経験談

生きづらさを感じる人が語る 経験談

経験談はそれぞれの投稿者の個人的な価値観や感じ方をそのまま掲載しています。一部、リアリティのある描写や強い価値観が含まれるため、読む人にとっては負担等を感じる場合もあります。各自の判断で閲覧してもらえるようにお願いします。

わがまま

私は、小学校高学年頃から常に死ぬことを頭に入れて生きていました。何故かは思い出せません。夏休みに食べ物を飲み込むことが怖くなり、休み明けに先生に心配されてしまいましたが、そのときは脱水症のせいだと適当に嘘をつきました。はじめてリストカットというものをしたのもそのぐらいの時期です。はじめの頃はただ寂しかったのだと思います、でもだんだん顔中にできたニキビや毛むくじゃらな自分の手足が憎くなって、容姿にコンプレックスを抱くようになって、そのストレスを自傷行為で発散するようになりました。今思えば小さい悩みですが、当時の小さな世界で生きている私にとっては大きな大きな悩みだったのです。親に相談しても他人はそんなとこ気にしてないとあしらわれてしまい、親を殺そうと本気で考えたこともありました。ここで、親に相談することが無駄だと気づきました。
そこから高校1年生頃まで不定期にリストカットをしていました、夏はしていなかったかもしれません。隠せなかったので。

中学生になった私は、吹奏楽部に入部し、フルートを吹くようになりました。しかし、才能がなかったのか、あるいはただ怠けていただけなのか、フルートはちっとも上達しませんでした。部活の顧問には呆れられ、周りの同級生はソロのコンサートで優秀な成績をとり、後輩にどんどん追い抜かされていく日々を送っていました。私だけが下手なままおいてけぼりでした。やめたいと言ってめんどくさい事になるのも嫌でした。頑張る気力も湧かず、ただフルートを吹くのが嫌で、何度も包丁の先を手の甲にあてました、結局刺すことはなかったんですけど。部活だけでなく勉強も同じです。全てをサボっていました。
そんな中でコロナが流行り、しばらく休校になったので家でごろごろと引きこもりのような生活を送っていました。もちろん勉強なんてせずに。コロナが落ち着いて学校が始まったらいきなり受験期でした、必死こいて勉強しても急に頭が良くなるわけないしそもそも怠け癖がついている私は集中することが困難でした。そこからは自己嫌悪の毎日で、中学3年の夏には大縄跳びのロープを使って首を吊ろうとしましたが苦しくて床に足をついてしまいました。死ぬ勇気もないし、努力もできないし、容姿もよくなくて、こんな自分はもう生きていても価値がないと、そう思うだけの生活でした。
なんとか高校には推薦で進学をし、しばらくして同性の、一人の女の子とお付き合いを始めました。そこで、親に報告をしてみましたが冗談だと流されてしまいました。この頃の私はその子を心の支えにしてしまっていて、相手が私から離れていくことに常に怯えていました。嫌われたくなくて、相手のことを第一に考え自分の気持ちはあまり言葉に出来ず、依存に近い関係性でした。その子とは別れと復縁を繰り返し今では何の関係もない人です。高校生活は全体的に楽しく周りにも恵まれていたと思います。2年の夏にはオーバードーズをして迷惑をかけてしまいましたがそれほど重症ではありませんでした。

省いた部分、出来事もありますがなんやかんやあって今の私はメンタルもだいぶ安定してきていて、他人に過度な期待をすることなく、自分で自分の機嫌を取り、1人でも大丈夫、生きていけると思えるようになってきました。大事な人ができた時に支えられるのは、みっともないところを見せるのは嫌なので。
割り切って物事を考えられるようになりました、自分の身を守るために他人と深く関わることを辞めました、相手が自分に何を求めてきているのか客観的に見てできる限りそれに応えるようにしています。全体を俯瞰して、自分は何をするべきなのか考え行動しているつもりです。
家族も、友達も、知り合いも結局は他人です。冷たいと思われてしまうかもしれませんが、好きという感情がもうよく分からなくなってしまいました。でもそれでいいと思っています、むしろ相手にとっての私もそうでありたいです。私のことを雑に扱ってもらった方が楽だし、どうでもいいと思ってもらうくらいがちょうどいいと思うのです。深く汚い私のことは見ずに、綺麗な表面だけの私を見ていて欲しい。

