経験談

生きづらさを感じる人が語る 経験談

経験談はそれぞれの投稿者の個人的な価値観や感じ方をそのまま掲載しています。一部、リアリティのある描写や強い価値観が含まれるため、読む人にとっては負担等を感じる場合もあります。各自の判断で閲覧してもらえるようにお願いします。

自分自身が檻で足枷。

12、3歳くらいの時から重圧に押しつぶされそうになった気がする。希死念慮をハッキリ自覚したのは高校生になる前か、なった辺りか。
何をしても、どう頑張っても苦しさが消えてくれない。もう頑張れないと、全てを手放したいと思っても、何も助けてくれないし神なんてものも存在してるはずないので結局自分で頑張るしかない。でもしんどい。変わらない。ずっとこの負のループを繰り返してる。
もう自分より年下の子達が世の中で活躍している。顔が綺麗で、才能もあって、人が周りにいる。そんな子達の横に立っても恥ずかしくないようにせめて仕事してない身でも家事や料理ができるようになろうとか振る舞いや外見を磨こうと色々やったけど、辛さと自分の中にいつのまにか居たこの”何か”は一向に消えてくれない。中学生の時に心療内科に通っていた時期があったけど、特に何も診断が出なかった。不登校だった自分、そして今も恵まれていて自由なはずなのに生きるのがしんどくて仕事についていない自分にはその”診断が出なかった”というのが、「自分の努力不足」という考えを助長させる。非定型鬱病なんじゃないかと自分で調べてそれを心療内科の先生に伝えたら「それはないかな」と笑ってあっさり話を切られてしまった。専門の高校に入学してすぐに辛くなって先生に相談した時も、最終的に「じゃあ大丈夫!」と判断されてしまって、その後も自分のモヤモヤを解決するためにいろんな行動を起こしたけれど、どれも失敗に終わった。ろくに自分の話を聞いてくれる人がいなかったというか、的外れなことばかり言う人しかいない。大丈夫じゃないから相談したのに。結局専門の高校はすぐに辞めてしまった。
体が無駄に丈夫なせいで周りにしんどいことが伝わらない。診断名が出れば、周りにも説明できるし自分でも甘えだと思わずに済むかもしれないのに。専門を辞めてから自分の人生は停滞したように感じる。得意だった絵に楽しさも感じなくなってむしろストレスになり、出会いもないし、変わろうと努力してるつもりなのに一向に”何か”が消えない。自分で自分の道を閉ざしたんだろうか。自分が全部悪かったのだろうか。
まだ頑張らなきゃいけないのなら、もうこれ以上生きたくない。
家族はいるのにすごく孤独。新しい環境に行きたいけどもう行動する気力が無い。この希死念慮も、”何か”も違和感もずっと消えないのを覚悟した方がいいんだろうな。
自分を受け入れようとかも頑張ってみたけど、それも負のループの内。
もう自分は”見えない魔法の輪”の外側に放り出されてしまった感覚。
普通の元気な人達の中で生きると追いつくので精一杯でしんどい、でも助けが必要な人達の中では自分は”大丈夫”な要素が多い。自分の努力不足に感じる。どちらにも居場所がない。
ずっとずっと自分自身が檻。自由なはずなのに自分自身が足枷になって動けない。少し移動するだけで気力と体力を使い果たす。もう終わりにしたいのに。誰か私を連れ出してほしい。自分1人ではもう頑張れない。私には人の力が必要なのに。
20代で死ねたらいいなと思う。変わらないのなら、もうこんな自分とは付き合いたくない。もう全てを断ち切りたい。

感想1

経験談への投稿、ありがとうございます。
自分の中にいつのまにか居た「何か」の正体はなんだろう。「もやもや」「ぐるぐる」「ごちゃごちゃ」のような、曖昧で形容しがたいものなのかなと、似たようなことを経験した私もその正体が分からず、気づけば頭を抱えて考え込んでいました。
「診断が出なかった」ことが「自身の努力不足という考えを助長する」気持ちに共感しました。もしかしたら「診断がない以上、このつらさは甘えなんだ」と、さらに自分を追い詰めてしまうきっかけになってしまったのではないか。自分のつらさを正当化するための「形あるなにか」を求めているのか。もしそうなら、受診の際に「笑ってあっさり話を切られる」のも勇気を出して相談した結果簡単に「じゃあ大丈夫!」と判断されるのも、投稿者さんにとってはとてもつらく、また「こっちは真剣なんだけどなぁ」ともやもやした怒りや呆れの
感情に近いものが膨れ上がる出来事だったのではないかと感じました。
「体が無駄に丈夫なせいで周りにしんどいことが伝わらない」のは、表向きには「大丈夫な自分」を演じていたり、その周囲への気遣いが自分を「無理させて」しまっていたりするのかなぁと、勝手な想像をしていたところでした。また、こちらも勝手な想像ですが、投稿者さんの思っている「丈夫」な自分より実際の投稿者さんは繊細かもしれなくて、ご自身で大丈夫だと思っていても無意識下でじわじわと負荷が蓄積しているようにも思えました。「壁」で例えると、「その壁を越えるほどの大きなストレスは反対側からはっきり認識できるが、壁より低いストレスは壁の反対側からは見えず、知らず知らずのうちにその壁を蝕んでいく」ような感じでしょうか。もしかすると、投稿者さんの経験や環境から、その壁がとても高くなっているのかもしれないと感じ、投稿者さんが認識しているものとは別に、認識していないものによる精神的な負荷も想像より大きなものなのかもしれないと感じました。
これまで「希死念慮」、正体不明の「何か」や「違和感」と人生をかけて闘ってきた投稿者さんに対し「消えることはないのかもしれない」「向き合っていくものなのかもしれない」なんて簡単には言えないけれど、願わくばそういった思いを少しでも気にすること無く、得意な絵が再び楽しめるようになったり、新しい環境に行ったりと投稿者さんの望むもの、ことができる環境が見つかるといいなと影ながら祈っています。また募る思いがあふれそうなときは書きにきてください。
改めて、経験談への投稿、ありがとうございました。

