経験談

生きづらさを感じる人が語る 経験談

経験談はそれぞれの投稿者の個人的な価値観や感じ方をそのまま掲載しています。一部、リアリティのある描写や強い価値観が含まれるため、読む人にとっては負担等を感じる場合もあります。各自の判断で閲覧してもらえるようにお願いします。

アンパンマンマーチ

ふとした時に、アンパンマンマーチのあるフレーズが頭の中で流れる。
「なんのために生まれてなにをして生きるのか」。
この問いに答えることができない。
自分の意志で障害者としてこの世に生まれてきたわけではないので、生まれてきた理由はないし、そういう理由もあって生きる理由なんて思い浮かばない。
では、私はなんのために生まれ、なにをして生きるのだろうか?
健常者の友人達は生きる理由を持っていそうだ。どんな経緯であれ、明確な理由を持っていることがとても羨ましい。
世の中には「不可知」なものが存在すると聞いたことがある。「なんのために生まれてなにをして生きるのか」も「不可知」だと薄々理解している。
でも、障害者の私はどうしても理由がなければならない気がしてしまう。
健常者と障害者の間にある壁は、とてつもなく強固だ。なにをしようとその壁が壊れることはない。
その壁に立ち向かうためには、健常者より努力する必要がある。傷だらけになってもいい。泣きながらでもいい。
もしかしたら、それが私の生きる理由なのかもしれない。でも、ふとした時に「そんなことをしてでも生きる必要はあるのだろうか?」という疑問が湧いてくる。
私はその問いに答えることはできない。
そしてまた、あのフレーズが頭の中に浮かぶ。
「なんのために生まれてなにをして生きるのか」。
私は永遠に終わらない自問自答をするために生まれ、これからも生き続けるのかもしれないな。

感想1

投稿ありがとうございます。
生きる理由…とても壮大なテーマのように感じました。壮大すぎるがゆえに私は答えが見つけられずにいるのですが、あなたもそんな感じなのでしょうか?生きる理由が「不可知」であれば、目的はあれど理由はないのでは?と考えてしまっているんですが、それとは別にあなたの言う「理由がなければならない気がする気持ち」に勝手ながら共感する気持ちもあります。

「無理をしてでも、傷だらけになってでも、泣きながらでも目的を達する」個人的にはこういった社会の構造は根本にあるように感じていて、このやり方をしてきたからこそ技術的進化を経て今に至っている(のかもしれない)とはいえ、身体やこころを犠牲にし、最悪の場合壊れてしまっては本末転倒だとも感じます。「目指すもののために身を粉にして立ち向かうこと」それが生きる理由になり得ることはあれど、「身を粉にすること」が生きる理由になることはないのではないかと、個人的にはあってはいけないのではないかと感じています。生きる上で「幸せを願う権利」は誰しも持っているものだと私は思っているし、そう考えると生きる理由というのは、大まかには「当人の幸せにちなんだ何か」なのかもしれないな、と個人的に思いました。

感想2

おそらく多くの人が知っているであろう曲名のタイトルに惹きつけられ、綴られた文章とともに、自分でもその意味や「自分だと何と言う(言える)んだろう?」と考えながら読ませていただきました。

私自身も「なんのために生まれてなにをして生きるのか」と問われると答えられないのですが、障害や特性、その他なにかしらの属性を抱えながらその意味を考えたとき、それは容易に答えを出せるものではない気がしますし、頭の中に浮かぶ答えに理由を求めてしまうのも自然なことなのかもしれません。

ただ、敢えてその歌詞の意味を劇中の世界で考えるとするなら、作中に出てくる困っていたり理不尽を被っている存在を片っ端から助けているアンパンマンですが、彼がその瞬間、瞬間で「なんのために生まれてなにをして生きるのか」ということを考えながら生きているかと言われると私にはそうには見えず、なにかしらの信念はあるにしても「条件反射的に」目の前のことに向き合っているように見えてしまう私がいます。

また、誰に対してでもその献身性を向けたり、身を粉にした犠牲を厭わない究極生命体のように見える彼ですが、頭が濡れたり汚れると力が出づらかったり、潰れると完全に力が失われジャムおじさんとバタ子さんによる顔の交換を余儀なくされることを考えると、彼もまた生きづらいなかでなんとか動いている存在と言えるのかもしれません。

そう考えると、アンパンマンという存在はいかにも己の正義や信念に準じて「なんのために生まれてなにをして生きるのか」という言葉への絶対的な答えを体現しているように見えますが、その実、心の中は揺れ動いていたり、思い悩みながら目の前のことやもの、自分自身と向き合っていることもあると言えるのかもしれません。。

慣れ親しんだヒーローとも言える存在とセットになっている歌の言葉ということで、「あなた自身は答えを見出せていますか?」と、さも壮大な問い立てを突きつけられているような気持ちに(私自身も)なりますが、きっとそこに明確な答えや理由はいらないのかもしれません。変容していってもいいし、自問自答してもいい、そこに向き合う時間それ自体が大切なのかもしれませんし、その中で「自分なりの答えや理由、はたまた全く別の何か」それを思索することを通して自分と向き合う、そんなニュアンスの言葉でもあるのかなと思えました。

お返事

返信読ませて頂きました。
この返信を書いている数日前に限界が来て、意識はあるのに身体が一切動かないという状態になりました。
たまたま人が居合わせていたので大ごとにはなりませんでしたが、動けるはずなのに動けない己の無力さにやるせない気持ちになりました。
これは直感ですが、そろそろ潮時なのかもしれません。
ですが、やるべき事はまだ多くあります。
やりたいものではなく、嫌でもやらなくてはいけないものです。
私に立ち止まる時間はありません。
それらが全て終わった時、私は初めて自分の生きる理由に向き合えるのでしょう。
どのような答えが見つかるのかは分かりませんが、その時が来るまでやるべき事に集中します。
ここには、もうしばらくお世話になります。

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