私の人生は基本的に不自由なく、充実していて、親も友達もいい人ばかりで、それほど辛いことなんてないです。私よりも大変な人なんて沢山いるって分かっています、理解した上で死にたいと思ってしまうんです。いわゆる希死念慮というものがずっと心に纏わりついているんです。今もずっと。目の前に首吊りロープがぶらさがっていたらきっと迷わず首を吊るでしょう。
死にたいというのは私のわがままです。

なんとなく生きるのがつらいってどうして思ってしまうんでしょう。自分がなんで息をしているのか分からないんです、人生が楽しくない訳じゃないですけどこれ以上生きたいと思えないんです。幸せを感じる度に死にたいなと思うんです。幸せを感じたまま死にたいなと思うんです。
きっとこの先も希死念慮と一緒に生きていくんだなとおもうとしんどいです。もしかしたらどこかで死ぬのかもしれませんが。

ここまで読んでくださってありがとうございます、長々とつまらない文を読ませてしまい申し訳ないです。

感想1

小学校の頃から、なぜかは分からないけれど、死にたい思いを抱えてらっしゃるのですね。そしてその思いは、あなたにとってはわがままだと感じられてるとのこと。とても繊細なあなたの様子が、文章から伝わってくるようでした。

書いてくださった中でとても印象に残った文章は、「家族も、友達も、知り合いも結局は他人。雑に扱ってもらったほうが楽。綺麗な表面だけの私を見ていて欲しい。」というところでした。あなたの人との距離感や、関わり方は、私にとってはそうそうと思える正しさと、複雑さの両方を感じたからです。

誰であっても他人という考え方によって、私は少し生きやすくなる部分があるなと思っていて、あなたももしかしたらそう考えられるようになることで、軽くなったり解放されてきた部分があるのかなと想像しました。

私も、「できれば綺麗な表面だけの自分を見て欲しい」と、心底思います。それでも他人から「綺麗な人」と扱われれば、本当の自分とのギャップに嫌気がさす、その繰り返しもあるかもしれません。汚くない人なんて本来、いないんだと思います。自分から見て「とても純粋で綺麗な心を持った人」にいくら見えても、誰しももがいているんじゃないかなと私は思います。よく言われていることかもしれないけど、まるで白鳥が優雅に泳ぐのとは裏腹に、水面下では足をジタバタさせているように。それは、立派で綺麗に見える人であればあるほど、もがいているんだと私はそう思います。

私はそんなジタバタとした努力は、実は持っていたいなと思います。人の評価とは関係なく、人に対して誠実でありたいし、優しくありたいと思っています。そうありたいと思えば思うほど、自分の弱さや小ささ、情けなさ、ずるさ、怠惰な心、傲慢さ、そして激しい感情的な心に直面します。それらに直面していない、優しさや美しさは本物だろうかとさえ疑っています。

あなたの書き込んでくれた、これまでのこと、パートナーとのこと、ODのこと、部活でのこと、サボっていたこと、怠けていたこと、コンプレックスのこと、親を殺そうと本気で思っていたこと、死にたいと思っていること、私はこの文章の中だけでも、丸ごと受け止めたいと思いました。あなたの綺麗な部分だけが、あなたではないと思うからです。

この短い文章の中で、要所要所に書かれた「理解して欲しかったところで、親に理解してもらえなかった(話してむしろ傷ついた)経験」が大きく今のあなたに影響しているかもしれないな、と思う事もありました。自分にとってはとても大きな悩みを、小さなこと、大したことじゃないと取り扱われるのはとても苦しく、その後の心を通じる人との関わり方に影響する部分だなとも感じます。特に子供にとっての親という存在は大きいものだからです。

そして、死にたい気持ちが、わがままだということについて、自分のわがままとして納得するのは私は好きなので、そのままあなたの気持ちを受け止めたい気持ちと、

もしかしたら、あなたのわがままではなく、あなたに対する『死にたい気持ちのわがまま』なのかもしれないなと思いました。死にたい気持ちは、わがままを通して何をあなたに言いたいのだろう?ずっとずっと前から本当は何をあなたに言いたいんだろう?と『あなたの死にたい気持ち』にも、お話を聞いてみたくなりました。

