経験談はそれぞれの投稿者の個人的な価値観や感じ方をそのまま掲載しています。一部、リアリティのある描写や強い価値観が含まれるため、読む人にとっては負担等を感じる場合もあります。各自の判断で閲覧してもらえるようにお願いします。
私に「死にたい」以外の本音があるのか
私はずっと自分で確かにある本当の気持ちが、「早く死にたい」、「自殺したい」という事しかありません。
かつて幼い頃は趣味で絵を描く事が好きでした。漫画家や画家などに少しの憧れも持っていたことがありました。しかし、小学校中学年頃から中学受験に向けた生活が始まってから、そのような夢はどうせ親に否定されるのだから持つだけ無駄だと諦めました。
「早く死にたい」と初めて思い始めたのはいつからかはっきりとしませんが、少なくとも小学3年生の頃には、ほとんど毎晩浴室か自分のベッドかで泣くようになっていました。一度母に私が泣いているのがバレてしまい、”死にたいなどと言ったら、いじめに遭っているのでもないのに、中学受験という選択が可能で他人より恵まれているくせに、と馬鹿にされるだろう”と思い「居残りをさせられたのが嫌で泣いていた」と嘘をついた事を覚えています。塾からの帰りに自殺に失敗した事もありました。
中学受験をする事になった理由は、当初小学校に私にしつこく粘着してくる異性の同級生がおり、その人のせいでクラスで他の同級生から揶揄われることが多く、その人と同じ中学に行きたくないからという事だけでした。その事は両親にはっきりと話せませんでした。私に粘着する人がいる事は認識していたようですが、私がそれで嫌な思いをどれだけしているかは分からなかったでしょうし、今も分かっていないと思います。
私は中学受験の勉強に向いていた訳ではなく、特に算数が大の苦手でした。後から高校生になって心療内科で検査を受け処理速度が平均に比べて非常に遅いという事が判明しましたが、それが原因か、私は筆算を何度も書き間違えたり、文章題に出てくる数値を計算中に勘違いしたりなど、父や塾の先生に「ケアレスミスだ」と指摘される間違いばかりを繰り返していたためでした。
他にも様々な理由はありましたが、私は小学5年生頃には中学受験を辞めたいとずっと思っていた反面、母は私が宿題をできなかったり父が指定した参考書の問題を解けていなかったりすると、「嫌なら受験をやめれば?その後の事は知らないけど」とその度に何度も言われていました。私はその言葉を、”中学受験をもし辞めたら私は見捨てられるんだろう、今でさえ疎ましく思われているのに、生きる場所すら無くなる”と理解していました。
結局、小学6年生の夏明け頃、私は耐えきれなくなり母に「中学受験をやめさせてほしい、その代わり高校受験は頑張る、中学から始まる英語対策のために英会話に通うから」と訴えました。本当は勉強自体休ませてほしかったのですが、それでは聞き入れてくれないだろうと思い高校受験で頑張らせてくれと言いました。しかしそれでもなお、あれだけ「嫌ならやめろ」と言っていたくせに、結局聞き入れてもらえず叶いませんでした。その頃には自分の髪を抜いたり、ほぼ毎晩泣くせいで風呂場で身体をまともに洗えなくなったりしていました。
前置きが長くなってしまいましたが、私はこの頃から今もずっと、夜に風呂場に行ったりベッドに行くと、当時の感覚が戻って涙が止まらなくなります。あの頃からもう10年以上は経っているはずなのに、泣く癖がいつまでも治りません。呪いのようです。
心療内科に通院もしていましたが、自分で自分の本音の核心に迫ろうとすればするほど、息が苦しくなって、本音を出すなと勝手に脅されているような気持ちになり、医師やカウンセラーの前なのに、結局私は自分の状態を大した事が無いかのように話してしまい、嘘をついてしまう事がありました。
自分の苦しいと思っている事以上に苦しい思いをしている人は世の中にたくさんいるのだから甘えるな、と自分で思ってしまい気づいたら自分を責めています。
今私は大学生で実家を離れましたが、他の学生に酷い事をされて苦しい事がさらに増えて抑うつ状態になり、詳しくは割愛しますが休学中です。
私は幼稚園から大学までの全ての受験を経験しており、その選択はほとんど親によるもので、高校生の時に心療内科に自分の意志で行き、大学も自分で選択できて、やっと自分で自分の道を選べたと思ったところを、今度は他人にへし折られたような気持ちがあります。
ただその専攻を選んだのは私の意志によるものだったものの、きっかけは、私の暗鬱とした気持ちに近い曲を書く海外の歌手の曲の歌詞を原語で理解したいという事でした。
