経験談

生きづらさを感じる人が語る 経験談

経験談はそれぞれの投稿者の個人的な価値観や感じ方をそのまま掲載しています。一部、リアリティのある描写や強い価値観が含まれるため、読む人にとっては負担等を感じる場合もあります。各自の判断で閲覧してもらえるようにお願いします。

「死にたい」とは違うのに

書くのが初めてなので、拙い文章ですが、読んでいただけると嬉しいです。

僕は去年まで希死念慮があり、悩まされていました。でも今は希死念慮とは違う感情といいますか……消えたいとも違う、変な感情が芽生えたんです。

今年に入り、僕はその感情の正体がやっとわかりました。「僕は人生に、生きることに疲れたんだ」と気付きました。

沢山の人に聞かれるんです。
「なんで ” 死にたい ” の?」と。
正確には「死にたい」のではなく、「疲れた」のにな、と毎回思ってしまいます。確かに前まで「死にたい」とお話させていただいていた方々なので、仕方ないとは思っていました。ですが、「そうじゃない」と思ってしまいます。

皆さんにもあるのかな、と思い書かせて頂きましたが、どうなんでしょうか……僕は私として生きていくのが辛くて苦しくて仕方ないのと同時に、みんなの前で私で居るのに疲れたんだと思います。

今の友達には「 ” 死にたい ” とは少し違うんだよね」と話せる子がいます。
その子に支えられています。

僕は泣くことを少なくした。
その代わりに笑顔を増やした。
それは、「疲れたよ」「気付いて欲しい」「苦しい」「辛い」と思っているけれど、自分のやわらかくて繊細な部分を知られるのが怖い。
救けて欲しいのに、救けてもらうには知られたくない部分を晒さなければならない。それが嫌。病院に行っていないので、精神疾患があるのかもわかりません。この気持ちに名前が付くのを望んでいるのではなく、一刻も早くこの「疲れた」から逃げてしまいたい。みんなに気付いてほしい。ただそれだけなんです。

気付いてくれたのはネッ友だけ。
僕が僕で居られる場所もネットだけ。
だけど、気軽に逃げ込める場所がリアル(現実)にあったなら。迷わずそこに逃げると思います。

僕はみんなに「病んでるってことは死にたいの?」とカンチガイされるたびに「おかしい」と思っている。
それはその人がおかしいのではなく、その偏見が生まれる程の人が「死にたい」「消えたい」そう思っているということです。

僕は「死にたい」とは離れている感情があるけど、楽になりたいとは思っている。今も手元に計画書があるくらいです。
計画書があるのは、この「疲れた」から解放される道が「死ぬ」しかないから。でも書いていて思ったのは「生きるのが嫌」だから「死にたい」のではなく、「生きるのに疲れた」から「死にたい」んだな、と。広く言えば確かに「死にたい」ではあるかもしれない。

でも僕は頑固なので、「疲れた」と言うことにします。

同じ思いを抱いている方が、周りにこの気持ちを理解してくれますように。そう願っています。

感想1

こんにちは。私も、死にたいと思うときは、「疲れたなぁ」「もう生きるのやめたいなぁ」から入ることが多いです。
積極的に死にたい人はきっとそんなにいないのではないだろうかと思います。個人的なイメージですが、死に希望を見出すとしても、それは生からの解放であり、死が新しい何かをもたらしてくれるわけではなさそうな気がしています。生から解放されること、辛い現実から逃れる道が、今のところ「死」しか見つからない、そんな気持ちなのではないかなと考えています。

周囲からの「なんで死にたいの?」という問いに対する、あなたの答えは「『疲れた』から逃げてしまいたい」なのかなとお見受けしています。皆の前の「私」と、「僕」は、異なる存在や役割があるのでしょうか。「僕」と「私」は、それぞれどんな存在なのかと気にかかりました。なんとなくですが、「私」はあなたらしい振る舞いや生き方とは違う選択をする存在なのかなと想像しています。
私は、自分らしい選択ができないとき、すごく疲れるし、生きているのに生きた心地がしなくなってしまいます。なので自分の人生を歩めていないと感じたときに、死にたくなるというか、「この時間は一体なんなんだろう、頑張って生きる意味があるのかな」という気持ちになります。あなたにとっての「私」は、もしかして自分らしくない生き方を担っている存在なのかな?と思いましたが、どうでしょうか。

