経験談

生きづらさを感じる人が語る 経験談

経験談はそれぞれの投稿者の個人的な価値観や感じ方をそのまま掲載しています。一部、リアリティのある描写や強い価値観が含まれるため、読む人にとっては負担等を感じる場合もあります。各自の判断で閲覧してもらえるようにお願いします。

崖から、手が、離れそう

これまでに2社を短期離職し、今回で3社目の就職後2週間が経過するころ、体調不良で欠勤したところ、「仕事は甘くありません。自己管理もできないのでは話になりません」とお叱りを受けた。一撃で心が折れ、頭の中が真っ白になった。これはもう立ち直れず、3社連続の短期離職を確信し、お先真っ暗になった。僕としては、本当の意味で、お先”真っ暗”になったと思っているのだが、まだまだ下があるのだろうか。今にも崖から手が離れそうだ。しかし同時に、3社目の短期離職ということで、自分の中である種の諦めが生じた。自分はこれで晴れて完全にレールを外れ、”普通の”生き方はできないことを悟った。自分は”普通”の人とは明らかに違う人間であることはわかっていたが、”普通の”生き方はできるのではないかと淡い期待を抱いていたが、それは叶わぬことなのだとようやく確信した。この自明の境地に至るまで、およそ28年かかった。

実は、今回の3度目の就職は、今の自分ならイケるのではないかと思っていた。2社目を短期離職してから約1年間、リワークに月曜の朝から金曜の夜まで足繁く通った。認知の歪みやコーピング、再発予防、苦手な場面の対処法などを何ヶ月もかけて分析した。スポーツをして気分を上げ、体力もつけた。同じ境遇の友人も何人もでき、次第に昔の好きだった、明るくて陽気で社交的な自分に戻っていくのを感じた。今の自分なら長く働けるのではないかと思った。1年間二人三脚で取り組み、相性ぴったしで本当に良くしてくださり、心の底から感謝しかない担当の看護師さんも同意見だった。リワークデイケアを卒業する際も、「今度こそお仕事頑張ります。今までありがとうございました」と、スタッフや友人に挨拶した。それだけ、今の自分に自信があったのだ。ところが、現実は違った。同じ週5日の拘束期間といえど、リワークと仕事ではわけが違った。リワークは誰にも怒られる心配もなく非常に守られた、保護的な空間であるが、仕事は常に上司に怒られる可能性があることに終始怯えながら過ごさなければならない戦場である。そう、このような書き方をすることから明らかなように、僕は「怒られること(注意されること)を極端に恐れる」人間で、「怒られそうかどうか」の一点で行動を選択する人間である。そんなことはとうの昔から自覚していて、だからこそリワークで修行したつもりだったのだが、現実の世界では全くもって無意味だった。職場では、常に誰かから怒られるのではないかというプレッシャーの中で過ごし、その甲斐もあってなんとか怒られずにすんでいたのだが、その神経質な日々は心身を蝕み、4連勤の帰宅後に疲労で布団に倒れ込んでしまった。翌日、全く出勤する気力がわかず、欠勤してしまい、冒頭のお叱りを受けた。その一言で、その一言だけで、心が折れた。それは僕にとって雷に打たれるような衝撃だった。就職前の想定では、前向きにお叱りを捉え立ち直れていたのに、全く歯が立たなかった。正確には、これが1回や2回の辛抱であれば耐えられそうな気はするが、この先無数に訪れる衝撃だと思うと、とてもじゃないが地獄だとしか思えなかった。

このような脆い特性を調べていると、必ず「愛着障害」や「アダルトチルドレン」「虐待」「トラウマ」といった言葉がヒットする。しかし僕は確実に母に愛されていた。それだけは紛れもない、揺るがない事実だと言える。それは僕が1番よくわかっている。それにもかかわらず、自分はどうしようもなく打たれ弱く、傷つきやすく、物事を引きずり、臆病で、自己肯定感が低すぎて、人の評価を気にして、自信がなく、疲れやすく、不安や抑うつを感じ、生きづらい。これらが病的なレベルで存在している。だから、後天的な出来事による環境要因も確実にあるのだろうが、どうしても僕としては遺伝要因の影響の方が確固としてあるようにしか思えない。認知に焦点を当てる治療法も、今ではよくわからなくなっている。そこまで勉強したわけではないが、この脆さの根底には生物学的なものが詰まっており、とてもじゃないが認知を修正したところで焼け石に水だとしか思えない。生まれたときからこの特性をもっていたということは、生まれたときからこの不幸は決まっていたということ。某遺伝学者に怒られそうだが、僕の人生は宿命であり、必然であったのだ。なんという原罪か。

では、これからどう生きていけばよいのか。今回の件で確信したことは、前述したように、もう”普通の”人としては生きられないことがわかったことである。遅すぎるが、それはそれでわかって良かった。でも、じゃあ、だからといって、この先どうやって生きていけばいいのか。弱肉強食の世界で、自分は弱者の側で生きてゆかねばならないことを、ようやく悟った。ただその事実があるだけで、このことを受け入れるのにもどれくらいの月日を要するだろうか。今は死ぬことしか考えられない。どう足掻いてももう詰んでいるようにしか思えない。光がない。先人たちはどうやって生きていったのか。誰か教えて欲しい。助けて欲しい。僕の心の叫びに応えてほしい。じゃないと、もう、崖から、手が、離れそうなんだよ。

感想1

経験談の投稿、ありがとうございました。
タイトルにもあるとおり、追い詰められたような心境にあるなか、言葉を紡いでくださったのかなと想像します。比喩表現が多く用いられていたので、逐一投稿者さんの心の動きをイメージしながら、感想を書かせていただきました。

