経験談

生きづらさを感じる人が語る 経験談

経験談はそれぞれの投稿者の個人的な価値観や感じ方をそのまま掲載しています。一部、リアリティのある描写や強い価値観が含まれるため、読む人にとっては負担等を感じる場合もあります。各自の判断で閲覧してもらえるようにお願いします。

これは自業自得なのか、それとも

現在、就職活動中の大学生です。ずっと、抱えてきた過去についてお話します。よろしくお願いします。
私は、小~中学生の頃に一部のクラスメイトから陰湿ないじめを受けていました。
その中でも、覚えているのは当時小学3年生だった私の筆箱の中身が全て抜かれていたことです。今思えばあれが全ての始まりだったと思います。
幸いにも、担任の先生が状況に対して理解の深い方だったことです。ちなみに中身は教室のストーブの後ろに押し込められていました。しかし、これだけでは終わるはずもなく、低学年図書室に保管してあった次学年の新しい教科書が入っていた段ボール箱の全側面に○○(私の名前です)死ね。とカッターナイフで彫られているのが、図書室の清掃当番の子たちによって発覚。5年の頃には当時の担任のいじめ肯定の価値観も加わり、○○菌呼ばわり、友達だと思っていた子にも「○○も誘って○○で遊ぼう」といつしかそれが、誘い文句に変わっていました。
当初は、一緒に遊ぶ子がいなかったので疑問には思っても、仲間に入れてもらえるだけマシだ。と思い込み笑っていました。実際、両親も「小学生のうちは学校で遊べる、仲良くしてくれる子がいるのが当たり前。そうでなければ困る。」という価値観だったので、いじめの解決には動いてくれましたが、勉強の出来が悪いからという理由で不登校にはさせてもらえませんでした。
中学は小中一貫のため中の空気は変わらず、中学の担任、各教科の担当教員、部活の同年代メンバー、先輩、2年までの部活の担当教員も加わり、水面下で卒業まで耐えてきました。今は、いつ不登校になってもおかしくなかった。とは言ってくれていますが、そもそも「登校しない」という手段があることも提案してくれなかった時点で、加担したことには変わりはないのでは?と思っています。
じゃあ、調べればよかったじゃないか。とも思いましたが、両親の価値観により、「スマートフォン、パソコンといった検索機器は高校生まで持たせない」というお家ルールがあり、進学も行きたい学校がありましたが、「専門学校なんてその道に進まないのに行っても仕方がない。絶対向いてない。お金の無駄だから公立高校に行きなさい」ということで、あきらめ、勉強ができないから、せめて親のいい子でいようと思うようになりました。とにかく親の希望、常識を優先してきた結果、成績は最悪。友達はできない。いじられキャラ。部活はなじめず退部。
誰のせいにしたらいいんでしょうね。大学で、過度なストレスは脳を委縮させ勉学の成績に影響を与えると教わり、絶望しました。小学校の時に「行きたくない」といえば、何か変わったのか。成長過程だった脳を守れなかった自分が悪いのか。 
趣味も両親に散々「遊ぶ暇があるなら、勉強しろ」等言われ、いつしか得意だった趣味も、両親が嫌うアニメに変わり逃げてきました。それも、スキの度が強い人に合わせるようになり価値観が合わないのに、話が合う人に見えるように取りつくり、最終的には相手をブロック。縁を切るなど繰り返してきました。
就職活動をしていると思うのは、心身ともに健康な人を募集要項にしているのなら、まずその健康を邪魔する人たちを何とかしてほしい。と思います。他責思考大いに結構。いじめという心の殺人をした犯罪者が社会に求められるこんなおかしな世界は、今地球に隕石が落ちて人類滅亡してほしい。それがだめなら生きたくても生きれない子どもにこの健康な体と命を譲りたい。そう強く思わざるを得ません。お金と口先、依存だけが取り柄の両親もいらないです。

