経験談はそれぞれの投稿者の個人的な価値観や感じ方をそのまま掲載しています。一部、リアリティのある描写や強い価値観が含まれるため、読む人にとっては負担等を感じる場合もあります。各自の判断で閲覧してもらえるようにお願いします。
5年前、とあることがきっかけで私は私を嫌いになった。とあること、と書いたのは、家族にも、親しい友人にも、この世の誰にも言えないくらい、私にとって辛い出来事だったから。ここでも言えないみたい。どこでなら言えるのかな。死ぬまでに誰かに言える日がくるといいなぁ。
私は周りから見ればきっと幸せに見える。素敵な家族・環境に恵まれ、金銭的に苦労したことはない。沢山の愛情をそそがれて、幸せに育った。5年前までは、死にたいなんて思ったこともなかった。この世は幸せに満ちていて、自分のことが大好きだった。今考えると、あの時の私は、何も知らない、エネルギーに満ちた若さの塊だった。
だからこそかもしれない。絶望感は凄まじかった。必死に生き方を探して。必死に前を向こうとして。もがき続けて、色んなことを調べた。どうしたら助かるか、どうしたら辛さを乗り越えられるのか、どうしたら逃れられるのか。できることは何もなかった。できることは何もないことだけが分かっていった。どんどん鉄のシャッターが降りていく気分だった。次第に、絶望感は希死念慮へと変わっていった。私は私を嫌いになった。
私は自分を愛せなくなった。許せなくなった。死ね、消えろ、と暴言を浴びせるようになった。消えたくなり、自殺しようと思った。でも、怖くてできなかった。その恐怖は、身体がまだ生きていたいと言っているような、自分にはコントロールできないくらいの大きさの恐怖だった。許せなかった。こんなに死にたいのに。怖いごときの感情に、私の決定を覆えされることが屈辱的だった。
死にたいと思うまで、私は色んなことをたくさん考えた。安易に死にたいと思ったんじゃない。死にたいと思うまでに何百回も様々なことを考えて、生きるにはどうしたらいいか、前向きにもなってみた。膨大な時間と密度の思考の結果である、死という選択を誰にも邪魔されたくなかった。それなのに。邪魔してきたのは私自身だった。
時に、身体は思考を上回る。生物としては当たり前かもしれない。でも、人間は生き残るために獲得した賢さをもって、生物として矛盾し始めた。生きるために、思考して、その結果死にたいなんて。最高の皮肉だね。人生で一番笑ったかもしれない。
神様はいるだろうか。もし、私が死んだとして、私に会ってくれるだろうか。私の話を聞いて、反省してくれるだろうか。謝ってくれるだろうか。私は神様に一言、ごめんねと言って欲しいだけなのだ。それ以上は望まない。反省なんかしてくれなくてもいい。
死にたい。
感想1
シンプルで端的な言葉の中にあなたの強い感情が垣間見える、ぎゅっと力のある経験談だと感じました。タイトルや本文から「私」という存在と「私」という認識の枠組みのようなものについて考えながら読んでいました。絶望的なできごとの前と後で、あなたに見える世界も、あなたが感じるあなた自身も、まるで違うものになってしまったのだろうと想像しています。「身体は思考を上回る」という感覚は、私も希死念慮の中で感じたことがあり、コントロールできないこの身体と精神の解離のような状態のむずかしさを感じてきました。ままならなさの中でのあなたの激しい怒りのような感覚を経験談から感じました。
あなたにどんなことが起こったのか具体的にはわからない中で的外れかもしれないですが、あなたはその出来事の「以後」の日々を過ごすために、自分を嫌いだと感じたり、死ねと命令したりする以外に方法が見つからなかったということなのだろうと感じています。「人間は生き残るために獲得した賢さをもって、生物として矛盾し始めた」というのは私もよく感じるところなのですが、だからこそ、私たちはほんとうは解離した思考と身体のありようを、もうすこしつなげていくような時間やプロセスが必要なのではないかとも思っています。
ちなみに私は以前は私の思考こそが私であって、私の体はお荷物という感覚がありましたが、感情というもの自体も身体の反応をベースに脳がキャッチしたものだということを聞いてから、むしろ身体の方が本体で、この思考のほうが身体の中で発生した現象なんだなぁという感覚になりました。思考にはさまざまなバイアスもあって、人間は知能の高い生き物という言説がいうよりは、騙されやすく勘違いしやすいものなのかなぁとも思うのです。とは言っても私は長らく死にたいものは死にたいし、身体を痛めつけてきたので、なかなか身体と仲良くなれないなぁと感じながら、手探りで生きています。あなたの日々の苦しさの中には絶え間ない徒労感や悔しさもあるのかなと思いました。「神様に一言、ごめんねと言って欲しい」という思いも、もう神様以外にどうにかしてくれるものが見当たらない感覚の中での足掻きのような言葉という感じがします。それらすべて、あなたの苦しさと力強さを表した言葉で、そのエネルギーが自分に向かうことの痛みもあるのかなと思いました。この経験談は独白に近いものだと思いますが、読ませてもらって、あなたと言葉をかわしてみたい気持ちになりました。投稿してくれてありがとうございます。