すなわち自分の「自殺したい」という気持ちを認めるために、この歌手の歌の言語を学ぼうと思ったためでした。
何かの職業に就きたい、こういう生活がしたいといった希望が少しもありません。下手すれば、「幸せになりたい」という気持ちすら無いのかもしれないと思う事さえあります。幸せになる努力をする為の力はもう私には残っていなくて、そんな夢を見るぐらいなら、自殺して終わらせる方がはるかに良いと考えてしまいます。自殺以外の道はもう考えたくも無いです。しかし身近な人達の前でその本音を曝け出す事はできません。伝えたとして、私が自殺をする事に対して(その人の本音がどうかはともかく)肯定的になる人はおそらくいないでしょうし、今後生きていく上で何か別のこの道ならどうかと勧められたとて、元々自殺したい気持ちは、小さい頃から変わらず持続しているのでそれが塗り変わる事は無いだろうと思います。何も続かない、一定期間続けられても結局また死にたくなるだろうと思います。今までそんなのばっかりでした。
ずっと前から私は限界が来ているのだろうと思います。早く死んで全て終わらせたい気持ちしかありません。ずっと息が苦しくてならもう止めてほしいようなそんな気持ちです。
感想1
明確な理由はわからないまま、幼少期からずっと重しを抱えるように苦しい気持ちがあったことを感じました。両親との日常的な関わりが詳しく書かれているわけではありませんが、あなたの意思を聞き入れてもらえないまま、親の判断に無理をしてでも合わせなければいけない状況が長く続いていたのかなと思います。
なにかが与えられていれば恵まれている、みたいな風潮はありますが(見方によっては、それが全部間違いではないかもしれませんが)、すくなくともそれが与えられた側の意思や希望をもとにしていないなら、贈与というよりは強要に近いものであると私は思います。ただ親子関係では、育てる/育てられる、大人/子どもといった非対称な関係が前提となるので、そのバランスを取ることがとてもむずかしい場合は多いように感じます。本来では、大人には子どもが安心できる環境をつくる義務があると思うのですが、あなたはむしろ親からも自分の心を守るために隠し続けなければいけなかったのだろうと想像しました。
学校でのことはあまり書かれていませんが、もしかしたらあなたは学校でも周囲の顔色をうかがったり、どことなく緊張した状態で過ごさなければいけなかったのではないかとも考えました。浴室とベッドは、あなたに与えられた数少ない、自分の感情を隠さずにいられるプライベートな場所だったのだと思いました。
その中で心療内科に自分の意志で行ったこと、大学も自分で選択できたことなど、あなたはあなたなりに親と距離を置きながら自分自身の感性と関わってきたのだと思います。大学進学の「私の暗鬱とした気持ちに近い曲を書く海外の歌手の曲の歌詞を原語で理解したい」という動機はとても素敵だと思いました。私も(と同列で語るのも変かもしれないですが)音楽や小説に感情を教えてもらってきたところがあると思っていて、それらをもっと原語でわかるようになりたい、発音したいと思って語学をすこしずつ勉強しています。その中で、また新しい作品を知ることもあり、「きっかけがある」ということはそれ自体に力があると感じます。
私も希死念慮がずっとあり、感情の取り扱いもいまでもとても難しいのですが、もしかすると、子どもは親や周りの人との関係の中で、感覚や感情を尊重されたり、ちゃんと気持ちを踏まえて関わってもらえたりする経験を続けることで、自分なりの付き合いかたがわかるようになるものなのかもしれません。
そう考えると、感情を出すことが責められることに繋がったり、気持ちを尊重してもらえない経験が積み重なってきたら「本音を出すなと勝手に脅されているような気持ち」になるのもとても自然なことで、むしろ本音を隠すことはあなたなりのあなた自身の守り方だったのだろうと感じました。
ただ、その守り方だと、自分自身でも気持ちをもとに行動したり、考えたりすることがむずかしくなってしまうという難点があるのかなと思ったりもしました。感覚や感情というのは人それぞれの持つ独自のセンサーで、それによって自分の行動や生活を調整する機能があるように思います。それに触れるのがむずかしいと、生活の中で気づかずに無理をしてしまったり、わからないまま苦しくなったりすることも多いのかもしれないと思いました。
