経験談

生きづらさを感じる人が語る 経験談

経験談はそれぞれの投稿者の個人的な価値観や感じ方をそのまま掲載しています。一部、リアリティのある描写や強い価値観が含まれるため、読む人にとっては負担等を感じる場合もあります。各自の判断で閲覧してもらえるようにお願いします。

静かに暮らしたい

私は子どものころから自分に自信がなく、人と接するのが苦手です。口数が少なく、なかなか人と親密な関係になれません。「私がそうなったのは自分の努力不足だ」とずっと思っていて、自分自身を責めて生きていました。

最初に死について意識したのは18歳のときです。
飼っていた犬が死んでしまったときに「この子と同じところに行けるのなら私も死にたい」と少し思いました。

その後、ペットロスや将来への不安、人間関係など、さまざまなストレスが重なって、でもそれを誰にも相談できずに過ごしていたら、20歳のときに突然死にたい気持ちが強く出てきて、知らない土地でひっそり死ぬために数日間家出をしました。
しかし「私が死んだら母が悲しむ」と思うと死ぬこともできず、かといって元の大学生活に戻ることもできず、実家に帰って引きこもりになりました。

20代の後半、「このままでは本当に死んでしまう。自分のことは自分が助けなければ」と思い、医療機関を受診したり、心理学の本を読んだりするようになりました。

そこから次第に、自分の生きづらさの原因が少しずつ分かるようになっていきました。
子どものころ、父が「俺は何でも知っている」と口癖のように言うのを聞いていて、父や父に似ている人間の言うことが正しいと信じ込んでいたこと。その父や父の親族から何度も揶揄われたり否定的な態度を取られたりしていたこと。そのときに母が助けてくれる時もあれば助けてくれない時もあるという、曖昧な対応をされたこと。
家族や家族以外の人間から勝手に身体を触られて嫌な思いをしたこと。
小学校から高校まで、一か月に一回程度、学校に行くことができず休んでいたのに、周囲の大人が誰も医療機関の受診や心理カウンセリングなどを勧めてこなかったこと。私自身や周囲の人間が心のケアに対する知識を持っていなかったこと。
辛いことがあっても安心して相談できる人が身近にいなかったこと。

当時の自分の力ではどうにもならなかった出来事がたくさんあって、その結果としてさまざまな症状が出ているのだから、自分を責める必要はないのだと知って、少しだけ安心しました。
それと同時に、父に対する怒りが初めて湧き出てくるようになって苦しくもなりました。今まで父に言われて嫌だったこと、もうやめてほしいと思っていることを最近になって父に直接伝えましたが、理解してもらえず、父と顔を合わせるたびに心が非常に消耗します。

現在、安定して仕事ができるようになるために、さまざまな方からサポートをしていただいてはいますが、相変わらず人と接することに対する不安感が付き纏っていて、気が休まりません。人と会っても緊張してぎこちなくなったり、何を言ったらいいのか分からず口数が少なくなったりしていまいます。せっかく人に優しくしてもらっても、その人を心のどこかで疑ってしまうこと、心を開けないことが辛いです。

今の自分が一番望んでいるのは、人間社会から離れて、動物や植物と一緒に静かに暮らすことです。
でも人間として生まれた以上、人間社会と関りを持たなければ生きていけません。この先どのように生きていったらいいのか分からないし、これ以上傷つくくらいならいっそ死んでしまいたいと思うときもありますが、「少しずつでも良くなるかもしれない」という小さな希望に縋ってギリギリ生きているような状態です。

気持ちを吐き出すことができて、少しすっきりしました。
ここまで読んでいただきありがとうございました。

感想1

きっと穏やかな方なのだろうなってあなたの人柄を想像しながら読み進めました。
自分のことを実際よりは過少評価したり、時には責めたり、でもそれだけではなくてできることはやってみて、気づきを得ながら大人になってきた風景も想像しました。
幼少期のお父さんの存在とあなたに向けられた日常の否定感、そして不快な身体接触はどれもあなたのこころにダメージとなって蓄積されたのだと思います。特に子どもの頃は閉じられた家庭の中で権限(力)を持った大人の言動が日常の当たり前になってしまいます。でも実はあなたのこころは怖かったり、不安だったり、不快だったり、ちゃんと「嫌だ」ということを感じ取っていたのだと思います。そして同時に何らかのSOSを出していたけれど、適切なケアをされてこなかったダメージが18歳~20歳で出たのかなと私は想像しました。
あなたがこれまでの自分自身を客観的に整理して、捉え直していることも印象的でした。それと一緒に蓋をしていた感情も表出していることについて私は何だか良かったなって思いました。感情の表出は苦しさを伴うことが多いですが、次に進む起点にもなります。特に怒りの感情って自分でも気づかないところに眠っていたり、出してはいけないものだという感覚があって我慢したりするなぁ…って私自身の経験も少し重ね合わせながら考えていました。
これまでの経過を想像すると、あなたがどうしても人を疑う感覚がぬぐえないことや他者にこころを開けないことは自然なことだと思いますし、自分自身を守る上でもとても大事なことではないかと私は思いました。そして警戒を解かずに社会生活を送ることは本当に心身疲れることです。それでも静かに前を向くあなたを応援したい気持ちが湧きました。
動物や植物と一緒に静かに暮らす…私もその風景や静けさに身を置くことが理想かもしれません。(いまは時々海にぼーっとしに行くくらいかも…)
動物や植物ほどの安心感はないかもしれませんが、死にトリも比較的穏やかなコミュニティです。ぜひまた活用してもらえたらと思います。いつでもお待ちしています。
投稿していただきありがとうございます。

