れるのに、私たちには出迎えすらなかった。テレビで野球中継見ながら「あら、きたの」って感じ。
(大人になってから知ったことだけど、母曰く、母方の祖父がトラックドライバーで家系の由緒がどうので嫌われてたらしい。)
3歳くらいの頃、引き出しにあったカミソリで手を切った時、祖母には「勝手に他人の家のもん触るからや」って怒られたらしいし、自分が猫アレルギーだと知らない頃に野良猫と遊んでいたら全身に蕁麻疹が出て、母が病院の場所を聞いたら「痒み止めでも塗っとけ」って市販の軟膏薬を渡された。
ハエの飛んでる食卓に、子供の喜びそうにない日本食。周りに遊ぶ場所は全くなく、持っていったゲームをするか寝るだけの数日。子供の頃から苦手。苦行。
でも、そんな相手でも父親に顔を見せろと言われれば老人ホームにもついていったし、話し相手にもなった。高校生の私にできる限りの対応をした。でも父親にはお金をせびりにいっているように見えていたらしいこと。
大人になって、父親が家族旅行に行きたいと言い出し「子供の頃に連れてってくれれば良かったのに」と不満を言うと「子供の頃に連れていくと、子供の金は親が出さないといけないだろう?」と言われたこと。
この人、歪んでる。
社会に出て色んな人と出会ってきたけど、身近な人でこんな考え方をするニンゲンがいるなんて。こんなニンゲンの血が半分も流れてるだなんて。怖い。自身も気付かずに他人にデリカシーのないことを平然と言ってのけてるんじゃないか。私の常識は他者から見れば歪んでるんじゃないか。怖い。
わたしは父親も兄も嫌いじゃないけど、汚いものだと思ってる。少し潔癖かもしれない。母親は大丈夫。そう言うもの?普通?変?誰にも聞けない。
感想1
楽しい記憶ほど朧気であいまい、嫌な記憶ばかりが再現性高く鮮明に残っているということに、個人的にはとても共感しながら読みました。誰しもがそうなのかはわかりませんが、「楽しさは持続しないのに苦しみばかりが長引く」という話は複数の人から聞いたことがあります。
エピソードの数々を読んで、どれも想像するだけで「うっ」となるような悲しさ、心の痛みを伴うものだと感じました。エピソードの多くに、あなたが家族としての関係性や情のようなものを少なからず向けていた(向けたかったわけではないかもしれませんが…あえて言うなら”発動”させていた感じなのでしょうか)ことが感じられる内容だからこそ、意図しない形で非難されたり、必要以上に拒絶されたりしたときのショックは大人になって尚、受け止めきれるものではないような気がしました。そんな未消化の「嫌な記憶」や受け止めきれない痛みが脳のメモリーや心の動く幅を抑え込んでいるのかも、とも推測してみましたが、だとしたらそれはどうやって小さくしたらいいんだろうか…とぐるぐる考えている私がいます。
死にトリでいろいろな経験談を読んでいると、自分が思う以上に、社会で語られる以上に、人を傷つける人はそこかしこにいて、それが家族という存在として自分に強く影響して苦しむ人が多くいることを思い知ります。そこに明確な区別が無い以上、自分も傷つける人になってしまう恐れを抱き続けることはある意味自然で、特殊ではないことだと私は思いました。さまざまな人の言葉を読み、自分も言葉にして、という機会が死にトリにあることで、あなたの中にある家族像や家族との関係性(の捉え方)に、なんらかの風穴があくといいのかなと感じました。