そして、助けて欲しいのに、助けてもらうために自分を開示しなければならないのが嫌というところ、私も一緒だなと思いました。私は晒すのが嫌どころか、自分でその部分を直視することも避けている状態です。なので、助けを求める場面が来ても、うまく説明することができない気がしています。いい加減、自分の中でだけでも整理しなければなと思いつつ、つい先送りにしてしまっています。

あなたの計画書は、このしんどい道を歩むにあたっての切り札のようなものなのかなと想像しています。「いつでも〇〇できるんだからな」と思うと、状況は同じでも気持ちに余裕が出て、今日くらい頑張ってもいいかと思えそうな気がしています。私も心の中で切り札を持ち歩いていた時期があるのですが、結局その切り札を使わないまま、その期間は過ぎ去っていきました。計画書以外の解放の道を私も探したい気持ちですが、まずは大の字に寝そべり、大声で「疲れた!」と言いたい気分です。

感想2

初投稿ありがとうございます。
希死念慮があったのは確かだけど、それとはまた違う感情(感覚?)がやってきて、そこにも悩まされていたことを想像しました。その正体がわかったきっかけなどはあったのだろうか…と気になりつつも、わかった瞬間はあなたにとって大きな気付きで、やっとしっくりくる言葉にたどりついた…そんな感覚もあったんじゃないかなと思いました。
「なんで死にたいの?」と言われて、仮に答えたとしてもじゃあどうなるのだろう…と私は思ってしまうのと、自分の中にある様々で難しい感情を、自分ではなく他者に「死にたい気持ちを持ってる人」と簡単に片付けられてしまってるような気持ちにもなりそうで、あなたの「そうじゃない」にはいろんな想いが込められてるように感じました。実は私も、自分のこの気持ちはなんなのだろうか・なぜこんなに苦しいのだろうかと悩み、その理由がなんとなくですがわかった時があって、大きな発見になった経験があります。わかった時とても腑に落ちたというか「そっか、そうだったのか…。」という、安心感とまではいかないけれどやっとわかったことに対する安堵感…くらいはあったので、あなたも似た気持ちがあるのかなぁと想像しているところです。
「私」として生きることに疲れたことに気づいて、そこからほかにこんな気持ちが湧いてきた、などはあったのでしょうか…。気付けたけれど、同時に、それにともなって色々と複雑な気持ちもじわじわと湧いてきたりして、きっとまた悩んでしまうこともあるよなぁと考えています。でも、話せる相手がいると書いてあり、少しだけホッとした気持ちになりました。また、「支えられています」や、「これで疲れてる」「自分のこの部分に触れられるのが怖いからだ」など、自分自身を客観的にみられている部分がある方なんだなと思いました。でもそれはもしかしたら、死にたいとは違う自分の中の気持ちを見つけるために一人で悩んできた経験があるからこその結果であり、ここに至るまでの、つらく長い道のりも感じた部分でもありました。
確かに、助けてもらうには自分の心を一部出さなければならないと私も思います。出したところで絶対救われるのか…それもわからない分、とても不安だよなぁと思います。でも、誰かに気づいて欲しい・救ってもらいたい気持ちをもつ自分がいるからこそ葛藤してしまい、更に苦しくなってしまったりがあるんだよなぁ…と、自分の経験からも、あなたの心や状況を想像してみました。逃げ込める・話せる相手がいても、逃げ道は多ければ多いほど安心できますし、それがリアルにもネットにもあってくれれば選択することができるのになぁと思う私がいます。あなたも言っていたように、書いてみてわかったことや気付くことがあると思います。言葉のニュアンスは、少し違うだけでしっくりくしっくりくる・こないが大きく変わるものだと私は思うので、自分にとってこの言葉だ、というものを心に決めている、心で握っているような感覚かなと想像しました。ここではどんな書き方でも大丈夫なので、自由にまた訪れてみてください。

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