経験談はそれぞれの投稿者の個人的な価値観や感じ方をそのまま掲載しています。一部、リアリティのある描写や強い価値観が含まれるため、読む人にとっては負担等を感じる場合もあります。各自の判断で閲覧してもらえるようにお願いします。
去年の9月末、新卒で入った会社を3年目で辞めました。そこから再就職もせず、今に至るまで実家で何もしない日々を過ごしています。
思い返せば物心のついた頃から今に至るまで、ずっと全てが面倒で、「早く終わればいいのに」「早く帰りたい」と思っていました。
学生時代から、自分がやりたくないと思った事に対しての忌避感が人一番強いタイプで、集団行動や行事などの「やらなくてはならない事」に対して、いつも「なんでこんな事しなくちゃいけないんだ」と思っている子供でした。口に出して、大人や周囲を怒らせた事もあります。周りは皆、各々折り合いをつけて物事に取り組み、「やらなくてはならない事」との付き合い方を学んでいっていたのだろうに、私は逃げたり、まともに向き合わずにここまで生きてきてしまったせいで今この現状にあるのだと思います。
ただ、大学を卒業するまでは流れに身を任せていればいつか卒業という形の「終わり」が見えてきます。
けれど、就職をして社会に出れば決まった形での終わりは無く、ずっとずっと仕事です。
そのことに絶望してしまったんです。
辞めた元職場にしてみても、例の如く就活というものに忌避感があったのと働きたくもなかったので、就職自体元々したくなかったんです。
結局、ほんの少し興味のあった分野で求人をみつけ、その1社だけを受けて決してまともとは言えない就活を終えました。就職した会社は他県で、実家から新幹線を使って片道3時間程度かかる場所です。
今となってはこの就職は、就活をする様子が無かった私に頻繁に干渉してきた親への当てつけの意味が強かったです。(この行為が当てつけとして成立する位、恵まれて育ったと言えるのかもしれません)
それから毎日仕事をして、慣れない土地で初めての一人暮らしをすることは想像以上に辛く、しんどくなりました。
そうして特に楽しみもなく仕事に疲れて暮らすうち、生きている意味が分からなくなりました。
生きる為に働くしかないのなら、生きていたくない。そう強く思うようになり、仕事を辞めて実家に戻りました。両親には働くことが苦痛で仕方ない、どうしても生きることに労働が必要であれば生きていたくないと同じような話をして実家に戻らせてもらいましたが、落ち着いたらアルバイトでもいいから仕事をしなさいという意図のことは言われています。
ニートは別に楽しくは無いんです。優しい人なんかは「しばらくボーっと過ごしたらいいじゃない」なんて言ってくれますが、仕事をしなくていいのは良いとして、結局ニートになってもやりたいことは無いので、毎日昼まで寝て、やる事に困っていたら夕方になって、一日がすぐ終わっていきます。時間はあるはずなのにいつも何かに急かされているような気がして、気がついたら早く今日が終わらないかな、時間過ぎないかななんて思っていて自分はいつを生きているのか分からない始末です。
それなのに全てが面倒ですから、起きることも、顔を洗うことも、食事も、悩むことも、入浴も全部がタスクなんです。今まで苦しんできた仕事や家事から解放されたかと思えば、身近な最低限の事が全部タスクへと変化して、うまく息継ぎが出来ないんです。
そして困ったことに、物事を考え出すと選択肢が「生きる」か「死ぬ」か、まで飛躍してしまうようになりました。
実際自死について考えた時期もありました。自死を考え続ける事で死がいつも身近にあることは気分を酷く落ち込ませるもので、力のいる事だと思いました。実際は衝動で動けば死はいつだって選べて、傍にあるものにも関わらずです。
けれど、結局私は死にたい訳ではなく生きていたくないだけで、その考えは私を楽にはさせるけれど、行動に移す理由にはなりませんでした。
ただ、死んだらもう苦しい事も嫌な事も、そもそもこんな風に悩む必要すら今後一切無くなるのだと思うと、建前としては充分魅力的に機能してしまうのです。
死ぬ覚悟がない以上、生きるしかなくて、「生きていくしかない」と諦めなくちゃいけないですよね。
人生の意味なんてこと言ってる内は分かる訳が無いのだからとりあえず生きてみるしか無いなんて本に書いてあったりすると凄く嫌になります。その「とりあえず」が私には辛いのに。
他、多くの人達が自分の人生になんとか折り合いをつけて生きているように、私もそうしなくちゃいけないのに、出来ない、それが苦しいんです。
死ぬ覚悟もないけど、生きる理由もない。
全ての事が面倒な上、何かをしようとしても意味を考え出した途端に馬鹿馬鹿しくなり、動けない。
それは死ぬことを押しのけてまでやる必要のあることなのか?、生きることの折り合いになるに値することなのか?