感想2
たった1つのきっかけで、人生の心地が180度変わってしまうことについて考えながら読みました。その出来事が過ぎ去っても尚、心に残り続け価値観に影響を及ぼし、ふとしたタイミングで再演されたりと、長い時間じわじわと自分に巣食うような体験をしてしまったのだろうかと、詳細がわからないなりに思いを巡らせています。
自分から見た世界の在り方が変わることと、世界における自分の存在の仕方が変わることはある意味でほぼ同義のように思えます。投稿者さんの場合、「とあること」の前には疑う余地もなかったようなこと、考えずにいられたようなたくさんのことが思考や心にどっと流れ込んできて、世界も自分も崩れ、信じられなくなったような状態だったのかなと想像しています。一度見えて(感じて)しまったものを意識の外に出すのはすごく難しいことだと思います。何かを取り除いたり、やめればいいというものでもおそらくなく…。そのことを身をもって味わってきたからこそ、生き方の試行錯誤をしたのだと思いますし、そのたびに流れ込んできたものに削られ、絶望し、疲弊した先に辿り着いたのが「死にたい」という思いだったのかなとイメージしました。
個人的な価値観ではありますが、生きることに正面から取り組むほど、死にたくなるような気がしています。「正面から取り組む」が何を指すかは一概に言えませんが、「生きること」「生き方」には自分でコントロールできない自分や、他者、社会など多くの要素が含まれていて、それらに向き合って思考し続けるほど、その途方もなさと複雑さの前に立ち尽くしてしまうし、自分に矛先を向け始めるのではないかと考えています。私自身はその壁を見ないふりができず、かといって壊す気もないので、「なるべく死にたくならないような生き方」をしようと動いている人間と自己分析しています。投稿者さんが「最高の皮肉」だと表現したものが私にとってはとても納得感のあることで、それがすごく興味深いなと思いました。
感想1
シンプルで端的な言葉の中にあなたの強い感情が垣間見える、ぎゅっと力のある経験談だと感じました。タイトルや本文から「私」という存在と「私」という認識の枠組みのようなものについて考えながら読んでいました。絶望的なできごとの前と後で、あなたに見える世界も、あなたが感じるあなた自身も、まるで違うものになってしまったのだろうと想像しています。「身体は思考を上回る」という感覚は、私も希死念慮の中で感じたことがあり、コントロールできないこの身体と精神の解離のような状態のむずかしさを感じてきました。ままならなさの中でのあなたの激しい怒りのような感覚を経験談から感じました。
あなたにどんなことが起こったのか具体的にはわからない中で的外れかもしれないですが、あなたはその出来事の「以後」の日々を過ごすために、自分を嫌いだと感じたり、死ねと命令したりする以外に方法が見つからなかったということなのだろうと感じています。「人間は生き残るために獲得した賢さをもって、生物として矛盾し始めた」というのは私もよく感じるところなのですが、だからこそ、私たちはほんとうは解離した思考と身体のありようを、もうすこしつなげていくような時間やプロセスが必要なのではないかとも思っています。
ちなみに私は以前は私の思考こそが私であって、私の体はお荷物という感覚がありましたが、感情というもの自体も身体の反応をベースに脳がキャッチしたものだということを聞いてから、むしろ身体の方が本体で、この思考のほうが身体の中で発生した現象なんだなぁという感覚になりました。思考にはさまざまなバイアスもあって、人間は知能の高い生き物という言説がいうよりは、騙されやすく勘違いしやすいものなのかなぁとも思うのです。とは言っても私は長らく死にたいものは死にたいし、身体を痛めつけてきたので、なかなか身体と仲良くなれないなぁと感じながら、手探りで生きています。あなたの日々の苦しさの中には絶え間ない徒労感や悔しさもあるのかなと思いました。「神様に一言、ごめんねと言って欲しい」という思いも、もう神様以外にどうにかしてくれるものが見当たらない感覚の中での足掻きのような言葉という感じがします。それらすべて、あなたの苦しさと力強さを表した言葉で、そのエネルギーが自分に向かうことの痛みもあるのかなと思いました。この経験談は独白に近いものだと思いますが、読ませてもらって、あなたと言葉をかわしてみたい気持ちになりました。投稿してくれてありがとうございます。