感想2

経験談の投稿ありがとうございます。
読んでいて、自然にすっと内容が入ってきて、ささやかな連帯感のようなものを感じている自分がいます。
おそらくそれは、回復の過程(その感覚的な描写)に自分としてしっくりする部分があるのと、動物や植物に自分が親しみを抱いているからだと思います。

回復の過程についてしっくりきたのが、自分を責める見方から、治療したり勉強する中で環境要因に気づいていき、ちょっと安心して、そして「怒りが出てきて苦しい」に至る流れです。とくに怒りの感覚に、わたしは共感しています。
あくまでわたしの勝手なイメージですが、世間では回復が「傷ついた→優しくされたりケアされた→救われた」みたいなストーリーで考えられているような気がしています。でも実際は「なんかうまくいかないしつらい→あれ?実は傷ついてた?→いろいろ紐解いていってケアを試みる→ちょっと救われたが怒りが出てくる→そんな自分と付き合ってどうやって生きていけばいいのだろう→葛藤の中を歩み続ける」といった、一筋縄でいかないものな気がする…というのがわたしの感覚です。
そして、自分と勝手に重ねているのもあり、あなたが父に直接話して理解してもらえなかったこと、今も顔を合わせる機会があり消耗してしまうことに、悔しさ・・・「どうしてここまできてもまた苦しまないといけないんだ」というような叫びが、身体を駆け巡っています。
ちなみにわたしは、自分を理解してくれないあらゆるもの(本当に些細なものでさえも)に耐えられなくなり、頼りないお金で無理やり一人暮らしをして、半年ほどほとんど誰にも会わず引きこもったことがあります。

これまでたくさん苦しい刺激の中で削られてきたあなたが、これからはなるべく自分に合う優しい刺激を浴びて生きられますように・・・と、陰ながら祈っています。
生きる上で人間社会と全く関わりをもたないことは確かに難しいですが、例えば農作業を仕事にすると、作業中はほとんど人と話さなくて大丈夫だったりします。人と真正面から付き合うのではなく、何かを共有・介在してつながるような関係だと、もしかしたら少し楽になれるかも…?なんて、無責任に想像しています。(一応自分の経験則から話してはいるのですが、あなたとわたしは違う人間なので、どこまで当てはめていいのかは慎重になるべきなのに…食い気味で申し訳ありません)

そして、またまた自分語りになってしまうのですが、わたしは今、動物や植物が身近にいる暮らしをしています。羊とニワトリと、畑のいろんな野菜と雑草と、ちょっとだけ果物の木もあります。
静かというよりはある意味賑やかですが、人間社会で削れてしまった何かを、回復させてくれる力が自然にはあると感じています。
もし機会があれば、あなたがどんな動物や植物と暮らしたいか聞いてみたいです。

お返事1

感想のコメントありがとうございます。
温かい感想を書いていただけて、とても嬉しいです。

ずっと蓋をしていた感情、特に怒りの感情が出てくるようになったことについては、私も良かったと思っています。苦しさはありますが、欠けていたものを取り戻して本来の自分に近づいたような感覚もあるからです。

「何かを共有・介在してつながるような関係」だと少し楽になれるかも、というのも「分かるな」と思いました。私は人と会話するのは苦手ですが、人が作ったもの(物語や絵など)を通して人の心に触れるのは好きです。人里離れた森の中で、犬と散歩したり、野鳥を眺めたり、畑で野菜や花を育てたり、本を読んだり、絵を描いたり、という暮らしができたらいいのになと時々想像します。
まったくその通りの暮らしはできないかもしれませんが、少しでも自分にとって優しい暮らしができないか考えてみたいと思います。

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