これの無限ループで、いつの間にか雁字搦めになってしまっています。
振り返ってみて、自分には特技も、これといった趣味も無く、人に自信を持って話せる己の要素が皆無で本当に中身が無いのだと気付きました。
頑張ったり、努力する事、そしてそれが出来る人の模倣をする事が大嫌い。全てを面倒くさがっていたら自分が思っていた以上の透明人間になっていました。
それでいて妬み嫉みの嫉妬心は人並み以上。人より優れていたい、そう見られたい、いつかは何者かになれるはず、という中身のない希望とプライドだけを大事に抱えて生きてきて、誰からも私は見えていないというのに、心持ちすら不相応。
「やりたくない事」への向き合い方が子供の頃から全く変わっておらず、小さな「嫌」から始まって、遂には「生きるのが嫌」まで肥大化させてしまったのかもしれません。
けれど、その対応の仕方が最早自分には分かりません。
自分の気持ちを優先し続けて来た結果だから、本当に自業自得だと思いつつ、吐き出させていただきました。
どうも長々と失礼いたしました。
感想1
投稿ありがとうございます。
私も「なんでこんなことやらないといけないの?」と思いながら学生時代を過ごしていたなと自分の過去を思い出しながら読ませていただきました。(けれど社会に出てからは嘘のように人が変わり、むしろ自分でしようとしすぎて適応障害を経験しました。)
めんどくさいっていう感情はすごく処理が難しいというか、処理するものなんだろうか、とか、ちょっとうまくまとめられない感じがしています。「めんどくさいと感じるならその時の自分には必要のないものなんじゃないか」と感じる部分もあれば、あなたが感じている「時間はあるのに急かされているような感覚」に多少なり覚えがあると感じる部分もあります。その感覚を消化しながらそのめんどくさいという感情に向き合う気力にまでも、めんどくさいと私なら感じてしまうと思います。
「日常のあらゆることがタスク」なんとなくですがわかる~…と感じました。人々はこれを毎日当たり前のようにこなしているのかと考えるとそのあたりがずぼらな私も結構凹んでしまいそうですが、実際、洗顔歯磨き食事入浴のような「生きる上で必要なこと」に体内のエネルギーをほとんど持っていかれるような感覚があるように感じます。例えば「ご飯食べたら歯磨きしないと」という工程すら義務感に背を押されて半ば無理やり行う、のように、「やりたくないのにやらなければならない」行動というのは、そうでないもの以上に大きなエネルギーを要するとも感じます。そして、おそらくそういった選択を迫られる場面が休む暇もなく訪れる(のかなと私は感じました)あなたの生活の中では「上手く息継ぎができない」のも無理ないなと感じ、だけど、息継ぎももちろんそうですが、深い呼吸でゆっくりできたらいいなとも感じました。
死に関連するものが身近にある状況はあなたの言う通りひどく気分が落ち込みますし、それがあるだけで多大なエネルギーを要する、と私もそう感じます。考え続ける結果、あなたの言う「建前」が選択として頭をよぎることもあるのかなと思いますし、諦念に似た思いでともに生きていく選択もあるのかなとも感じます。
でも「とりあえず生きてみなさい」なんて言われてもできるはずない…と私もそう感じるだろうなと思います。現状困ってることをすべて投げ出して一からやってみなさい、と言われているようなものだと思うと、つらい思いを抱える当人からしてみれば少し腹が立つものなのかなと個人的に思います。
人生の意味、私も分からず時折考えます。生まれ持った使命のようなものがあればはっきりしているのになぁと思う反面、そういったものがないということは、意味はそれぞれが見つけるものなのかな?生きているうちに見つかるものなのかな?曖昧ですがそういう想いが私にはあります。ただ、そう思ってはいるものの、あなたと同じように悩み、がんじがらめになることも多くあります。想像も行動も、信号を出すのは脳のはずなのに、なぜ頭で分かっていることが行動に移せないことがあるんだろうかと不思議でなりません。
