経験談

生きづらさを感じる人が語る 経験談

経験談はそれぞれの投稿者の個人的な価値観や感じ方をそのまま掲載しています。一部、リアリティのある描写や強い価値観が含まれるため、読む人にとっては負担等を感じる場合もあります。各自の判断で閲覧してもらえるようにお願いします。

出来るだけたくさんの記憶に残って死にたい

生きるのが辛い、殺されたい。死にたい。特に理由がなくとも、毎日朝起きて死にたいと思う。その理由の多くは家庭環境が粗悪であり、不安を感じる場面が幼い頃から多かったからだと思う。幼いころ、両親はいたけれど、父は多額の借金を行い、支払えなくなり、母を保証人として母にすべてを背負わせました。

私が幼少期の頃覚えている記憶は、かくれんぼです。子供からすれば楽しいはずのかくれんぼは室内で行われます。家のチャイムがなると、母が息を殺すように私たちに笑顔を向けます。私と妹はかくれんぼの始まりだと思って静かにします。でも実の所、大人になって知ったのは、そのかくれんぼは母が借金取りから家にいることをバレないための遊びだったと知りました。父はその後、詐欺容疑で逮捕され、母は父に依存をしていましたが刑事さんのお陰で離婚を決意し、親権を勝ち取りました。父はその後も私に会いたがりましたが、それが金蔓だからなのか、純粋な子供愛なのか測りかねます。

母はアルコールがとても好きでした。私には三つ下の妹がおり、妹と私を託児所に預ける際、私に約束をさせました。「妹を必ず守ってね」私はその時、重圧を感じました。全てがプレッシャーと緊張でした。知らない託児所、知らない子供、知らない大人、三つも下で赤ん坊と変わりない妹を、まだ4歳の私が守らなければならないこと。でも私は母を悲しませたくなかったので約束を飲みました。

私は人見知りで、人の空気を察することが上手な賢い子供だったので、周りの大人は私に手を焼きませんでした。また見目も私より妹の方が愛らしく、まだ赤ちゃんだったために、みな、妹を可愛がりました。今思えば私は寂しかったのだと思います。私は、母が不安をたくさん抱えていることを察していました。だからお買い物の時に近所のお婆さんに私だけが預けられ置いてけぼりにされたときも、仕方ないと我慢しました。私は子供が当たり前に主張する権利を失いました。わがままを言うとか、人前で泣くとか怒るとか、そういうことができない子供でした。誰かと仲良くしたい反面、その人の空気を読んで自分を歓迎されてないとわかるとその場から逃げました。高校の時にはついに不登校になりました。肌で感じるクラスの雰囲気が気持ち悪く、敏感に私は何かを感じとり、学校で吐きました。学校へ行こうとすると必ず吐き気を催し、吐きました。頭がふらふらしました。母は不登校の私を怒りました。何故学校へ行かないのかと。今思えば母も必死だったのだと思います。ですが、私にとって理解者であるべき母は、理解をしてくれませんでした。心を閉ざし、その頃から死にたいと言う気持ちと、母への不信感が強く募りました。

成人してからも恋人はできたりしていましたが、仕事は肌で感じる空気が心地悪く些細なことが気になるとそれがあたまをはなれず、行けなくなることが多々ありました。恋人には裏切られ、浮気をされて、結婚の予定は無くなりました。

誰かからのプレッシャーを感じるたびに、私は無理だと思いました。できない、とやる前から思うようになりました。その努力はしてみますが、少なくとも他人からの評価はよいのですが、自分自身が納得できないと許すことが出来ず、納得するまで無茶をして体を壊す、精神を病むことが積み重なりました。

そして今は完全に働くことが出来なくなり、社会とも繋がりを持たずに福祉の力を借りて生きています。しかし、毎日死にたいと思ってしまうのです。一年以上、メンタルクリニックに通っていますが、その都度私のストレス耐性が低いばかりに問題が問題を呼び、一つ解決すれば一つ何かを背負わされる状況に陥り、今はもう、人と接することが怖くてたまりません。誰にも利用されたく無いし、誰にも好きになってほしく無い。自分という存在がなくなれば、どれだけ良いかと思います。自傷行為はしません。あれは、生を感じるための、生きたいサインだと思っているからです。痛みなんてなくていいので、拳銃で一発私を撃ち抜くか、不幸な事故に見舞われてしにたいです。そして、私を大切に思ってくれてる人たちの記憶に出来るだけ長く残りたい。一生忘れさせない。私を忘れないで欲しい。その反面、必要として欲しく無い。話しかけないで欲しい。関わりたく無い。相反する感情が多すぎて、どうすれば良いのか路頭に迷う日々です。これが私の生きていることが辛い理由、死にたい理由です。

