経験談

生きづらさを感じる人が語る 経験談

経験談はそれぞれの投稿者の個人的な価値観や感じ方をそのまま掲載しています。一部、リアリティのある描写や強い価値観が含まれるため、読む人にとっては負担等を感じる場合もあります。各自の判断で閲覧してもらえるようにお願いします。

消えてなくなりたい

会社で暴力をうけて、会社に行けなくなって、4ヶ月になった。
『外傷性ストレス障害』だと精神科の先生は言うけれど、違うんじゃないかなと思ってる。
抗不安薬飲んでるけど、不安がなくならないどころか、特定の物を見ると、実行しちゃうんじゃないかって思って怖くなる。
事故のニュースに自分が重なってしまう。
日常生活で使う物を見て、これで死ねるかも?とか……

こんな自分が嫌で泣いていたら、『そんなに嫌ならお母さんが一緒に死んでやる』と言われ、むしろ追い詰められてしまった。
もう、どうしていいかわからない。精神科に行ってる意味も見いだせなくなってしまった。
だって、会社との話はどうなっているかとか、社会的手続きに進展があるかしか聞かれない。

私の心は、どんどん追い詰められているのに、それを吐き出す場がなくなってしまってる。
一人っきりの時にしか、泣くことも許されない。

ここに、吐き出しても、なにも変わらないと思うけれど、誰かに聞いてほしい。
消えてなくなりたいけど、死にたい訳じゃない。どうしたらいいか本当にわからないんだ。

感想1

会社で暴力?何が、どうなって、そうなったの?!っと、読み始めから怒りが湧くような気持ちとなりました。読み終わり、あなたの今の気持ちを受け取ろうと様々思いを巡らせました。でも、どうしてかこの怒りのような気持ちは止まらず。

一旦この「怒り」について考えてみたところ、暴力というのは体も心も痛みつける誰にとっても大きな侵害で、他人へ向けて許されるものでは無いという認識が私にはあり、対相手側の処罰を問い詰めることにより傷ついたあなたを援護したいような気持になったからなのかもと考えました。が、まだ釈然としない気持ちが残りもっと考えたところ、「こんな自分が嫌」と書かれていた言葉に「だって、あなたは全然悪くない」正当化される暴力は無いはずなのに、起きた出来事の原因を自分に向け責めている、そう思わせたこれまでの会社の関りなどを想像し怒りという言葉になったのではと思いました。

周囲から向けられる言葉や刺激、それら全てが自分を追い詰める材料になる。体に力をいれていないと、ふっと消えたい気持ちに支配される。「消えてなくなりたいけど、死にたい訳じゃない。」言葉に落ち切らない、ぐちゃぐちゃの言葉を何度も羅列していき、なんとなく自分の気持ちを掴んでいく、あなたにとって必要な経過を取っているのではと思いました。心と体の傷は癒えていません、無理をなさらずまた吐き出しに来てください。投稿いただき、ありがとうございました。

感想2

読みながら「私はあなたの気持ちを聞いてます」と大きな声で伝えたいと思いました。

どんな理由があっても暴力に至っていいことにはならない、暴力からはなにもうまれない、そんな事も理解していない大人が多い現実に情けなさを感じています。あなたが受けた身体・精神的苦痛を、暴力をした側は理解できているのか?何かを学んでいるのか?と首を傾げたくなります。
身体的ダメージは時間や薬が解決できても、精神的ダメージは時間や薬では限界があると思います。嫌なイメージ、最悪なシナリオも頭をよぎる、そんな日々を想像しました。

病院でのやりとりも首を傾げたくなりました。何よりもあなたの気持ちを聞き、これからを考えるためにどうしていくのかを一緒に考える場所ではないのか?など。
複雑な気持ちで揺れている、自由に泣くこともできていない状況は「これから」なんて考えられないよな、とも思いました。

何かが大きく変わる訳ではないと思いますが、吐き出すことで悲しみや怒りは薄まることもあるのではと考えます。最後に、あなたの声は誰かに届いていることを実感してほしいなと思いました。

お返事

感想ありがとうございました。
お二方が、暴力に対して、会社の対応に対して、怒ってくれたことがとても嬉しかったです。

精神状態は不安定なままですが、これって本当にPTSDなのかな?と思いながら、毎日過ごしています。
サイトを見ていると、同じように辛い方がたくさんいるので、ホッとする気持ちと、ホントに生きづらい社会になったなという気持ちがします。

また吐き出しにくるかもしれませんが、そのときは聞いてくださいね。

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