経験談はそれぞれの投稿者の個人的な価値観や感じ方をそのまま掲載しています。一部、リアリティのある描写や強い価値観が含まれるため、読む人にとっては負担等を感じる場合もあります。各自の判断で閲覧してもらえるようにお願いします。
誰にも理解されないって思ってた。
実は、とても空虚な気持ちでいた。
ある人が話しかけてきた。
宗教勧誘だったらしい。その時私は3歳だった。宗教がよくわからなかったの、だから行きたいって言って、行った。
それで、やっぱり行きたくないって思った。
行きたくないって言ったら、
◯◯(私)が決めたことだから行けって怒鳴られちゃった。
自分の選択が誰かに奪われたようで、本当に世界がなくなったような、凍った気持ちだった。
それで自分で決めることが怖くなった。
反射的に「なんでもいいよ」っていうことがよくあって、それはそれで怒鳴られちゃった。
私の気持ちが置いてけぼりで、心に巨大な空洞あったみたい。
どこに地雷があるかわからない感じで、
ただひたすらに命令に従う日々だった。
誰も守ってくれなかった。すごく悲しかった!
あの時〜していれば私は守られたのかな、とか行きたくない場所に行かなくてすんだのかな、って過去のことなのに今でも気持ちがある。今と過去が重なって見える。
誰にもわかってもらえない気がして、すごく虚しかった。
私の苦しい気持ちは無視されるけど、私が加害的なことをしたらたくさんの人が私を見た。他の人は許されても、私は批判された。
加害的なことはしたらダメって思う。
でもなんで私は加害的なことをされても無視されるの?苦しくても無視されるの?
すごく孤独で寂しくて、飢えてるみたいだった。
どうしたらいいかわからなかった。
私は親の「物」な気がしてすごく苦しかった。それで、自ら傷つけたり大切にしないようなことをしたら離れられるかもって思った。危険なことをして、体や心を傷つけるようなことをした。
でも、そんなことをしても、やっぱり空虚な気持ちだった。少しは離れられた気がしたけど、なんか違った。
あの苦しさってどうしたらよかったんだろう?って今でも思う。
今にいるけど過去の余韻があるみたいで、ずっと傷ついてるみたい。
感想2
「今にいるけど過去の余韻があるみたいで」、なんだかこの言葉が印象的、かつ鮮烈に私の目に映り、自分にも幼い頃の出来事に起因する生きづらさがおそらくあるんだろうな…とそんなことを考えながら読んでいました。
3歳という年齢を考えると、(あくまで私の記憶での想像ですが)分別がついていると言うにはまだ幼すぎますし、知らないことのほうが多いのが当たり前で、それに伴って自分の意思で何かを選択したり決めたりということはまだ十分に経験していないかなという印象です。加えて興味や価値観も二転三転する方が自然な年齢に思えますし、「やってみたや」「経験してみた」といった感じで、ある意味でコロコロと自分の中の印象や考えを変化させながら、自分自身を大きく成長させていくもののような気がしています。
それで言うと、そのときはわからなかった宗教の勧誘に興味を抱き、「行ってみたい」と思ったのはあなたの素直な気持ちだったのでしょうし、いざ行ってみて「行きたくない」と思ったのもまたあなたの素直な気持ちのような気がしています。それは親からすれば、180度言っていることが変わったように映ったのかもしれませんが、「やってみたけど考えが変わった」なんてことは子ども大人関係なく誰にでも往々にしてあるうえに、変化していくのが人間だということを考えると、決定や主張に対しての変化や修正を許さないともとれるような向けられた言葉は、あなたの意思やその主張に蓋をさせるには十分な出来事だったように感じられました。
それは人生単位で見たら幼い頃に経験した出来事の一つにすぎないのかもしれませんが、親や周囲、自分を取り巻く世界から多分に影響を受けやすい時期であることを考えたら、とても大きな傷をあなたに残したのでしょうし、自己決定を奪われた(と感じてもおかしくない経験をした)あなたにとっては「なんでもいいよ」というスタンスは自身を守る防衛本能でもあったのかなと思えました。ただ、それに対しても向けられる「自分を持て」ともいわんばかりの反応はよりいっそうあなたを困惑させたのでしょうし、胸にある思いや感情を出せないことの連続が孤立感や孤独感、虚しい気持ちを形作っていったようにも思えます。。
自分自身と向き合ったり、素直で率直であるには今はもちろん、過去のことも大切になってくるように個人的には思います。ただ、そこ(過去)にはもう手が届かないということを考えると私自身もその難しさをとても感じることが多いです。ですが、過去の自分が今の自分を作り、今の自分が未来の自分を作っていくのだとすれば、どうしたらよかったかわからないとしても、ずっと傷ついているような感覚があったとしても、そのことをおざなりや蔑ろにせずに、今のあなたなりに真剣に過去の自分を受け止めていることはとても大切なことのように私には思えました。
感想1
文章の中で繰り返し使われる「空虚な気持ち」という表現に対し、本当はその空洞があなたの意志や気持ちで埋まっていたはずなのに、それを奪われ続けてきたのではないかと そんなイメージを抱きました。
3歳の子どもの判断能力をどれだけ信頼し、どれだけ尊重してよいものなのか、どこまで言葉や決断の責任を持ってもらうべきなのか、と考えました。行くかどうかを本人だけに決めさせるのは危険な年齢で、決めたことだから真っ当しろと言い放つには幼い年齢だと思います。
例え大人が判断したことであったとしても、勧誘を受けたときのイメージで感じた「行きたい」と、実際に行ってみて感じた「行きたくない」の中身は、全く違うもののはずです。
そんなに重たいものを背負わされるなら、もう自分の意志で決めることなんて、二度と御免だと思いました。そういった悲しい経験があったからこそ、自分を守るために「なんでもいいよ」ということにしたのだろうなと思います。それなのに、なんでもいいと言ってばかりでも怒られるなんて…「じゃあどうしたらいいの、何なら受け入れてくれるの」って、私なら言いたくなってしまいそうです。
何か言っても選択を奪われてしまうし、何も言わなければそれも責められる。自分が傷ついても無視されるのに、誰かを傷つけた途端に咎められる。本当に悲しかったと思います。理不尽や不平等を感じたとしても、特に子どものうちは、親に守ってもらわないと生きていけないという気持ちから、耐え忍ぶという選択しか取れないことも少なくないのではと思います。
時間が経ち、それらも今は過去の記憶となっているけれど、それでも余韻が消えないのは、影響の大きさを痛感します。どうしたらよかったのか…というと、私も思い出すと喉元がむず痒くなってしまうようなしんどい経験がたくさんあるのですが、あの時にしか救ってあげられない自分が取り残されたまま…と思うときもあれば、今からあの時の埋め合わせができるのではないかと思うときもあり、自分なりの答えさえ出せないままでいます。でも、わからないままでも、それが気にならなくなるまでは、こうして考え続けたり、誰かに共有することって、すごく大事なことなんじゃないかなと思っています。