幸せ恐怖症という言葉もあったりで、幸せを感じるたびに死にたいと思うのは、あなたの幼少期やこれまでの経験と結びついているのかもしれないな、とも思います。

なかなか言えない本当の気持ちや、これまでのこと、吐き出したり、整理しにまたいつでも、書きに来て欲しいなと思っています。

感想2

経験談、最後まで読ませていただきました。
読んでいてまず思ったのが、「あなたはすごく人からの見られ方を気にする人なのかな」ということでした。自分の要素について気にしていたり、周囲の人には表面の綺麗なところだけ見てほしいと思っていたり(表面が“綺麗”なのかはその人の見方によるのですが…)、あるいは大事な人ができたときにその人にみっともないところを見せたくないと思っていたり…。
今の世の中ってSNSが盛んに使用されていて、「自分って大したことないな」と嫌でも思わされる気がしています。私もいい大人なのですが、SNSを見てたまに病みます。「SNSにはいいところしか投稿しない」「加工だってし放題で性別さえも変えられる」「自分で自分の傷つく情報ばかり目に入れるようにしているのかも」と分かっているのですが、しんどくなってしまいます。
あなたももしかしたら、そんな感じで学校といったリアルの生活範囲や、もしかしたらインターネットでも見た目や楽器の上手さといった色んなことを他の人と比較しすぎてしんどくなっているのかな…と読んでいて思いました。どうして比較してしまうのだろう…と私はつくづく思いますし、比較するのをぶっちゃけ私はやめられないのですが、せめて比較したときのダメージってどうしたら少なくなるんだろうと考えていました。

あと、人から悪く見られたときに、あなたが嫌だなと感じることはどういう部分なんだろう…と読んでる中で感じました。また、本当に客観的に見て事実なのかは経験談からはわかりませんが、仮にあなた自身の容姿が(どんな基準なのかわかりませんが)悪い、努力ができないといったときに、あなたはどんな不利益をこうむりたくないのかなと思いました。人から悪く見られたら人から嫌なことをされるとか、あるいは人からの低評価はあなたがあなた自身に期待している評価よりも低いもので自尊心が傷つけられるから嫌…とか色んな可能性が考えられるのかなと思いました。正直私は人から承認されたいので、人から悪い評価は受けたくないです(でも自己評価のほうが他者評価より大切です)。あなたが感じている理由はまた違うものなのかもしれませんが…。

そして、しんどいからこそあなたなりに工夫をしてきたことも、私にはよく伝わってきました。自傷行為だってあなたなりの工夫だと思いますし、「自分で自分の機嫌をとろうとする」「割り切って考えるようにする」ことも工夫だと思います。そういう工夫があまり必要なくなったら、あなたはどんな気持ちになるんだろう…また工夫が必要ないってどういう状態なのかなとも私は思います。
私は自分で自分の機嫌がとれないことがたくさんあるし、大切な人だからこそ安心してしまい、相手に情けないところばかり見せているし、「まあいいか」と思っているので、あなたにとってはもしかしたらびっくりするような大人かもしれません。でもそういう大人もいます。

また、しんどい中でもあなたがあなた自身のことを責めてしまってしんどさを言えないような気持ちになったり、しんどさを言ったのに寄り添うような姿勢を見せてもらえなくて傷つき体験として残ったりしたことも、あなたが一人でなんとかしようとしたり苦しくなったりする原因の1つでもあるのかなと私は思いました。
しんどかったら頑張ることが大変なのは当然のことだと私は思いましたし、「努力できない」「容姿が良くない」といったことで人生ハードモードになる世の中だとするなら、そんな世の中に文句を言いたい気持ちになりました。
そしてまた、「○○がいい」っていう価値観も一体誰が決めてるんだろう…と思いました。「これが社会で求められているものに違いない」と思うと、それが本当に正しいことに思えたり、「そうじゃないと思う」って言う人の声をなかなか認識できなくなったりするのかもしれない…と私は思いました(そんなこと言われたところで困るかもですが…)。

そんなわけで、私はあなたの「死にたい」が「わがまま」だとは感じなかったです。「死にたい」という気持ちは色んな要因があると思いますし、環境が良い(と自分では思っている)としても持っても良い感情だと私は思いました。
経験談を投稿してくださり、ありがとうございました。

お返事1

感想ありがとうございます。誰かに自分の思っていることを話したかったので心がだいぶ楽になりました。
確かに自分は他人からの目をとても気にしていて、比較して勝手に落ち込むことがよくあります。自己評価よりも他人からの評価を重視してしまって、頼ることを情けないことだと1人でなんとかしようと自分で自分を苦しめていました。お二人からいただいた感想のおかげで改めて考えさせられました。
これからは自分で汚い、悪いと思っている部分も自分で愛せるまではいかなくとも受けいれて生きていきたいです。
ありがとうございました。

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