まずなんと言っても、お叱りの言葉がいかに投稿者さんの心に衝撃を与えたのか、ありありと伝わってきました。投稿者さんはリワークに通いながら1年を過ごし、あらゆる側面からお仕事に関する技能を磨いておられ、そこには充実感もあったようにお見受けします。お叱りの言葉は、(その発言をされた方にとってどんな意図があったのかは分かりませんけれど、)リワークでの日々を大切にしてきた投稿者さんにとって、とてつもない重みのある言葉だったと思います。自信があったからこそ、ダメージも大きかったのではないかと…。心が折れる、雷に打たれるような衝撃、と表現されるのも、個人的に納得しているところでした。
また、私の中で「働き始める」ということには、多大なプレッシャーが潜んでいると思っています。マニュアル的なことを知っていくために頭を使うでしょうし、それだけでなくマニュアルにないこと(人間関係であったり、職場によっては暗黙の了解みたいなものもあったり)を把握するために気持ちも消耗すると思います。そういう状況で、ただでさえ恐れている「叱られる」という体験をされたのは、投稿者さんの目の前が真っ暗になってしまうような衝撃だったのだろうなと、想像せずにいられません。

実は、投稿者さんと程度の違いはあるかもしれないけれど、私も叱られるのはすごくイヤです…。叱られることが長期的には自分のプラスとなることもあるのかもしれないけれど、叱られた直後のダメージはやはり大きいし、なかなか晴れやかな気持ちにはなれない自分がいます。「愛の鞭」なんて表現がありますが、鞭はやめて…と私は思ってしまいます。
私の場合、叱られることが苦手になった経験が明確にあるのですが(ざっくり言うと、誤解されて理不尽に怒られてしまったけど、幼かったこともあり弁解できなかった経験です)、投稿者さんにはそういった経験はあるのでしょうか。私には投稿者さんが、崖から手を離さぬよう努め、その手立てとして今、内省を深めておられるところなのかなと想像しました。そのため、そういった側面から過去を振り返ってみるのも一つあるのかなと、勝手ながら思ったということを伝えて、感想とさせてください。改めて、経験談の投稿ありがとうございました。

感想2

経験談を読ませていただきました。
思いつく限りの努力を積み重ねた自負があったからこそ「これでもダメなのか…」と、自負と結果の落差に揺さぶられくらやみに落ちていってしまいそうなところを、必死に踏みとどまっている感覚なのかなと想像しています。

私自身、「怒られそうかどうか」という行動軸はとても共感するところがあります。「やったほうがいいんだろうな」と理解していながら取り組めないことも「やらないと怒られる」と思った途端にあっさりと終わらせたり、相手がどの程度なら許容できる(こちらに指摘が及ばない)のかを把握することに神経をとがらせ、相手の目を過剰に気にしたり。投稿者さんの状況でいうと、職場という「できること(できないとしてもやること)」を前提とされた環境で過ごすのと、「できないことがある(できなくても”許される”と思える)」を前提とされた環境で過ごすのとは、指摘からこちらが感じ取る圧の強さも、意図の汲み取り方も、自分を律することの必要性も、桁違いなのは想像に難くありません。
私と投稿者さんが完全に同じ感覚というわけではないと思いますが、自分の主体性よりも他者評価が先行してしまい、結果的に自分の行動・自己認識にも多大な影響を与えるという構図は、近からずも遠からずなのかなと感じています。私はいわゆる「社会人」になっても順当に頑張ることはできず、その度に「普通に働ける人にはなれないな…」と絶望して、一歩、また一歩と、自分が思い描く「普通」から後ずさりしていく感覚を味わってきました。

一方で、私や投稿者さんが思い描くような「普通の人」は、どんな感覚で日々働き、毎日を乗り越えているんだろう?ということが、いまいちよくわからない、どこか斜めに見てしまう私もいます。職場でミスをしたり、どうしても体調が優れないことで、怒られる・責められることは誰にでも起こり得るのかなと思います(できれば、ミスも体調不良もわざとじゃないんだから怒られたくない…というのが本音なのですが)。そんなとき、「普通の人」はどう思うんだろう?傷つかず受け流せるのかな?逆にむかつくのかな?それとも、傷ついたまま次の日出勤できるのかな…?正解はないと思いますが、そう考えてみると、「普通の人」と「普通じゃない人」にはそんなに大きな違いがあるのでしょうか。「普通」ってなんだろう、脆いまま生きている人はこの世の中そんなに少ないのでしょうか…などなど。答えのない問いをぐるぐると渡り歩きながら、同時に投稿者さんにも、問いかけてみたくなる私が居ました。
「普通なんてないからありのままでいいや」と簡単に思えない世の中になってしまっている気がしますが、お互いに、これまでの経験や積み重ねの1つ1つが、自分と世界を繋ぐ足がかりになっていったらいいなと思いました(勝手に似たものを見て、横に並んでいるような気持ちになっています、すみません)。投稿ありがとうございました。

お返事1

経験談に対するコメントをいただき、誠にありがとうございました。

「叱られることが苦手になった経験」については、軍隊のように厳しかった中学高校で超優秀な兄と6年間比較され続けたことは明確に影響があると思われますが、僕の人生を深く振り返ると、それよりも遺伝的な特性の方がはるかに強い影響を及ぼしているというのが僕の考えです。

「生活のため」とはいえ、叱られてもなんとか立ち上がって日々向上していける方々が、僕には同じ人間だとは思えません。どうしてあのショックに正々堂々立ち向かえるのか、不思議で仕方ありません。脳の構造が全く違うようにしか思えません。それだけ明らかな差を感じます。

崖から手が離れてしまいそうな状況に変化はありません。生きることが辛くて、泣きそうになりますが、でも少なくとも共感していただいたその事実は嬉しく思います。ありがとうございました。

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