感想2

『自分自身が檻で足枷』という表現、苦しんでいるあなたに対して大変失礼ながら、「この表現好きだなぁ」と思った私がいます。
"どう頑張っても"や"もう頑張れない"などほかにも文章の端々から、自分なりの方法で沢山頑張ってみた過程あることを感じています。でもその頑張れない先の保証がない、救いがない苦しさ…。だからまたなんとかしようとなり更に自分でしんどくさせてしまう部分があることも考え、ここでは檻と足枷の物理的なイメージも私の中に浮かんだ気がしました。自分より年下の人達の活躍、SNSやTV等で目にすると私はとても劣等感を抱き、情けなくなったり焦ったりするので、なんだかわかるなぁ…とつい頷きました。「せめて…。」の気持ちからくる行動は、そうしなきゃ恥ずかしい・ダメだ、何か秀でたものがないといけない、のような社会の圧力を私は感じています。(私は特にSNSからです。)でもあなたの言うような、"横に立っても"は私は考えたことがなくて、あなたが何か目指すものがある、またはあったのだろうかと考えていたところでした。
心療内科や精神科も、時代によって診断の流れがあるように私は思います。以前は診断名がつかなかったものも、現在は理解や研究が進んだことで診断が下りたり、名前が増えていたり正式名称が変わっていたりなどあるような…と私は感じています。非定型うつ病を疑い、自分で調べて医師に聞いて否定されたところは、何気ないワンシーンのように見えてとても苦しい瞬間だったのではと思いました。診療科目は別ですが、私も自分の病名と疑わしきものを自分なりに時間をかけて調べ、医師に伝えた時、笑って否定されあっさりと終了したことがあります。とても嫌な気持ちになったことを今もよく覚えていて、勝手ながらあなたのつらさを想像して読んでいました。ここで今私が改めて思ったのは、違うならば違う理由を、「非定型うつ病だと〇〇だから、あなたの場合〇〇なので違うと思うんだ。」と説明してもらえたり、そうじゃなくてもこちらの質問や不安を一旦受け止めてもらえたら…と、考えています。
また、専門の高校のところで、自分的に大丈夫じゃないと感じてるから相談しているのに、そこで他者が「大丈夫」と決め付けるのではなく、一緒に考えてもらえる時間がほしいなと私は思いますし、この時あなたが得たかったのは、「大丈夫かどうか」ではなく、そもそもそういう話ではなかったんじゃないかなと思いました。
気力や体力が無くても、あなたの中に"変わりたい・変えたい"が確信に近い形で存在することが私には伝わってきました。そして、自分には人の力が必要だ、と自分に必要なものを把握している(この過程が長くつらいものだったことも想像しています)ことも感じました。でもそうやって、望みとつらさの狭間で揺れる分の葛藤も多くあって、苦しんでいる状況なことも同時に伝わってきます。
読みながら私は、足枷や檻が仮に自分自身だった・自分が作り上げたものだったとしても、それらはこれまでの環境だったり、苦しさを受け止めてもらえなかった経験、つらさを外に出しきれなかったこと…そんな環境によって自分でも気付かぬうちに更に頑丈な檻と足枷に"されて"しまっていた可能性もあるのではと考えました。
あなたが描いていた絵はどんなものなんだろう、と勝手ながら興味が湧いています。死にトリには「のびアート」というコンテンツもあります。もしまたいつか絵を描きたくなった時に投稿してみるのも、あなたにとって変化の一つになれる要素かもしれないと思いました。

お返事

感想どちらも拝見しました。
嬉しかったです。見ず知らずの方達でも、自分の抱える表現し難い苦しさや葛藤に寄り添ってもらえる(それもちゃんとこちらの気持ちなどを考えてくれた上で、優しい中立視点でのフィードバックを送ってくれる)経験は、実際あまりできないと感じています。(世の中の大体のコンテンツはお便りなどを送っても選ばれるのはほんの一握りで、そもそも自分の思いが届く確率がほぼないシステムばかりで、受け止めてもらえる以前の問題になってるなと感じるので…)
なので「死にトリ」の経験談や「生きづLABO」の質問箱のような、時間がかかっても返信をくれて、こちらの思いについて真剣に考えてくれるコンテンツは貴重だと思います。(視点が違う感想を2ついただけるのも個人的にすごく嬉しいです。)

いただいた感想、どちらも大切にします。ありがとうございました。

一覧へ戻る