経験談

生きづらさを感じる人が語る 経験談

経験談はそれぞれの投稿者の個人的な価値観や感じ方をそのまま掲載しています。一部、リアリティのある描写や強い価値観が含まれるため、読む人にとっては負担等を感じる場合もあります。各自の判断で閲覧してもらえるようにお願いします。

私の時が止まった日

私は小学6年生のある日を境に、時が止まったような気持ちを抱えて生きています。
両親の転勤で転校した6年生。一学年2クラスしかない小さな学校で、私はいつからか男の子達から悪口を言われるようになりました。同じクラスの女の子達は私を庇い、注意してくれました。初めは守ってくれているようで嬉しかった。けれど男の子達に注意をする一方、その男の子達と笑って話している場面もあり、次第に「本当はどちらの味方なのだろう」と、ぼんやりとした疑念を抱いていきました。
一度、私がもう嫌だから帰ると言って、学校から一人で出ていった事がありました。女の子達は追いかけてきて、学校に戻ろうよ!と促しました。既にぼんやりと不信感を持っていた私には、学校にいるのが辛い気持ちを無視されているように思えて聞き入れる気にはなりませんでした。やっと一人で帰ったと思ったら、あろうことかその子達は複数人で私の家まで押しかけ、学校に行こうよ!と言うばかり。あまりにも学校に行くことだけを押し付ける姿は、良いことをしている自分に酔っている偽善者のようで、私はとても気持ち悪く感じました。

そんなある冬の日、私は耳を疑う言葉を聞きました。それは、「◯◯ちゃんは隣のクラスの女子と一緒に私達の悪口を言っていた」という、庇ってくれた女の子達の言葉でした。
私は訳が分からず、頭が真っ白になりました。その時私は様々なことを思い、違うと叫びたい気持ちでいっぱいだったのかもしれません。けれど何度思い起こしても、そこだけを切り離して捨ててしまったかのように、何もない「空っぽ」しか浮かんでこないのです。ただ確かなのは、その時、私は心を静かに閉じたこと。人間なんてもう信じないと深く心に刻んだこと。涙もなかったけれど、私の中で何かが壊れ、二度と戻らなくなってしまったこと。
そして「誰かにこんな思いをさせてはいけない、私は誰も傷つけたくない」という、救いとも呪いともなり得る強い願いでした。

それからというもの、元々人見知りだった私はさらに物静かになってゆきました。誰かと関わりたい気持ちの反面、あの日の冷ややかな視線を思い出すと怖くなって、なるべく何も感じなくて良いように過ごしていました。知っている人が誰も居ないところでやり直したいと思い、遠くの高校に進学しましたが、自らコミュニケーションを絶ってきた私が突然話せるわけでもなく、周りはどんどんお友達になっていくばかりで孤立するしかありませんでした。

それでもなんとか生きてきた現在も、あの日の気持ちは今でも私を苦しめています。それも特に、誰かと親しくなりたいと願う時に。
やっと多少お話できるようになったお友達に、何を話していいのか分からない。相手が私を嫌っているのではないかと猜疑心が消えず、自責の念に耐えきれなくて自分からダメにしてしまう。目立つ人がいるところではいつでも影で、存在意義がないのなら消えてしまいたい程の無力感。抽象的な感情はあるのに言葉として成立しない、言語野から切り離されてしまったような感覚。私はあの日から人との関わりに関して何も成長していないのです。右も左も分からないまま取り残された子どものように、怯えて泣きじゃくりたい気持ちを抱えて、それでも大人として振る舞って。何も感じないから大丈夫と思っていたのは大丈夫であるはずもなく、閉ざした心の代償は、望んだ幸せや人との繋がりの前に立ちはだかる壁として、今なお私の心を苛むのです。

そんな私も、一つだけその出来事に感謝していることがあります。それは「辛い思いをしたお陰で人に優しくすることができる」ことです。こんな苦しみを誰にもさせたくはない。辛い人がいるのなら、痛みを知っている私こそ手を伸ばすべきであると。
けれど本当は、救ってほしいのは私の方です。あの日、誰にも打ち明けることのできなかった胸の奥の傷を、温かい手でそっと包んでほしい。辛かったねって一緒に泣いてほしい。けれど、そんなことはもう叶わない。だからせめて、私は私がしてほしかったことを、償いのように苦しむ人へと差し出したいのです。それがいつか、自らの慰めとなる日を祈りながら、私はひとり呟くのです。
「いじめてくれて、ありがとう」と。
ありがとうとは程遠い悲しみの中、止まることのない涙を流しながら。

感想1

経験談への投稿ありがとうございます。
タイトルとともに、静けさの中で音もなく涙を流しているようなイメージが浮かびました。
時間としては過去の出来事かもしれませんが、あなたの中では今もずっと続いている痛みと苦しみであることを感じています。
また、あなたの経験とまったく同じということではないのですが、自分も小さな学校で友人関係に悩んでいたことを思い出し、なんだか他人事とは思えない気持ちで読みました。