私も透明人間寄りの人間だと自覚している節がありますが、この投稿を読ませていただいて感じたことは「あなたは本当に透明人間なのだろうか」でした。というのも、あなたはとても自身のことを深く考えておられるんだなと感じたからです。私はどちらかというとあまり思考せず日々時間をただ消化するような、わりと空白の時間ばかりなので、あなた程私は私自身のことを振り返ることができないだろうなと感じ、それはあなたの分析する力なのではないか、大きな強みなのではないかと私は感じました。
そもそも、嫌なことをやりたくないと感じるのは人間として自然な思考だと思いますし、「嫌でも我慢してやらなければならない」とか「するのが普通」といった風潮が社会に根付いていることが、つらい思いを抱える人の生きづらさを助長しているように思えてしまいます。また、あなたの中の小さな「嫌」が肥大化したのもあるのかなと思いますが、私には、「小さな「嫌」が肥大化するのと同時に別の小さな「嫌」が増え続け、それらがさらに個々で膨張している」ように見えました。そういった悩みの種が増え続ける状況に直面するのを避ける意味でも、自分の気持ちを優先することは悪ではないですし、ましてや自業自得などではないんじゃないかな、と私は思いました。
対応策というほど具体的なものを提示することは私にはできそうもなく申し訳ない思いですが、こうやって吐き出すことで少しでも楽になるのなら、、また利用してもらってもいいのかな、と思いました。
投稿ありがとうございました。
感想2
終わりが見えないのに繰り返していくこと…その恐ろしさと言ったらないと、自分の中にあった価値観を改めて認識する文章でした。何かを頑張って習得したり達成したら、今度はまた別の何かを得るために頑張らなければならない。私はこの繰り返しに対して途轍もない拒絶があります。
大学生の時は、月曜日に出された課題を金曜にプレゼン・提出するというルーティーンに、抜け出せないループのような苦しさを感じていました。頑張って頑張ってようやく金曜日に提出して終わった…と思いきや、週末のほんの少しのブレイクを挟んで、翌週また新しい課題が出て、それが何度も何度も続く…終わりがなくて絶望しました。
大学は私のなかでギブアップする選択肢がなかったので、卒業まで頑張りましたが、就職はもうどうしてもだめでした。3カ月で起き上がれなくなってしまい、その日がギブアップのタイミングでした。
常に成果を上げ続け、常に成長していると形で表さなければならないことに、ものすごいプレッシャーを感じてしまいますし、実際、気力体力能力が追い付かなくて溺れてしまいそうになるのです。
投稿者さんの、身近な最低限の事が全部タスクへと変化したという事象を、自分の経験に重ねて考えてみました。
私はもともと家事があまり好きではありません。綺麗にするのは好きなのですが、汚して洗って、散らかして片付けての繰り返し…それがしんどいなぁと感じます。入浴や食事も同じく汚して洗って、食べて消化して…その繰り返しに、たまに疲れてしまいます。
そして、働いていない期間や休日に感じるのですが、これらは社会的活動のために、自分に急かされたり強いられているところがあるような気がします。仕事に行くために整容しなければならない、その時間をとるために早起きを、早く起きるために前日は夜更かしせずに寝る、そのためには帰ってきたらすぐご飯を食べて風呂に…自分にとって、全て次のタスクに移るための準備タスクなのです。なので、何のための準備でもなく、ただ自分のための作業となると、何時間でも後ろ倒しにしてしまい、挙句翌日に繰り越すことがざらにあります(書きながら思ったんですけど、これってセルフネグレクトなんですかね)。
「生きること」と表現すると何やら壮大に感じますが、基本は同じ事の繰り返しだと思っています。寝て起きて活動して、食事を摂り、衛生管理をする…その繰り返しが、この壮大な言葉の大半を構成していると思うのです。