感想1

タイトルの「自業自得なのか」という問いに対して、私は明確に「自業自得ではないと思います」と意見を表明したいです。一方的に暴力を受けたり、嫌がらせ受けるようないじめはどんな理由があっても「やってもいい」ことではなく、また「やられてもいい」人がいるわけではないと私は思います。しばしば、いじめられる方にも何かしら悪いところがあったという反論を見かけますが、もしも何かしらの非があったとしてもそれが「いじめてもいい」「ひどい目に合わせてもいい」という理由にはなりません。特に子どもは未熟なので、失敗したり、ダメなことをしてしまったりします。もしも、至らないところや悪いところがあるとしたら、知る機会、考える機会、誰かと話し合ったり相談する機会、行動を変えるために学ぶ機会が必要なだけであって、いじめにあうことは必要ありません。だから、いじめられる人を責める風潮や自業自得だと思わせるような社会の圧は怖いと思っています。そして、その圧の怖さをあなたの経験談を見て、さらに感じました。あなた自身「自業自得なのか?」と問いかけ、そんなはずはないと思いつつも、他責思考が強まり、誰かを排除したり否定したりする気持ちに傾いているように感じたからです。本来は守られるはずだった時に見て見ぬふりをされたり、責められるような経験をすると、安心安全の感覚をつかめず、大人や周囲がみな敵のような気持ちになり、他責が強くなることは自然なことだと思います。そして、その気持ちは誰にでも気軽に言えるわけでもなく、他責を自分の中にため込みがちです。同じように自責も膨らみ、自己否定となって自分を攻撃します。あなたの経験談から、自責と他責の両方が強くあると感じました。まずは、その気持ちをこうして率直に表現できたことはとても意味があると思いました。自責や他責の念はまさに心の健康をむしばみ、生きることを難しくします。一人で抱え続ければ続けるほど、いろいろな形で心身をむしばみかねません。そんなことを身をもって経験しているあなたが、心身の健康を邪魔する人たちを何とかしてほしいと言いたくなるのももっともだと私は思っています。
「誰のせいにしたらいいんでしょうね」というつぶやきに近い表現について、深く考えています。おそらく大人たちみんなのせいでありながらも、誰か特定の人のせいではないと私は思っています。あなたのように子どもの頃に暴力や抑圧、理不尽な思いをした人たちがどれだけ心身の健康に影響するかという実態があまりに知られていないことや、自己責任論によって、個人の問題(本人のせい、その親のせい、先生など子どもと関わる周囲の人たちのせい)として理解し、犯人探しをするような思考回路が私たちのよくあるパターンとなっていることがもっとも怖いことだと思っています。あなたの経験とそこからこみあげる率直な声に触れ、子どもが暴力や抑圧に晒されないで済むための仕組みやサポートの必要性を再認識しています。簡単には変わらないかもしれませんが、こうして当事者の声をしっかりと聞くこと、対話することが大切なのではないかと思っています。貴重な声をありがとうございます。

感想2

経験談の投稿ありがとうございます。文章を読み進めながら、あなたが「自分のせい」と言わざるを得ないような状況に、長く、そしていくつも重なって取り囲まれてきたのだということが強く伝わってきました。「誰のせいにしたらいいんでしょうね」という最後のほうに書かれていた問いの背景には、被害を受けてきたにもかかわらず、自分の内側に矛先を向けるしかなかった過去があなたの中に重くのしかかっているようなそんな印象を抱きました。
いじめという行為の連鎖が、初めは筆箱の中身を全て抜かれるという、ちょっとした異変から始まり、次第に名前に死を重ねられるような言葉の暴力や、担任によるいじめの肯定へと大きくなっていく様子は、ただ単に子ども同士の問題とかでは済まされない構造的な問題だと私は思います。大人の見て見ぬふりや“普通”の押し付けによって、感情や苦しみに蓋をしてしまった(というより、そうせざるを得なかった)のだと想像しますし、周囲の人(特に大人)への不信感や怒りも募る一方だったのではないでしょうか。そんな中でもひたすらに耐え、ここまで何とか生き抜いてきたあなたに、勝手ながら敬意を表したい気持ちです。
親が「普通であること」や「正しい進路」を盾にしてあなたの選択肢を閉ざしてきたというところも、愛情や善意を装った支配に近いその関わり方は、「いい子でいよう」とするあなたを長年締めつけていたのではないかなと私は感じました。スマートフォンやパソコンを持てない状況、進学先の制限、趣味への否定…どれも、一つひとつは「しつけ」や「教育」の名を借りて正当化されがちですが、結果としてあなたの声を奪い、自分を守る手段すら奪っていたように私には映りました。
文章の後半で綴られる苛立ちや怒り、破壊願望のようなものも、それだけ自分を押し殺しながら耐えてきた日々の中で生まれた切実な思いが言葉になったように思います。私はあなたの文章を読んでいて「自業自得」とは思えませんでした。むしろ、理不尽な状況を直視し、自分なりに言葉にしようとしていて、社会や周囲が見過ごしてきた現実を社会に訴えているような、そんな叫びにも感じました。
今、抱えている苦しみや怒りのすべてが「自分のせいではない」と思うことは、すぐには難しいかもしれません。けれど、あなたが感じてきた痛みは間違いではないと扱うこと、そしてそこから“どう生きていくか”を自分の意思で選べる日がくることを、願っています。思いや考えを受け止めて一緒に考えて、こうして言葉を交わすくらいしか死にトリにはできないかもしれませんが、あなたにとって何か役に立つようであればいつでも訪れてほしいです。

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