小中学生の頃を思い返すと、勉強よりも友人関係に気を張っていたような気がします。
高学年での転校は、慣れ親しんだ環境を離れる心細さの中で、新しいクラスや友達に馴染もうと戸惑いながらも必死に頑張っていたのではないかと想像しています。
相手の二面性が垣間見える瞬間は小さくとも不信感が芽生えますし、自分の気持ちを置き去りにされてただただ学校へ行くことを強要されるのは、怖いことでもあったように感じています。
無邪気さの裏に潜む残酷さ、という表現が合っているかも分からないですが、自分も通り過ぎたあの複雑な人間関係をどんな風に表現したらいいのか、まだ言葉が見つかっていません。
味方だと思っていた人から突然真反対の言葉を向けられることは、大きなショックとともに混乱してしまうことだと思います。「訳が分からず、頭が真っ白になりました」と書かれていましたが、そうなるのもおかしくないことだと感じました。
当時の記憶が曖昧になっていることは、あなたの身体がトラウマから心を守ろうとしていることの表れでもあるのかなと想像しました。
涙も出ないほどの虚しさの中で、固い決意とともに、心のシャッターを下ろしたのでしょうか。

現在も、望んでいないのにいつしか身に付いてしまった猜疑心や不安が、ようやく信頼関係を築こうとする頃に顔を出し、あなたを苦しめていることを感じています。それは、言い換えれば、あなたがどれだけ深く傷つき孤独の中にいたかを表しているようにも思いました。
自分を守るために身につけた術を手放すのは、難しいことだと感じます。安心や安全を感じるほど、本当は違うのではないかという不安も湧き上がってきて、なかなかに苦しい葛藤ではないかと感じています。

ご自身の経験を「人に優しくすることができる」と捉え直すことは、それなりの時間を要したのではないかなと想像しています。
「けれど本当は、救ってほしいのは私の方です」との言葉は、思わず自分の苦しさも重ねながら、心の中でうんうんと頷いてしまいました。
苦しさはそう簡単に解消できるものではないと思いますが、あなたの切実な心の声に耳を傾けていたいと思っています。またよかったらお話を聞かせて下さい。

感想2

投稿読みました。小学6年生という多感な時期に経験した出来事が、今もずっとあなたの中に残り続けていて、その苦しさがひしひしと伝わってきました。転校という環境の変化の中、頼る人も少ない状況で言葉によるいじめを受けたこと、さらに一度は守ってくれた友達からも裏切られたように感じてしまった体験は、心の奥深くに刻まれて当然のものだと私は思います。庇ってくれたことで救いを感じたところもあるかもしれませんが、その裏側に見える曖昧さが混ざり合った瞬間、“信じてもいいのか”、“本当に味方なのか”という疑念を抱いてしまうのは自然な反応だと感じますし、その不信感が強く心に残ってしまったことに私も学生時代に人間関係で幾度もそういったことを直接経験したこともあれば、周りでも起こっていたので勝手ながら共感していました。
「心を静かに閉じた」と書かれていた部分に、きっと衝撃や悲しみもあったのだとは思いますが、諦めというのか“人間ってそういうものだよね”といったどこか悟ったところもあるのではないかなと想像しています。その日を境に人を信じる感覚が途切れてしまったこと、そして「誰も傷つけてはいけない」という誓いのような想いを抱いたことは、痛みと同時に強い責任感を背負い込むきっかけになったのではないでしょうか。“自分が人を傷つけないように”という使命感を強く刻みつけられたことの重みを考えずにはいられませんでした。誰かから傷つけられないようにするのも、自分が誰かを傷つけないようにするのも人と関わる上で、どうしても避けられないこと(意図してなくても起こり得るものなので…)だなと私は思うので、気持ちの落としどころって本当難しいな…と思います。
「辛い思いをしたお陰で人に優しくすることができる」という言葉には、深い矛盾と葛藤が含まれているように私には映りました。本来であれば、誰かから寄り添われ、救ってもらえるはずが、救いを受け取れないまま“自分が誰かを救う側にならなければ”という強い決意を持つことは、あまりに過酷な自己犠牲のようで何とも歯がゆい気持ちになってしまいました。人に手を差し伸べたい気持ちの裏側には、「本当は、救ってほしいのは私の方」という、あなたの根にある思いがあることが強く伝わってきますし、「そりゃあそう思って当然だよ…」となっている自分がいます。
「いじめてくれて、ありがとう」という言葉は、強い皮肉でありながら、同時に“この痛みに意味を持たせなければ耐えられない”という心の叫びのように私は受け取りました。苦しみの中でも“辛い人がいるのなら、痛みを知っている私こそ手を伸ばすべき”と思う姿勢はあなたの誠実さを感じられ、そこが強みでもあると私は思うのですが、でもあなた自身がまず優しさを受け取っていい存在であることを伝えたい気持ちになりました。
止まったままの時を無理に進める必要はないと私は思いますし、ここに綴られた思いも含めてあなたが本当はどう感じて、どう思っているかそんな心の声を私は受け止めたいなと思いました。なので、また良ければ死にトリに声を届けてほしいです。そう簡単なことじゃないとは思うのですが、静かに閉じた心が、いつか少しずつでも安心して開けられる場所や人に出会えることを願っています。経験談の投稿、ありがとうございました。

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