昔から変人で、昔から人のことが好き。みんなのことを信じていた。
クラスメイトは全員友達だと本気で思っていた。からかいは愛あるもので、みんな友達。私はみんなのことが大好きだしみんなもお互いのことが好き。無意識の内にそういうものだと信じていた。でも違った。
小四の頃の休み時間、教室や校庭には人のグループができていた。かと思えば一人で少し寂しげに何かをしている人もいた。私もその一人だった。「なんでグループの子達は誘わないんだろう」「前は一緒に遊んでいたのに」「でもグループの子達は私を揶揄いはするよね」そうこう考えている内に気がついてしまったんだ。みんなが友達なわけじゃないんだって。
ショックだった。あると思っていたものは存在しなかった。私が信じていたのは自分で作り上げた虚構だった。裏切られたような他者への失望に陥り、彼らが裏切ったのではなく自分が期待し過ぎたという自認が羞恥心と自責をもたらした。
ただ、友達だと思っていた人達が友達じゃなかっただけ。でも私が人を信じられなくなるのには十分だった。
それからというもの、人と関わるたび恐怖が顔を出すようになった。友達だと呼んで良いのか、一緒に行っていいのか、休み時間に話しかけて良いのか、彼らは私のことを嫌っていないのか。ずっと戸惑って上手く行動できなかった。
中学生になる頃にはみんなが「〇〇やる」と言ってやらないことがあるのも理解し始めた。責任感が強く真面目を貫いていた私は、もうどうやって人を信じれば良いのか分からなかった。
信じられないけれど相変わらずみんなのことは好きだった。好きな人達が信じられていないことに気がついて悲しくなるのは嫌だった。苦しんで、悩んで、結論を出した。
雑になろう。
私は雑になった。人との関わり方や言動をあまり気にしないことにした。そうすると少しずつ周囲の人が増えていった。嬉しい。苦しかった時代が嘘みたいに日常が喜びで溢れていった。
高校生になって少しして、人生で初めて私のことを恋愛的に好きだと言ってくれる人が現れた。嬉しくなると思っていたのに最初に来たのは喜びじゃなかった。私は昔みたいに困惑していたんだ。
その人の愛の言葉を信じられなかった。信じられない自分が気持ち悪くて、申し訳なくて、きっと信じることができても私の大きすぎる愛がその人を潰してしまうと思って、断った。
雑になっても人を信じられているわけじゃない。当たり前のことに気がついた。
それでも雑な生活を続けた。他にどうすれば良いのか分からなかった。雑にしていると提出物も出さなくなってくるしテストや成績もどうでも良くなってきた。何かが狂い始めていたけれど、見て見ぬ振りをしていた。
ある日人生で初めて遅刻した。月に一回、二週間に一回、一週間に一回。だんだん学校を休むようになった。体調不良ではなく家でずっと寝ているだけだった。
クラスメイトが心配してくれた。曖昧に微笑んで「大丈夫」と返すことしかできなかった。親にも心配され、心療内科に通うことになった。心療内科の先生の問いかけにも「大丈夫です」と返すことしかできなかった。自分が心療内科に通っている理由が分からなかった。
そうこうしていたらいつの間にか受験生。心療内科は受験を理由に通うのをやめた。一週間前くらいに希死念慮が強まって死のうと思っていたけれど、一旦落ち着いてきている。
希死念慮が強まった後少し気がついたことがある。雑に生きるのは私に向いてないのだ。雑な自分を認められても、心の底で受け入れられていない。
真面目に生きたら苦しくなって、雑に生きたら壊れてしまう。どうしろっていうんだろう。人を信じられたら、真面目に生きてるだけで良かったのになぁ。
感想1
あなたが感じてきたことの過程を辿るように読みながら、私はいつから人のことを信じられなくなったんだろう?と、そんなことを考えました。私は「みんな大好き」と思っていた時代はおそらくないのですが、とはいえみんな「いざとなったらやる気を出して頑張るはず」「本当に嫌なこと・悪いことはしないはず」ということは漠然と信じていた気がします。おそらくそのころは自分も生真面目に優等生を貫いていたし、無邪気に軽やかに人と関わっていたと思います。ただ次第に、「自分と道理がまるで違うんだな」という人間に出会いショックを受ける段階が訪れ、それと同時に自分自身でも「言っていることとやっていることが違う」とか「誰とでも同じように仲良くするのは無理だ、あの子のことは避けたい」とかそういうことを思いはじめていき、そこで自分の「外」と「内」が出来てきたように感じます。「外」は実際に人から見える部分、言ったりやったりする自分で、「内」は思っていても言わないことや人への嫌悪感や自己防衛などの人に見せない自分、というニュアンスです。
これは私の勝手な解釈ですが、あなたは限りなく「外」と「内」の境目が薄い、あるいはその区別を設けることにしっくりこない(モヤモヤする)感覚があるのかなと感じました。「この人は友達」だと思ったら本当ならそれをそのまま行動として反映させたいし、反対に「これはあまり気が乗らないな」と思ったら可能ならやりたくない。けれど、実際には学校のルールや人間関係の曖昧さや、相手が「外」と「内」を使い分けて言行不一致だったりして、その中で軋轢を生まず適応しようとするとどうしたって空気や流れを「読む」作業が必要になっていく…そんな「モヤモヤ」をイメージしました。そう考えてみると、人のことを信じられないのはあなたの問題というよりも、「ありのまま信じる」ことを難しくさせる日本の(少なくともあなたが過ごしてきた場所の)「読み合い」「察し合い」文化の弊害なのかなと感じました。「信じる」ことは手放しに良いものとして扱われる気がしますが、実際にはものすごく難しく、条件付きの信頼や信用もたくさんあるなあと個人的には思っています。
また、(人を信じきれない思いの中で)人と関わろうとする時には、相手の機微を推し量る作業だけではなく、自分自身がその相手からどう見えていそうか?というような「自分のこと」を考える作業も発生するのかなと思います。そもそも不安や恐怖がベースにある状態で自分に向き合う時間が増えていくと、どんどん自信をなくしていく、すなわち自分のことを信じるのが難しくなっていくような気がしています。「雑になる」ことで気持ちが楽になったのは、相手とのかかわりを深く考えないとともに、自分に向く矢印も和らいだからなのかなと想像しました。
経験談に書いてくれたことはおそらくあなたのなかで渦巻く言葉や思いのほんの一部なのだと思います。あなたはきっと、小さい頃から時間をかけて「自分」という人間に向き合い続けてきた人なんじゃないでしょうか。だとすれば疲れはて、全部どうでもいいな~というモードになっても無理はないのかなと。もしかするとその内省の深さや真面目さと、「雑さ」は、同時には存在しきれない・簡単には相容れないものなのかもしれないなあとも思ったりしますが、一方で「雑さ」と「真面目さ」どちらかに絞らずとも、そのあわいを探っていくことはできるのかもしれない…とも感じました。私自身もまだうまくチューニングできず日々のたうちまわっていますが、よければまたここで、思いを交わせたらうれしいです。
投稿ありがとうございました。