感想1

読んでいて、あなたの言葉の率直さ、あるいはまっすぐさにハッとするような瞬間がありました。
私の勝手な想像ですが、生きているなかで様々なことを感じ取る人、そして受け取った情報から目を逸らさずにいる人なのではないかと思いました。それを、私は「まっすぐさ」と感じたのかもしれません。
また、もしかすると「目を逸らさない」ということは、むしろ「目を逸らせない」ということなのかもしれないとも思いました。社会のなかには、ままならないこと、不適切なことや悲しいことがたくさんあるので、それらをそのまま受け取ることは苦しいように思います。

「相反する感情が多すぎて、どうすれば良いのか路頭に迷う」と書かれていました。けれど私には、書かれている感情はすべて同時に発生しうる、とても自然なものなんじゃないかな?と思えました。
「死にたい」という気持ち、「人に接することが怖い、利用されたくない、好きになってほしくない」という気持ち、「大切に思ってくれてる人たちの記憶に出来るだけ長く残りたい」という気持ち……。

文章から、あなたは、これまで多くの重圧のなかで緊張を強いられてきたのだろうと想像しています。「一つ解決すれば一つ何かを背負わされる状況」、それが続けば、人と関わること自体に疲れることや、人と関わりたくないと思うことは当然だと思います。
そして、生きているかぎりその中から抜け出せそうにないと感じているとき、「死にたい」と思うのも自然です。

でも同時に、本当なら……つまり、なにも背負わされることなく、なにも強いられることなくいられるなら、あなたはひとりでいるよりも、人と共にいたいのではないかと、想像しました。(違っていたらごめんなさい)

人間も、そして人が作ったもの(教育や家族制度、さまざまな法律、価値観……)も、まだとても未熟で未完成だと思います。私自身、社会のなかで苦しくなることがたくさんあるのですが、その一方で、あなたのように考えていることを発信してくれたり、生きていくむずかしさを教えてくれる人がいることは数少ない、けれどとても大きな希望だと感じます。
経験談を送ってくださって、ありがとうございます。
これからも、私はこの未完成な社会のなかでどう生きていけるのか模索したいと思っていますし、それを一緒に考えてもらえたらうれしいと思いました。

感想2

経験談にご執筆いただき、ありがとうございます。

誰にも必要とされたくない、と思うと同時に一生忘れさせない、というお気持ちを同時にお持ちなのですね。

肌で感じる空気の気持ち悪さ、あなたと同じものではないかもしれませんが私も割と過敏で空気、というものに翻弄されたり、気持ち悪くなったりするので何となく通づるものを感じました。

子どもというのは親や周囲の大人から守られ、学び、育っていくのではと思うのですがあなたの場合幼いころから幼い妹さんを守り、甘えたりわがままを言ったり、自己主張をして誰かに受け止めてもらったり、あるいはそれに対して対立してお互いの気持ちをわかり合い…という経験を奪われる幼少期だったのではと思います。そういった、受け止められた経験、他者とぶつかって分かり合えた経験、の繰り返しで他者との関係性の構築の手段を学んでいくのではと思うのですが早いうちから大人になる必要があり、いざ母親さんに甘えようと思った時に受け止めてもらえなかったのはのちに大きく尾を引いている印象を受けています。そのような経験があると他者がどのように評価してくれたり賞賛してくれていても、自分自身で課してきたこれまでがあり、他者が赦しても自分が赦せない、ということもあるのかな…と勝手に想像しています。

必要としてほしくない、というのはこれ以上自分に期待したり、負荷をかけてほしくない
忘れてほしくない、というのはあなたの心の中で閉じ込めざるを得なかったあなたの本当の気持ちをこのままなかったことにしたくない、という、一見矛盾しているようですが「本当のあなたを見てほしい」という共通する気持ちなのではと思いました。あなたの中で眠っているお気持ち、またこちらでお聞かせいただければと思います。

感想3

経験談の投稿ありがとうございます。ところどころの文章よりあなたが周囲の空気を読み、周囲から求められる自分になり、自分より家族や周囲の人を優先に生きてこられたことが伝わりました。本来、幼少期とは、素直に感情を表現してもよい時期だと私は思っています。ですが、置かれた家庭環境により、あなた自身ありのままの感情表現ができず、常に我慢と隣り合わせで生きてこられたのだと思いました。今まで家庭の中で、自分を守る術だった周囲の為に何かをするということが、状況や出逢う人によって、人からの裏切りや利用されたという傷つきに代わり、それが人への不信感や自己肯定感を下げることにつながっているのではないかと想像しました。勝手に分析を進めてしまったのですが、経験談で語ってくださったようにこれからもしんどかったことを語り続けてほしいと思いました。おそらくたくさん人に傷つけられたことがあったのではないかと勝手に想像してます。私自身は、傷ついたことを誰かに語ることで、癒されたり、気持ちの整理ができたり、気づきを得ることもあるのではないかと思っています。その語るツールの1つとしてこれからも死にトリを利用していただけたらと思います。

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