経験談

生きづらさを感じる人が語る 経験談

経験談はそれぞれの投稿者の個人的な価値観や感じ方をそのまま掲載しています。一部、リアリティのある描写や強い価値観が含まれるため、読む人にとっては負担等を感じる場合もあります。各自の判断で閲覧してもらえるようにお願いします。

雲か海か、あるいは虎にでも。

まずは自身の半世について
自分は珍しいレベルで恵まれていると思います
優しい母にユーモアがある父、うざったらしいけどなんだかんだ可愛い弟、祖母は少し性格に難はありますが、歴史好きな寡黙な祖父、
愉快な友人達がいて、金銭的にも問題無くてものすごく恵まれた環境です。
ただ自分だけが嫌いで憎くて仕方ないです。
いつからこんな酷い性格になったのか、もうきっかけも思い出せません。
一言で性格を現すなら
自己矛盾の塊で変人です
自負は優しい性格をしてるはずですが、他人を褒めながら嫉妬し、悲しいフリをしながらヘラヘラし、絶望しながらなんとかなるだろうと思う何か
それが私であり敵です
前述した通りいつからこんな腐った性格になったのかわかりません。
人に舐められ続けた中学も、冗談なのか悪口なのか分からない言葉も、外面を変えても結局舐められる高校も自分が原因なんですか?
自分は性格が良いと信じて居ました、変わり者なので良くイジられます、空や海を眺める事が好きな自分はおかしくて厨二病なんですか?友達から笑いながら言われる「性格悪い」の言葉、本当なんですか?イジりなんですか?もう分かりません、仲の良い人から飛び出す「気持ち悪っ」の言葉は真か嘘のどっちなんですか?
果たして彼は彼女は本当に友人なのか?
他人を若干見下す自分は悪人か?はたまた普通の一般人?部活のペアは四人変わりました、みんな様々な理由があっていなくなりましたが、
友達に言われた「お前の性格が悪いからだろ」
それはイジりなんですか?それとも本心?
みんなが全国行く中一人負けたのは私の努力が足りず甘えてたから?それともペアとの技量不足?(諸事情で今は特に後悔していません)
何も信じられない自分はたしかに性格が悪いとは思います。そいつらから離れればいいと思いますが信じたい気持ちと、ボッチは嫌というプライドから離れられません。いい人に恵まれたはずなのに他人を、自分を常に疑い続け、結局私は自己嫌悪と言う言葉で課題から逃げるのです。

話は変わりますが「山月記」と言う小説は知っていますか?高校で習うやつです。話の中の台詞に「各人は、心の中に猛獣を飼っているのだ、それが各人の性格であり、誰もが猛獣使いなのだ」と言うものがあります。私の心にいるのは自分自身です、常に疑い、自己を批判する自分が居ます。少し躓いただけで、一気に主導権を握り、ひたすら自己批判を繰り返し、他人への危害を加える妄想をする。頭の中では希死念慮が溢れますが無駄に理性と自尊心だけはあるのでODやリスカはしません、気分で他者に当たり散らすなどの迷惑をかけ続け、落ち着いた時に反省する負のループ、おそらくこれは自分が逃げたいから行う言い訳の様な者だと思ってしまいます。コントロールすらできないので猛獣使いにすらなれません、世間の皆様はこれが出来るとは尊敬です。
最近は何もしない時間にもこの負の自分が現れてきます、だから常にYoutubeを見続けて何もしない自己嫌悪の毎日、友人は毎日努力して日々進歩してるのに、親が何気なく話す元同級生の話に勝手に嫉妬する自分、全部何もしないお前が悪いのにね!と
勝手に自分にナイフを刺す自己矛盾の塊。
他の方の文やコミュニティを拝見しますと、辛く苦しい家庭環境の中で苦しむ方が多く、このような恵まれた者がしょーもない事で悩むのがバカバカしいとさえ思い、苦しみを出す事ができない。
そもそも本当に苦しんでいるのでしょうか?自分が課題から逃げたいからこのような無意味な問答を頭でしてるんですか?他者から見た自分はまともな人なんですか?私に向けてくれる言葉の真意は何なのですか?症状は無いけど辛い自分は精神病なのでしょうか?私のメンタルは弱いんですか? 強いんですか?強いから症状がでないんですか?それともただの甘えだから何もないんですか?人に発達傾向があると言われましたが、ミスばっかりなのはそれのせい?はたまたただの甘え?
こんな文を書いて死にたいんですか生きたいんですかどっちなんですか?一体何が本当の自分なんですか?思考がぐるぐるして最早何も分かりません。誰か定義をして下さい。自分は信頼出来ないので

こんな事を考えるくらいなら海や雲として生きたかった、何も考えなくてもいいから、まだ人間に執着する自分も居ます。山月記のラストは虎が出てきますが、いっそ虎にでもなればこのような事は考えなくてもよいのでしょうか?

