就活を通じて、自分がいかに何もできない人間で、価値がないのかよくわかるようになった。
大学生になって心理学を専攻するようになってから、
ようやく自分が親から精神的虐待を受けていたこと、そして通っていた小中高はあまり良くない環境だったのだとわかるようになった。授業中に挙げられた、「精神的虐待の例」が父そのもので、何とも言えない呆れのような、諦めのような気持ちになった。
昔から父に「できない」と言うと怒られ、笑うと「うるさい」と怒られ、泣くと怒られ、怒られるのが怖くて様子を伺えばまた怒られた。父を避けたら、また機嫌を損ねてしまう。特に酒を飲んでいる父は、話も通じなくなるのでもっと怖かった。
でも殴られることはなかったし、私の精神が弱いだけだと考えることもできるわけで。衣食住はあったし、欲しいものは買ってもらえていたし。
父に認めてもらえない反動か、小中学校で自分らしく行動していたら、いじりの対象になって。でも別に、いじめって程ではなかったし、今振り返ればただのアホな学生で、正直黒歴史でしかない。
高校では自分を理解してくれる友達が沢山できた。友達と遊びつつ、大人しくしていた。それでも何故か、やんちゃな生徒から心無いことを何回か言われた。まあ仕方ない、ブスだし運動もできないし。
でも大学生になって、自分で専攻を選んで、ようやく落ち着ける環境に行き着くことができた。
受験は失敗して滑り止め大学に行ったけど、友達もできたし授業は面白いし、似たもの同士が多くてクラスメイトとも話しやすかった。だから好きに遊んでしまった。趣味にのめり込んでしまった。
そしていざ就活が始まると、何にもできていないことに気づいた。遊び呆けて、社会的に価値のある行動を何もできていなかった。
資格とかは取ったけど、特にアピールポイントにもならず、アルバイトも店長と喧嘩して数ヶ月で辞めたので意味がない。むしろ、社会不適合者であることを助長してしまう。
大学でやっと自分らしくいられる環境を見つけたのに、それでは遅かった。人生単位で、周りに遅れをとっていた。
父と過去の環境のせいにして自分を正当化するのは簡単だけど、そうしたところでどうしようもない。
書類の添削をしてもらったり、面接練習を予約したり、できることはやっているつもりだけど、多分「つもり」でしかない。内定という結果が伴っていないから。
それに、父も過去の環境も、多分大したものではない。実際、もっと酷い親の元に生まれ、酷いいじめを受けた友人もいる。
また、そもそも父が被虐待児だから、こんなことで泣いている私が気に食わなかったんだと思う。
結局私は、自分は被害者なのだと言い訳をして、やるべきことをしなかっただけにすぎない。
就職に失敗して社会のレールから外れることだけは避けたい。でも、これまでの人生には何もなかったから、就職できそうにない。そして、内定を貰うことがゴールではなく、むしろ社会人の始まりであることが恐ろしい。
もうどうしたらいいのかわからない。
被害者ぶっているだけで、その実何もしていない自分が嫌い。皆にできて当たり前のことが何もできない自分が嫌い。
誰かに助けて欲しいけど、助けてもらうにも値しない。というか、自分の足で立たないといけないのに。苦しい。しんどいです。
経験談はそれぞれの投稿者の個人的な価値観や感じ方をそのまま掲載しています。一部、リアリティのある描写や強い価値観が含まれるため、読む人にとっては負担等を感じる場合もあります。各自の判断で閲覧してもらえるようにお願いします。
就活がつらいです
感想2
こんにちは。読んでいるうちに、お疲れ様、あなたはよく頑張って耐えてきたということをまずは労いたい気持ちになりました。それから、なんだか勝手にあなたの側に立って、就活やらなにやらに文句を言いたい気持ちがふつふつと湧いてきています。
「いじめって程ではなかった」「精神が弱いだけ」といった言葉は、あなたがあなたに言い聞かせ続けてきた、ある種の鎮静剤のような言葉なのかなと思いました。でもそれは一方では、あなたがつらかった、苦しかったという気持ちをも否定してしまう諸刃の剣なのかもしれません。