投稿者さんは、小さな嫌が肥大化してしまったと仰っていましたが、私は、もっと大きな「嫌」の影に隠れていただけでずっとそこにあったものなのではないか、「生きること」には小さな嫌が散りばめられていたのかなと思いました。この小さな嫌の集合体が、生きることをひどく面倒なものと印象付けているのではないかと思い、生きることから逃れること…死を意識せざるを得なくなったのかなと想像していました。死にたいわけではないけれど、生きたくないの選択肢が死しか思い当たらない、この究極の選択が日常に存在し続けているというだけで、擦り減っていくものがあるなぁと感じます。
「やりたくない事」への向き合い方を周りは皆学んでいったのだろうに、というところで、私も習得していないかも…!?と思わず焦ってしまいました。そもそも皆は、何をどれくらいやりたくないと感じているのだろうか、そこにも違いがあると思っています。
価値観について対話する仲間がいるのですが、ある人は投稿者さんに近いようなイメージがあり、日常動作やルーティンがタスクに感じたり、片付けるのにかなりエネルギーを要すると言っていました。一方である人は、やりたくない、面倒だと思うことがそもそもほとんどないので、ほとんどの事にすぐに取りかかれるし、エネルギーも使わないと言っていました。私はというと、前述のような感覚を持っていたり、また様々な要因に左右され、週替わりレベルでその負荷が変わっているように感じます。やりたくないと感じる度量や対象は人によって違うので、そこからもう勝負が始まっているじゃないか…(何も競っていないはずなのですが)と感じながら、日々を消化しています。キャパシティや感受性、個人差があるのは当たり前なのに、日常に落とし込まれるほどに、どれくらい個人差があるのか、特に言及されないままであるとも感じています。
感じ方や捉え方にばらつきがある一方で、私を含め、世間の人たちはこうしたやりたくない事にどうやって向き合ったり、折り合いをつけているのだろうかと考えてみました。
イメージしやすかったのは、「報酬のためにやる」です。報酬、評価、達成感や自信…乗り越えた先に何か得たいものがあれば、渋々受け入れて耐えることができるのではないかと思いました。逆に、その「やりたくない事」をやらなかったときの代償…権利や関係の消失、病気や困窮に近づくことなどへの恐れもあるのではないかと考えます。
何かを得られるか、または何かを失ってしまうのか、それらを天秤にかけ、”自分が耐えられそうなものだけ”を受け入れて、取りかかるのかな…と思いました。
「とりあえず生きてみるしかない」と本に書いた人にも、受け入れられないものはきっとあるのだと思います。さらに、その「とりあえず」の中での取捨選択が自分の価値基準に合ったものでないと、「とりあえず」はとりあえずでなくなってしまうよなと思いました。
読み進めていて意外だったのは、嫉妬心は人並み以上と仰っていたところです。文章のほとんどからは、生きることを細分化したタスクへの義務感、疲労感、諦めなどが大部分であるようなイメージが伝わってきていたので、「人より優れていたい、そう見られたい、いつか何者かになれるはず(=何者かになりたいと解釈しました)」と思っていることに、それはどうしてなのだろうと気にかかり、何度も何度も文章の中を探し歩いてみたのですが…想像力が及びませんでした。
嫉妬…人と比べるほどに意識している分野があるということなのかなと考え、本当は何かやりたかったことがあったのか、”面倒”という言葉よりももっと適当な言葉があったりするのか、どんな人に嫉妬しているのか…などすごく気になってしまいました。もしまた経験談で気持ちを吐き出す機会があれば、お聞きしたいなと思っています。
感想1
投稿ありがとうございます。
私も「なんでこんなことやらないといけないの?」と思いながら学生時代を過ごしていたなと自分の過去を思い出しながら読ませていただきました。(けれど社会に出てからは嘘のように人が変わり、むしろ自分でしようとしすぎて適応障害を経験しました。)