最後までこのような稚拙な文を読んでくださってありがとうございます。もし恵まれて同じように悩む人が居れば、(これは自分もなので)あんまり慰めにならないですが少なくとも同じ人はここにいると言う事だけ、スタッフの皆様もこのような文を読んでくださってありがとうございました。暗い感情は伝わりやすい為ご自身のお心のケアも大事にしていただけると嬉しいです。

感想1

丁寧で控えめな語り口(書かれた文章なのですが、どこか語りかけているような表現だったので)に、人柄がにじみ出るような文章でした。最後に「暗い感情は伝わりやすい」とありましたが、あなた自身の経験として、誰かの暗い感情を受け取って暗くなることがよくあるのでしょうか。ちなみに、私は他の人の感情の影響を受けることはあまりないタイプなので、そうじゃない人もいることをお伝えしたくなりました。むしろ、「なるほど、そう感じる人もいるのか、ふむふむ」という気持ちになります。
山月記は確かに国語で習いました。知っています。ずいぶんと昔なので細かいところまで覚えてはいませんが、おぼろげな記憶をたどりつつ、あなたが書いてくれた内容を読んでみると、両者は表現が違うかもしれませんが、どちらも似通ったことを言っているようにも私には思えました。山月記に出てくる猛獣もあなたの中にいるもう一人の自分にも共通点があるように思いました。そして、私の中にもそこまで明確ではありませんが、心の中には自分に突っ込んできたり、批判したり、時には慰めたりするような別の自分のような存在がいます。独立した明確な存在ではないですが、日常的にいろいろな形で自分に影響を与えているように思います。私は自分の中に形成される自分以外のような存在のことを「自己内他者」と勝手に名付けたことがあります。山月記の猛獣もあなたの中にいる別の自分も「自己内他者」なのかなぁと私なりに理解しました。この自己内他者はとても大切な役割を果たしていると私は思っています。自己内他者は社会的な存在としての人間が成長するために必要に応じてつくりあげるのではないかと考えています。人は一人では人にはなれません。周囲との関わりの中で自分を形成していくわけですが、最初は大人が見守り、必要に応じて介入をしてその関わりからいろいろなことを学んでいきます。そして、やがて周囲の見守りや介入がなくても、自分の中で物事の判断をする段階になるわけですが、その際に必要となるのが自己内他者の存在だろうと言うのが私の推測です。なので、あなたの経験談を読み、自己内他者が絶賛活躍しているというのが私の率直な感想です。
成長にとって大切なプロセスだと言え、矛盾する気持ちに揺れるのは大変だと思いますし、自分とは何なのかわからなくなる苦しさはあるかと思います。そして、少し気になったのは、そうした揺れ動く気持ちを率直に語ることができる機会があるのかな?ということです。ここにこうして書くことにもためらいがあったかもしれませんが、大切な葛藤であり、他の人と共有することでお互いに得られるものがあると思いました。また、それと関連して、いじりへの違和感やダメージからも、嫌だという気持ちをひとりだけで処理していることも気がかりでした。相手に悪意がなくても、たとえ親しみの表現だとしても、言われたりやられたりして嫌なことは嫌だと思っていいと私は思います。あなたの嫌だという気持ちを私は尊重したいと思いました。
人ではなく、雲や海になりたい気持ちも虎になりたいという願いも率直に私の中に響きました。人間は感じたり考えたりしてしまうので、それによって悩みや苦しみを複雑に抱えてしまう存在です。ただ、あなたの経験談からはそうはいっても感じ、考えることをまったく拒否するわけではなく何かしら魅力を感じる部分もありそうな気がしました。だからこうして、感じることや考えたことを書いて送ってくれたのかなと思います。その気持ちは確かに受け取りました。また、必要な時には遠慮なく気持ちを置きに来てください。

感想2

経験談への投稿ありがとうございます。
「自己矛盾の塊で変人です」とまっすぐに言い切る姿に、あなたを一人の人間として信じたくなるような、妙な安心感を覚えました。
内面における矛盾は誰しも持ちうるものだと私は思っていますが、葛藤が広がれば広がるほど苦しいことだとも思います。
何かの思考や感情が湧き起こるたびに、相反する思考や感情も生まれ、振り子のように揺れているようなイメージが浮かびました。

物理的には恵まれていたとしても、外側からは見えにくいところにあなたの苦しさがあるように私は感じました。
空や海を眺めること、とても素敵な感性だと私は思います。
他者の言葉に傷つき戸惑いながらも、言葉の端々には懸命に自分と向き合おうとしていることが感じられました。

私は高校の勉強を途中でリタイアしたので、山月記は知りませんでした。
「心の中の猛獣」は、人によってさまざまな姿をしながらも、確かにいるような気もしました。
つい最近、知人と自己非難を繰り返す自分について語ったことを思い出し、銃口を向けてくる軍隊のようだねと話していました。
自分をひたすら否定し、叱責する「内面の自己」はどうやって誕生するのだろうかと、考えるにはしばらく時間を要するような問いが浮かんでいます。

文章を読みながら、社会学者の奥村隆さんが書いた「他者といる技法」という著書の一文が思い浮かんだので、引用してみます。
『しかし、「私」という仕組みは、じつにやっかいなものである。私たちは、自らに価値を見つけ存在を安定させるために、やらなくていいことをやってしまったり、他人や自分を傷つけてしまったりする。よりましな境地を獲得する戦術を遂行する、「存在論的安定」を得る、ということから私たちが自由であれば、私たちは多くのことをしないですむし、多くのことをこだわりなく行えるだろう。しかし、私たちは、この戦術を発動せずにはおれない。「私」に価値を見つけようとする仕組みに、私たちは振り回される。「私」というもっとも身近なものとのつきあい方に、私たちはひどく悩んだりするのだ。』
心の中の猛獣はどうして猛獣なのか、何かを訴えようとしているのか、あるいは自分を守ろうともしているのか、想像が巡っています。

あなたは逃げているのではなく、自分を諦めずに、ひたすら自分と対話を重ねようとしていると私は思っています。
自分の内面へと降りていき、次々と聞こえてくる声に耳を澄ませることは多大なエネルギーを消費しますが、とても大切なことだと思っています。
また、思考は積み重ねる時間や経験によって日々変わり続けるようにも思います。
そう簡単に答えが出ることではないかもしれませんが、「今はなんだかよく分からない」という着地点もあるように思ったりしています。
こちらのことも気にかけて下さり、ありがとうございます。
またよかったらお話を聞かせて下さい。

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