「死にたい」という気持ちは、そんな中であなた自身がこっそり抱え続けてきた他のだれでもないあなた自身のものだからこそ、あなたにとってとても大切な感情でもあるのかなと想像しています。私が人生でいちばんつぶやいてきたひとりごとは多分「死にたい」なのですが、それがなくなった自分というのもイメージできないくらい長く一緒にやってきたような気がします。大切な思いを否定されるかもしれないような人に、その気持ちを伝えたくないのは当然のことのように思います。
私の場合は「死にたい」にもいろいろな成分があると感じていて、幼少期から今に至るまで、その時々で微妙に違ってきたと思います。たとえば「現状をもうなにも考えたくない」「逃げたい」「いなくなりたい」「ここにいたくない」など、似た言葉といえばそうなのかもしれませんが、自分にとっては意味が違う部分もありそうです。その合間に別の感情が挟まることもあるし、それが言葉にならないままのことも少なくない気がします。あなたに「死にたい」以外の本音があるのか(そもそも本音ってなんなのか)私には断言できるなにかはないのですが、もしかするとあなたの「死にたい」の中にも、本当はその時々でさまざまな気持ちや言語化されない思いなどの成分が含まれていたりするのかなぁと思いました。
それから、私は幸せになりたいと思う必要も別にないと思います。幸せってなんなのかもよくわからないものですし……。ただ個人的には、あなたに厳しく向かうまなざしのない場所で、あなたにとって落ち着いていられる時間や、自分のための休息を取れる時間があるといいなと思っています。経験談を書いて死にトリに投稿してくれたことには、なにかきっかけや経緯があるのでしょうか。よかったら、私はあなたの考えてきたことや思い、今どんなふうに生活しているのかなど、もっと聞いてみたいと思いました。死にトリにきて、経験談を投稿してくれてありがとうございます。
感想2
投稿いただき、ありがとうございます。表に出していなかった心の内を綴っていただいているような印象で、今どんな気持ちなのかなと聞いてみたいような気がします。
これまで流してきた涙があなたの周りにいっぱい溜まり、水たまりがどんどん深くなっていき足が地面から離れそうだし呼吸もしにくい。一人もがいてきたあなたはすっごくずっと力を使い続けてきていて、「幸せになる努力をする為の力はもう私には残っていなく」という言葉には、そうだよねと頷かずにはいられない私がいます。
毎晩泣いていることを「バレた」と感じ、とっさに嘘をつかなければならなかったこと。「死にたいなどと言ったら、いじめに遭っているのでもないのに、中学受験という選択が可能で他人より恵まれているくせに、と馬鹿にされるだろう」この文章を書き替えてみると、「死にたいと思うことはダメな事、他人と比べ苦しむような状況では無い、中学受験は恵まれた人ができる事、だからまともに取り合わない」自分がどう感じてどう思ったかよりも、もっと正しいことがあるとあなた自身に向けられてきた言葉があり、そしてまた自分の言葉として自身に言い聞かせてきたのではないでしょうか。それは自分自身を守ることであり、受け取ってもらえない言葉を表に出すよりは自ら処理するほうがよほど傷つかないとあなたなりの生きる対策だったような気もします。呪いのような泣く癖は、あなたにとってその時にできる手当の時間だったようにも感じます。
「高校生の時に心療内科に自分の意志で行き、大学も自分で選択できて、やっと自分で自分の道を選べたと思ったところを、今度は他人にへし折られたような気持ちがあります。」生きている・日常を送ることは選択の連続のような気がしていて、家族や学校、集団に属していると選択する時間までも奪われ、勝手に回答を決められたり、回答する気が無いと誤解をされたり、色々な不具合が知らぬ間に発生し自分自身が傷ついたり窮地に追いやられることも少なくないように思います。「私に「死にたい」以外の本音があるのか」「自分のことは自分のペースとタイミングでやりたいし。それは放っておいて欲しいのではなく、見守っていて欲しいだけだから。」と、あなたの声真似をしてこんな言葉を出したくなるような気持ちです。
感想1
明確な理由はわからないまま、幼少期からずっと重しを抱えるように苦しい気持ちがあったことを感じました。両親との日常的な関わりが詳しく書かれているわけではありませんが、あなたの意思を聞き入れてもらえないまま、親の判断に無理をしてでも合わせなければいけない状況が長く続いていたのかなと思います。
