自分は幼い頃から、恐怖や不安とずっと戦っていました。
「いつか殺されるかもしれない」「ずっとこのままなのかもしれない」そんな感情を抱いたまま、日々を過ごしていました。
けれど、そんな日々にも終わりがきます。父親の提案により、通信制高校に通うことになりました。
通う前は不安や恐怖で心がいっぱいだったのですが、いざ通ってみると自分と同じ様な境遇だったり、苦しみを抱えている人が多く、仲間ができたようで嬉しく、学校に通うのも楽しいと感じました。
ところが、コロナウイルスの感染拡大により、ただでさえ少ない登校日数や、学校のイベントなどが少なくなり、他の生徒との交流が極端に減ってしまいました。
孤独という絶望の中から出ていくことができたと思った矢先に、コロナウイルスという理不尽によって再び絶望の中に戻ってしまうと、当時は思いました。
しかし、以外にも当時の自分はそこまで絶望はしていませんでした、むしろ安心していたと思います。
「自分はどうせ上手くいかない」「自分は一生不幸のまま生きていくんだ」そう思うと何故か、胸の奥の不安は消えていく様な感覚がありました。そして進路を決めるわけでもなく、高校を卒業しました。
そこから約2年間は何もしていませんでした。ある日父親から就労支援センターに行こうと言われ、断る選択肢はなかった為、父親と一緒に行きました。
職員の人たちは親身になって自分の話を聞いてくれたり自分の将来についても真剣に考えてもくれました。
就活のサポートになるようなプログラムや、講義などもしてくれて、とても自分の為になっていると思います。けれど、家に帰ると不安や恐怖の考えが溢れだし、心臓が苦しくなってきます。
周りにはいい人達がいっぱいいて、環境にも恵まれていて、不安や恐怖を感じることなんて一つもないと、頭では分かっているつもりだけど、胸の奥の苦しみは消えずにずっと自分を苦しめています。
そして最悪なのは、自分がその苦しみに安心を感じていることです。
矛盾しているように見えると思います。
自分の最悪の未来や、結末を想像すると心臓の鼓動が収まっていく感覚があります。
想像のつかない幸福な未来より、予想のつく不幸な未来の方が自分は安心できるのだと気づきました。
そして、今までの自分の行動にも納得出来ました。優しく話かけてくれたクラスメイト。真剣に進路について相談に乗ろうとしてくれていた先生。
差し伸べてくれていた手を、自分は適当な理由をつけて、はねのけていました。
不幸でいた方が安心するからです。
裏切られるより、裏切ったほうが安心できると思ったからです。傷つけられるより、自分で傷つけた方が安心できると思ったからです。
自分でも意味不明なことをしている自覚はあります、しかし無意識にやってしまいます。
他人の善意を無下にする卑怯者だと言う自覚もあります。
けれど、それこそが自分だという感覚もあります。
幼い頃から、不安や恐怖を何とかする為に、他人を遠ざけ、痛みで苦しみを紛らわせ、何とか今まで生きてきました。
だからこそ、今でもそうするべきだと感じます。
自分の中から不安や恐怖が無くなってしまったら、何も残らない、空っぽな人間になってしまうと思います。それが何よりも怖くてたまらないです。
自分という存在を守る為に、不幸という名のアイデンティティを捨てられない自分が嫌いです。
経験談はそれぞれの投稿者の個人的な価値観や感じ方をそのまま掲載しています。一部、リアリティのある描写や強い価値観が含まれるため、読む人にとっては負担等を感じる場合もあります。各自の判断で閲覧してもらえるようにお願いします。
不幸という名のアイデンティティ
感想2
あなたの率直な感覚と経験が書かれた文章だと思い、興味深く読ませていただきました。そして読んでいて最初に浮かんできたのは、当たり前のことかもしれませんがアイデンティティというのはその人に元々あるものではなく、自分として生きさまざまな影響の中で自分なりに見出していくものなのだなということです。私の友人が、以前「死にたい自分」でいることがアイデンティティだから、「死にたい」と思っていない瞬間があることが自分じゃなくなるみたいで怖いという話をしていました。私からすると、その人が死にたいと切実に感じているときも、その感情をひととき忘れて過ごしているときも、関わればいつも変わらずに「その人らしさ」を感じるのですが、その人からすると、「自分らしい瞬間」と「自分らしくない瞬間」があるのだなと思った記憶があります。あなたにとっても「不幸」という感覚を握りしめていると、苦しいけれど安心するような、「知っている自分」である感じがあるのかなぁと想像していました。
あなたが戦ってきた恐怖や不安がどのようなものなのか、私には受け取りきれていない部分があると思うのですが、変化があることや見通せないことへの恐怖も含まれていたりするのだろうか……と考えていました。もしそういう部分があるとしたら、「一生不幸のまま」であることは、ある意味で自分のこの先の生涯を見通せるような安心の感覚にもなるのかなと思ったのでした。
