学生時代から人と関わることがうまくできなかった。
私と関わってくれる子はいたけど、先生に言われて、しょうがなく関わってくれていた。その子は、「関わってあげて可哀想。えらいね。」と他の子から言われていた。そんな会話を私の目の前でしていて、本人は一切否定しなかったし、私のことも都合よく扱っていた。
私があまり学校に行けなくなって、親には「育て方を間違えた。この子は失敗した。」と泣きながらよく言われた。でもそれは、親自身、自己肯定感のなさからプライドが高くなり、私のような子供のせいで、さらに自分の自尊心が傷つくことがつらくて、泣いていたと思う。だから、親は担任の先生にも当たっていた。あまりにも文句を言うから、他の先生からは「あなたのせいで、担任の先生が苦しんでる」とも言われた。
自分のせいで傷つく人がいる、自分と関わることは可哀想なんだという気持ちが強くなってしまった。 だから、基本的に主張をせず、全部人に合わせるようになっていった。
すると、新しい環境になっても、心から人と繋がることはできなかった。
私といてもつまらなかったり、何を考えているかわからないと言われ、友達もできなかった。
たまに自分の意見を言ってみると嫌な顔をされたり、全然理解してもらえなかったり、結局嫌な思いをしてしまい、私は人間が向いてないのかと苦しかった。
大人になってからも、それは続いて、今も友達も彼氏なんかもいない。孤独で寂しい。とても寂しい。
最近は結婚して誰かと一緒にいたいという思いがとても強いが、沢山努力しても全く叶わなかった。
でも、昔自分に嫌な思いをさせてきた人間は、結婚して家庭を築いている子ばかりだと知った。皆、私が叶えたいことを叶えられていた。
勿論どんな人間にも幸せになる権利はあると思うが、苦しんできた私はなぜなれないのかと思った。私だけなぜずっと孤独で寂しい思いばかりをし、叶わないのかととても悲しくなった。
平日は会社の往復のみ、休日も孤独。
外にでても、家族連れやカップルばかり目に入り、余計に寂しくなり、家に帰って泣いてしまう。
新しく習い事を始めても、皆、友達や家族との予定や出来事を話しており、しんどくなった。
最近は、皆は賑やかで、私だけひとりぼっちの夢をみるようになり、寝ても覚めても孤独なのかと、本当によく泣くようになってしまった。
孤独で寂しい苦しいというしんどさと、それから脱却したいという思いと、両方の思いで、涙がでてくるのだと思う。
良いときも悪いときも、今はずっと続かないと自分に言い聞かせてきたが、もう数年ずっと苦しんでいる。
段々どうしていいか分からなくて、ただただ、毎日夜に泣くことしかできない。
寂しさにあとどれくらい耐えればいいのかと毎晩毎晩苦しい。
感想1
寂しい、という気持ちがまっすぐに、ひたすらに伝わってくる文章だと感じました。
耐え難い感情、コントロールしきれない物事は他の感情や物事に置き換わることもあるような気がするのですが、言葉から滲むものはまぎれもなくあなたの寂しさでした。それだけ、まっすぐで、まっすぐな分逃れられない苦しさもありながら、1人堪えてきたものが多いのだろうと想像しています。それをまず、しかと受け取りましたと伝えたいです。
あなたの学生時代のエピソードを読みながら、先生や親の態度や関わり方が、あなたと周りの人を遠ざけ、あまつさえ壁まで作ってしまったのかなと感じました。「うまくできない」はあなた自身の気持ちというより、周りの人があなたに要請した「型」のことだったのではないでしょうか。そして先生や親にとって「思うようにならない」あなたを「ひとり」という箱の中に押し込んでしまうには十分な言葉かけが、そこには多くあったように思います。
大人になって、大人や他者からの直接的な影響力はやや収まったのかもしれませんが、学生時代にあなたの中に備え付けられた箱や対人関係の癖が、今もまだあなたを苦しめているように感じました。個人的に、他者が自分をどう思っているか正確に知る方法はないような気がしていて、何かあるとすればそれは自己評価の鏡映しであったり、相手の思いを自分がどう受け取るか?というところに軸があるのかな…と考えています。しかし「自分」や「自己(評価)」を形成する段階で、自分で自分をどう思うかを考える機会を奪われてしまい、「あなたは人とうまく関われない」という評価を決定事項かのように刷り込まれてしまったところがあるのかなと、勝手ながらに推測したところです。
「上手くかかわる」がどういう状態が言語化するのは難しい気がします(そのわりには正解らしきものが世の中にあるような気もしますが)が、すくなくとも絶対的な不正解や、片方だけがわるい、みたいなことは無いんじゃないかなと思う私がいます。一方で、自分は自分を主体に置いてしか世界を見渡せないし、自分と関わってくれる「誰か」を自分で生み出すことはできないから苦しいなと感じます。よければこの場所でまた、言葉という形で自分の「外」に寂しさや苦しさを置いて、ともに眺めてみたい思いです。