それでも、あなたが心理学を学びながら、自分や人間のことに興味を持ち取り組んできた中で、ただ否定する以外にも理解する方法を色々と身につけて、自分らしいということがどんなことなのか実感できるようになってきたのかなぁという感じを文章から受け取りました。 あなたがあなたのことやあなたのこれまでのことをわかろうと、自分なりに選び、学び、そしてその環境での学びや人間関係に喜びを見出してきたことはとてもすてきなことのように感じました。
それらはあなたにとって価値のあることだったのではないかと想像しています。そしてそれはだれにも、なににも否定する権利はないものだと私は思います。それを「社会的に価値のある行動」ではないかのように決めつけたり、そう思わせたりするような仕組みが就職活動にあるなら、そちら側の方がとてもくだらないし、よからぬ価値観を押し付け振りまくものに他ならないと私は思います。私は社会にはさまざまな種類の学びや楽しみに向かう人がいて、さまざまな興味があり、さまざまな得意不得意があり、さまざまなコミュニケーションスタイルや生活への希望がある人がいることで、うまく回っていくものだと思います。「能力」と呼べるものはほんとうにたくさんの種類があるはずです。ただ、就活はそういう豊かな社会のありかたとは違い、資本主義のもとで、人間を数種類の鋳型にはめ、既知のいくつかのタイプの能力ばかりをはかる仕組みと化しているように思います。
ちなみに私は新卒としての就活はほぼしておらず、いろいろと会社を転々としつつ生活してきました。その意味では「社会のレール」に乗った人間ではないし、「社会のレール」(と思われているもの)がそんなに大事なのかというと、そんなことないと言いたい気もします。とはいっても、そう感じるのは今の私の周りにいろいろなやり方で生きている人がいるからで、もし就活があまりにも当たり前の環境にいたら、それが絶対のように感じられるのも無理もないように思います。
企業や社会の勝手なメッセージをたくさん押しつけられる中で苦しくなってしまうなら、そんなのやらなくてもいいよ!と、これも無責任には違いないのですが、どうしても言いたくなってしまいました。 もちろん、就活自体を人生の経験としてやってみるのもありだな!と思うなら、やるのは全然いいと思うのですが。
この文章を書いているあなたは、これまでにも増して就活で自己責任論をたくさん押しつけられて、自責でいっぱいで苦しい気持ちなのではないかと想像しています。でも自己責任論は人々を孤立させていく有害な論理だと思っていて、個人に責任を求めるばかりではない形の連帯が社会には可能なはずだと思いながらこのサイトに関わっています。これを送ってくれてからしばらく経っていて、今のあなたはどうしているのかなぁと気になっています。あなたの切実な気持ちを書いてくれてありがとうございました。その後のことも、よかったらまた聞かせてください。
感想1
「社会的に価値のある行動を何もできていなかった。」という文章を読み、しっかりと遊びきった時間を良き思い出と思わせてくれない社会を、なんだかとても苦々しく思いました。ドミノ倒しのように、バタバタとあなたの心を倒していくその正体は何だろう。義務教育から大学まで、多くの場合が明確に答えや見本のある試験やテストを受け、その結果を基準に成績や結果がつけられていた。就職活動になった途端に対策可能な適性検査と共に、会社の求める人物像かどうかという曖昧な判断で結果をつけられてしまう。こんな苦しく突然厳しいことは無いと、社会の仕組みに苦情を言いたくなってくる。社会が求めるやるべきことと、あなたが求めていたやるべきことは一致しなくて当然で自分を優先できたことに拍手を送りたくなる私がいます。社会は自分を簡単に小さな点にするけれど、自分自身はそうはいかない。店長と喧嘩をしたのにも、あなたなりの理由があるはず。社会に対しての「つもり」や「ポーズ」はテクニックとして習得できそうな気もするけれど、自分に対してどんなポーズを取るかはあなたにしか決められない。社会のレールは一つじゃない、あなたの価値はひとつじゃないと、通りすがりの大人として伝えさせてもらいたいそんな気持ちになりました。勝手なことをごめんなさい。投稿いただき、ありがとうございました。