めんどくさいっていう感情はすごく処理が難しいというか、処理するものなんだろうか、とか、ちょっとうまくまとめられない感じがしています。「めんどくさいと感じるならその時の自分には必要のないものなんじゃないか」と感じる部分もあれば、あなたが感じている「時間はあるのに急かされているような感覚」に多少なり覚えがあると感じる部分もあります。その感覚を消化しながらそのめんどくさいという感情に向き合う気力にまでも、めんどくさいと私なら感じてしまうと思います。
「日常のあらゆることがタスク」なんとなくですがわかる~…と感じました。人々はこれを毎日当たり前のようにこなしているのかと考えるとそのあたりがずぼらな私も結構凹んでしまいそうですが、実際、洗顔歯磨き食事入浴のような「生きる上で必要なこと」に体内のエネルギーをほとんど持っていかれるような感覚があるように感じます。例えば「ご飯食べたら歯磨きしないと」という工程すら義務感に背を押されて半ば無理やり行う、のように、「やりたくないのにやらなければならない」行動というのは、そうでないもの以上に大きなエネルギーを要するとも感じます。そして、おそらくそういった選択を迫られる場面が休む暇もなく訪れる(のかなと私は感じました)あなたの生活の中では「上手く息継ぎができない」のも無理ないなと感じ、だけど、息継ぎももちろんそうですが、深い呼吸でゆっくりできたらいいなとも感じました。
死に関連するものが身近にある状況はあなたの言う通りひどく気分が落ち込みますし、それがあるだけで多大なエネルギーを要する、と私もそう感じます。考え続ける結果、あなたの言う「建前」が選択として頭をよぎることもあるのかなと思いますし、諦念に似た思いでともに生きていく選択もあるのかなとも感じます。
でも「とりあえず生きてみなさい」なんて言われてもできるはずない…と私もそう感じるだろうなと思います。現状困ってることをすべて投げ出して一からやってみなさい、と言われているようなものだと思うと、つらい思いを抱える当人からしてみれば少し腹が立つものなのかなと個人的に思います。
人生の意味、私も分からず時折考えます。生まれ持った使命のようなものがあればはっきりしているのになぁと思う反面、そういったものがないということは、意味はそれぞれが見つけるものなのかな?生きているうちに見つかるものなのかな?曖昧ですがそういう想いが私にはあります。ただ、そう思ってはいるものの、あなたと同じように悩み、がんじがらめになることも多くあります。想像も行動も、信号を出すのは脳のはずなのに、なぜ頭で分かっていることが行動に移せないことがあるんだろうかと不思議でなりません。
私も透明人間寄りの人間だと自覚している節がありますが、この投稿を読ませていただいて感じたことは「あなたは本当に透明人間なのだろうか」でした。というのも、あなたはとても自身のことを深く考えておられるんだなと感じたからです。私はどちらかというとあまり思考せず日々時間をただ消化するような、わりと空白の時間ばかりなので、あなた程私は私自身のことを振り返ることができないだろうなと感じ、それはあなたの分析する力なのではないか、大きな強みなのではないかと私は感じました。
そもそも、嫌なことをやりたくないと感じるのは人間として自然な思考だと思いますし、「嫌でも我慢してやらなければならない」とか「するのが普通」といった風潮が社会に根付いていることが、つらい思いを抱える人の生きづらさを助長しているように思えてしまいます。また、あなたの中の小さな「嫌」が肥大化したのもあるのかなと思いますが、私には、「小さな「嫌」が肥大化するのと同時に別の小さな「嫌」が増え続け、それらがさらに個々で膨張している」ように見えました。そういった悩みの種が増え続ける状況に直面するのを避ける意味でも、自分の気持ちを優先することは悪ではないですし、ましてや自業自得などではないんじゃないかな、と私は思いました。
対応策というほど具体的なものを提示することは私にはできそうもなく申し訳ない思いですが、こうやって吐き出すことで少しでも楽になるのなら、、また利用してもらってもいいのかな、と思いました。
投稿ありがとうございました。