不安や恐怖の感覚はどんなに繰り返されてもすごく負荷のかかるものだと思います。それに日々リソースを割かれながら生きることは、それだけですごく大変なことだと思いました。一方で、あなたは父親さんや高校で出会った人たち、就労支援センターの職員の人たちなどとの良好な関わりも感じました。それらの関わりや優しさはあなたにとっても、きっと嬉しいこととして積み重なってきているのかなと想像しています。でもそれが嬉しさになる一方で、戸惑いにつながってしまうタイミングがあるのかなぁと考えていました。
私自身もあなたと同じではないのですが「自分でも意味不明なことをしている」と思うような自分の行動に振り回されてきた感覚があります。そしてその背景を知ろうと、自分を分かろうとしてきたなぁと思います。あなたもきっと自分自身を理解したい思いがあるのかなと思いました。
「他人の善意を無下にする卑怯者」というのは、私から見たら、そうかな?と疑問が湧いてくるワードな気がしました。もしかしたら、周りのだれかには、そう見えてしまうこともあるのかなとも思います。だけどもしそうだとしたら、それはあなたの中にどんな感覚があるかが伝わらないからで、文章を読んだだけであなたのことをたくさんは知らない私にも、卑怯者とは感じられませんでした。この言葉から私に伝わってきたのは、あなたが、他の人たちの善意を本当だったら受け取りたいのに、うまく受け取れない葛藤を抱えているということでした。それはすごく複雑な感情で、あなたがこれまで生きてきた中で積み上げてきたことは不安と恐怖だけではないということでもあるように思いました。不安も恐怖も簡単に綺麗さっぱりなくなるわけではないと思うと同時に、もしも不安と恐怖がなくなっても、あなたの中にはこれまで生きてきて考えてきたことや誰かと関わって生きてきた歴史が残っていくのだろうなと私は思うのでした。
あなたの言葉で、あなたの葛藤や切実な感覚を文章にしてくれてありがとうございました。
感想1
投稿ありがとうございます。
幼少期から抱き続けてきた恐怖や不安はどこからくるものなのだろう、と想像しながら読みました。「苦しい」という表現は基本的に「苦しみたくない」という感情とセットだという認識があり、投稿者さんも「苦しみたい」わけではないのだと解釈しています。一方で、ずっと「苦しみ」しかなかった場所から突然それが無くなった(存在感が薄まった)ら、動揺もすると思います。苦しみの中での自分の在り方(過ごし方)しか知らない、ここまでくるだけでも戦いだったのに、また新たな生き方を習得しなくてはいけない、そんな徒労感もあるんだろうかとイメージしています。
私は「幸せになること」や「人の善意や好意をありがたがること」がどこかでプレッシャーになっているような感覚があります。そもそもなにが「幸せ」なのかは人によるはずですが、世の中にはなんとなく「こうあったほうがいい」という人生のパッケージがあって、そのうえでそれを達成し維持しようと思ったら相当頑張り続けないといけない。周囲のサポートだったり成果や技術を積み重ねられる仕組みだったり、そういうものがあるのはありがたいし助かるけれど、「頑張らない(頑張るタイミングを自分で決められる)自分」でいる道を閉ざされていくような気も、私はしてしまいます(何をもって「頑張る」なのかというのも一概には言えないですが…)。
勝手な解釈ですが、文中の「~してくれた」「恵まれている」という言葉には、義務的な響きを感じるというか、「周りが勧めてくるものがいわゆる”幸せ”で、”普通”なんだろうな」「そう思った方がいいんだろうな」というような感覚が含まれているように思いました(全然違ったらすみません)。投稿者さんが生きることやその選択に不安や恐怖を感じ、そこに安心感を抱くとき、それは感情が矛盾しているというよりは、生きる上での「安心」を感じられる(とされている)生き方の選択肢があまりにも限られている現状があるのではないでしょうか。投稿者さんにとっての「安心」や「幸せ」の形が、今提示されている「それらしきもの」のなかに必ずしもあるとは限らないのではないかな…と、そんなことを考えました。
不安や恐怖を感じたくて感じる人がいるのではなく、その感情に心を支配されずにはいられない環境や状態がまず先にあるんじゃないかな、と思います。自分を守るために不幸という名のアイデンティティを捨てられないというよりは、あなたが自分の「中身」を探したり作ったりできるはずだった時間を、たくさんの不安や恐怖が奪っていってしまった、というほうが個人的にはしっくりきました。感情と存在はそう簡単に切り離せないものですが、感情がどうあっても投稿者さんの価値や存在は揺らがないはずだと感じる私がいます。