なにかが与えられていれば恵まれている、みたいな風潮はありますが(見方によっては、それが全部間違いではないかもしれませんが)、すくなくともそれが与えられた側の意思や希望をもとにしていないなら、贈与というよりは強要に近いものであると私は思います。ただ親子関係では、育てる/育てられる、大人/子どもといった非対称な関係が前提となるので、そのバランスを取ることがとてもむずかしい場合は多いように感じます。本来では、大人には子どもが安心できる環境をつくる義務があると思うのですが、あなたはむしろ親からも自分の心を守るために隠し続けなければいけなかったのだろうと想像しました。
学校でのことはあまり書かれていませんが、もしかしたらあなたは学校でも周囲の顔色をうかがったり、どことなく緊張した状態で過ごさなければいけなかったのではないかとも考えました。浴室とベッドは、あなたに与えられた数少ない、自分の感情を隠さずにいられるプライベートな場所だったのだと思いました。
その中で心療内科に自分の意志で行ったこと、大学も自分で選択できたことなど、あなたはあなたなりに親と距離を置きながら自分自身の感性と関わってきたのだと思います。大学進学の「私の暗鬱とした気持ちに近い曲を書く海外の歌手の曲の歌詞を原語で理解したい」という動機はとても素敵だと思いました。私も(と同列で語るのも変かもしれないですが)音楽や小説に感情を教えてもらってきたところがあると思っていて、それらをもっと原語でわかるようになりたい、発音したいと思って語学をすこしずつ勉強しています。その中で、また新しい作品を知ることもあり、「きっかけがある」ということはそれ自体に力があると感じます。
私も希死念慮がずっとあり、感情の取り扱いもいまでもとても難しいのですが、もしかすると、子どもは親や周りの人との関係の中で、感覚や感情を尊重されたり、ちゃんと気持ちを踏まえて関わってもらえたりする経験を続けることで、自分なりの付き合いかたがわかるようになるものなのかもしれません。
そう考えると、感情を出すことが責められることに繋がったり、気持ちを尊重してもらえない経験が積み重なってきたら「本音を出すなと勝手に脅されているような気持ち」になるのもとても自然なことで、むしろ本音を隠すことはあなたなりのあなた自身の守り方だったのだろうと感じました。
ただ、その守り方だと、自分自身でも気持ちをもとに行動したり、考えたりすることがむずかしくなってしまうという難点があるのかなと思ったりもしました。感覚や感情というのは人それぞれの持つ独自のセンサーで、それによって自分の行動や生活を調整する機能があるように思います。それに触れるのがむずかしいと、生活の中で気づかずに無理をしてしまったり、わからないまま苦しくなったりすることも多いのかもしれないと思いました。
「死にたい」という気持ちは、そんな中であなた自身がこっそり抱え続けてきた他のだれでもないあなた自身のものだからこそ、あなたにとってとても大切な感情でもあるのかなと想像しています。私が人生でいちばんつぶやいてきたひとりごとは多分「死にたい」なのですが、それがなくなった自分というのもイメージできないくらい長く一緒にやってきたような気がします。大切な思いを否定されるかもしれないような人に、その気持ちを伝えたくないのは当然のことのように思います。
私の場合は「死にたい」にもいろいろな成分があると感じていて、幼少期から今に至るまで、その時々で微妙に違ってきたと思います。たとえば「現状をもうなにも考えたくない」「逃げたい」「いなくなりたい」「ここにいたくない」など、似た言葉といえばそうなのかもしれませんが、自分にとっては意味が違う部分もありそうです。その合間に別の感情が挟まることもあるし、それが言葉にならないままのことも少なくない気がします。あなたに「死にたい」以外の本音があるのか(そもそも本音ってなんなのか)私には断言できるなにかはないのですが、もしかするとあなたの「死にたい」の中にも、本当はその時々でさまざまな気持ちや言語化されない思いなどの成分が含まれていたりするのかなぁと思いました。
それから、私は幸せになりたいと思う必要も別にないと思います。幸せってなんなのかもよくわからないものですし……。ただ個人的には、あなたに厳しく向かうまなざしのない場所で、あなたにとって落ち着いていられる時間や、自分のための休息を取れる時間があるといいなと思っています。経験談を書いて死にトリに投稿してくれたことには、なにかきっかけや経緯があるのでしょうか。よかったら、私はあなたの考えてきたことや思い、今どんなふうに生活しているのかなど、もっと聞いてみたいと思いました。死にトリにきて、経験談を投稿してくれてありがとうございます。