経験談

生きづらさを感じる人が語る 経験談

経験談はそれぞれの投稿者の個人的な価値観や感じ方をそのまま掲載しています。一部、リアリティのある描写や強い価値観が含まれるため、読む人にとっては負担等を感じる場合もあります。各自の判断で閲覧してもらえるようにお願いします。

人と接する難しさ

私は人との関わりが重要な仕事をしている。相手はまさに十人十色、好意的に接してくれる人が大半だが、時には一方的にきつい言葉を投げつけられることもある。感じ方は受けた側の主観でしかないが、少なくとも私自身は『カスハラ』のように感じているし、その影響で不安症が悪化したのも事実だ。

言葉は刃、とはよく言ったものだと思う。言っている本人は怒り以外は何も感じていないかもしれないが、受け止める側は鋭く研いだナイフを全身に浴びているように感じてしまう。しかも、同じ言葉を繰り返し繰り返し何度も何度も投げつけられて、全てを避け切れるはずがない。けれど、少し冷静になった頭でふと『相手にそう感じさせてしまったのなら、自分が悪いんじゃないか』と思い始める時がある。元々、コミュニケーションがあまり得意ではない自覚があるが故に、人を不快にさせる存在の自分に居場所なんてない。最後にはそう思い至ってしまうのだ。

今日もまた、不安症状が酷くなって仕事を早退した。上司は「無理しなくていい」「休んでいい」と言ってくれるが、担当がいる以上そういう訳にはいかない。そう思うのに、身体はついてきてはくれない。そんなもどかしさと己のふがいなさに息苦しさを感じながら、それでも私はもがきながら生きている。

感想1

ここ数年カスハラ問題をよく聞きますが、会社は社員を守る体制、心のケアなど十分に整っているのだろうか?と改めて考える機会になりました。
仕事上避けては通れない人との関わりのなかで、自分の気持ちを抑え、心を犠牲にしないといけないような事があると、人との接し方が余計に難しくなっていくのではと思いました。

自分もかつて、取引相手から不快に感じることを言われたことがありますが、その時は「自分が悪い」と一旦受け止めましたが、時間が経つにつれ「あそこまで言われないといけないのか?何様?」などの怒りの感情が沸き起こったことを思い出しました。不快に思わせるような攻撃的言葉には「責任」が生じる、相手の心を酷く傷つける「刃」にもなるのだと改めて実感したことを思い出しました。

仕事を休んでいる場合ではないと思っても、心が回復しない限り仕事で人と接するのは難しい、また言葉の刃が飛んでくるんじゃないか、との不安がつきまとうのではないのかなと想像しました。言われた側の心のケアがとても大事ですが、ハラスメントした側に対する問題意識の持たせ方も大事に思います。大人が出来ていないことを、若者や子ども達に伝えられるわけはない、伝えても響かないと個人的に考えています。

自分だけではもがくことにも限界があると思います。会社での働き方や部署変更の合理的配慮、カウンセリングなどのサポートを受けることも選択肢として考えてみてはと思います。

感想2

限られた時間を使い他人と話しながら物事を進めていく、家族や友人、知り合いでも無い他人と共同作業でその目的を果たしていく。営業職や接客、他にも様々な業種がありますが、考えてみると随分ととっても難しいことを皆やっているように感じます。相手が何が好きで嫌いか、何の要因で話がスムーズにいくのかいかないのか、今日の気分や体調はどうなのか
等々。相手のフィーリングを伺いながら、気分を害さないようにと話しを進めていくのも仕事のうちなのでしょうか。以前、自分がコールセンターで働いていた際に電話に出ると、「おまえみたいな声の低い奴とは話したくない」と怒り上司を出せと言われたことがありました。対応していた上司は一度も「申し訳ありません」とは言っておらず、傷つきも浅く済みました。
「お客様は神様です」という半世紀以上前の言葉が時代と共に悪さをし、「お客様は何を言ってもやっても許される」にすり替わっていったような気がします。しかるべき理由があっても無くても、高圧的な言動や行動は誰に対しても礼儀を欠いています。話し合いが成り立たないような攻撃を受け、傷つきダメージを受けてきた人たちがたくさんいたのだと思います。一方的にきつい言葉を投げかけられる体験が続くと、心も弱っていくのは当然です。自分はとても難しいことをしていると思いつつ、この言葉は投げかけられる筋合いがあることなのか?と、あなただけでは無く会社や社会のマナーとして一旦耳を疑い整理するが定着していくそんなふうになればいいなと思うところです。投稿いただき、ありがとうございました。

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