経験談

生きづらさを感じる人が語る 経験談

経験談はそれぞれの投稿者の個人的な価値観や感じ方をそのまま掲載しています。一部、リアリティのある描写や強い価値観が含まれるため、読む人にとっては負担等を感じる場合もあります。各自の判断で閲覧してもらえるようにお願いします。

普通になりたかった

周囲にとって『普通』のことが、私には『普通』にできない。
クラスの子たちは何気なくできてしまうことが、私にはできなかった。そしてなぜあなたにはできないのかと叱られていた。
朧気ながら覚えている1番昔のことは、保育園に通っていた頃、クラスの子たちは主におままごとをしていて、私はおままごとができなかった。
一応クラスの輪に入れようとした先生によっておままごと一家の中に入れられ、参加する時はいつもペットの犬役をやらされていた。なぜペットなのかというと、特にセリフがないからである。
おままごとは難しい。家庭のやり取りがおそらく『普通』でなかった私には、『普通』の家族の一員の真似ができなかった。
家では、どうして他の子にはできることがあんたにはできないのか叱られていた。親戚の同い年の○○くんはこれができる、あんたはできない。なぜなのか。私にも、できない自分が悲しくて恥ずかしかった。何より大好きな母親を失望させてしまう自分が情けなかった。
母は学校の先生だった。なので職場の学校で受け持つ生徒たちがいかに当たり前に『普通』をこなすか、私に説いて聞かせた。「私の生徒には『普通』にできている。なのにあんたはなんなの?」私にもわからない。
小学校と中学校では虐められていた。周りと同じ事ができず空気も読めない者、『普通』でない者は排除される。それは子供社会でも大人社会でも同じである。
中学2年からは学校に行けなくなった。親は何も言わなかった。
18歳になったら一人暮らしをして家に仕送りをするという決まりが我が家にはあったので、通信制高校を卒業して、すぐに就職した。『普通』の当たり前のことができなくて、すぐにいじめられるようになった。私が『普通』でないことがばれてしまったからである。
短い期間で退職し、その後は職場を10数箇所転々とした。それぞれ仕事自体は評価もされたが、人間関係がすぐこじれてしまった。稼ぎが乏しく実家への仕送りに困り、風俗もした。
ある日、出勤しようと玄関まで行ったら、そのまま動けなくなってしまった。悲しくないのに涙が止まらない。そのままあれよあれよと意欲を失い、風呂にも入れなくなり、カーテンも開けられなくなった。死のうとしたが失敗した。精神科の病名が3つ付いた。
『普通』は難しい。『普通』にできない私がどんなに真似し、観察し、擬態しようとしても、根っこが『普通』でないためすぐにボロが出てしまう。
『普通』にしようとすればするほど、『普通』ではないことを自覚させられ、その差に押しつぶされ、頭の中には「なぜこんなこともできないのか」という母の言葉が響いてくる。

感想1

「普通」というキーワードが繰り返し文章の中に出てきて、投稿者さんにとってはずっと、それが重要な、というか突きつけられ続けて無視することなど到底できないような指標だったのだろうと想像しました。
私は集団で同じ方を向いて同じことをすべき、という社会の要請がもっとも病的であると思っています。「普通」という言葉はその社会を象徴する言葉のように思います。
「できるべき」とされること「普通」と考えられていることは時代や場所などの文化によっても異なる、絶対的ではない指標にすぎません。評価されるかどうかということ自体がその時のムードなどで大きく変わります。たまたまそれに合致した人はよくて、そうでなければ困りごとがたくさん発生するということに問題があると思います。合致していないということはその人の責任では全くないということを私は強く思っています。でも「なぜあなたにはできないのか」という言葉は、理由を聞いてるようで、実際のところ責任を投稿者さんに押しつける暴力的な言葉だと思います。繰り返しのようになっているかもしれませんが、本質的にこれは全く投稿者さんの問題ではないと私は思います。
そもそも感覚の受け取り方、記憶の持ち方、理解したり、考えたり、行動したりするためのプロセス、表現の仕方に至るまで、人はかなり多種多様ですので、教え方も当然多様でなければいけないはずです。でも現状の学校教育などではその多種多様さに全然追いつけていない状況があると思います。その中で教員は個別の違いをみるのではなく、同じに「する」ということを目指してしまう状態が少なからず存在するのかもしれません。またそうでなく一人一人にとっていい教育を願っていても、知識不足やあるいは人材不足、余裕のなさなどの中で叶わないこともあるのだろうと想像しています。
仕事を始めてからも、ずっと周りや「普通」に合わせるために、たくさんの努力をしてきたのだと思います。私もずっと周りが当たり前のようにやっているように見えることのやり方がわからないから、自分なりの対処法で努力しては、努力が続かなくなり倒れる…ということをやっていました。努力をしなければいけないということ自体おかしいと思いますが、少なくとも投稿者さんが過ごしてきた日々にはたくさんの頑張りが存在していただろうと想像しました。
個人的には、擬態しなくていいと思います。合わせるべきは社会の方だと思います。そんなことを私が勝手に叫んだところで、力はないものですが、でも、投稿者さんの大変さが社会やその中に蔓延する価値観に押し付けられた結果だと感じるので、憤りを感じてたくさん書いてしまいました。風呂に入らなければいけないわけでもないし、動く必要もないです。(栄養補給は大事ですが…)投稿者さんが少しでも休めることを願っています。投稿ありがとうございました。

感想2

普通とは目には見えないナイフのような存在だと思って読みました。特に、大人が子どもに対して一方的に「普通でいる」ことを期待したり、強要することは、ある種の暴力だと私は考えます。また、世の中で個性的であることが否定されがちで、できることがいいことで、できないことは克服の対象で努力を強いられることには納得がいきません。人は一人ひとり能力も個性も得意不得意も違うのに、なぜみんな同じ水準になることを求めるのだろうと不思議に思います。そうなると、一方的な要求水準からたまたまた離れている人が理不尽な思いをすることは明らかであり、たまたまそれに近い能力を持っている人が優遇されたり、評価されるような世の中は不合理だと私は思います。だから、あなたの経験談を読んで、理不尽な話だと思いました。
あなたにはあなたなりの感性があり、気持ちがあり、考えがあり、できることもあるのだろうと思います。何よりも、こうして自分の気持ちを書いて送ることができるのですから、意思と力があることは確かです。それが、誰が決めたか分からない一定の基準に到達しないからと言って存在を否定するような扱いを受けるのなら、そうする方に私は何らかの歪みがあるように感じます。あまりに理不尽な普通幻想にあなたが痛めつけられたような気がして、世の中のあり方に憤ってしまいました。ただ、その世の中の一端を自分自身も担っていることを考えると怒るだけではなく、理不尽さを少しでも減らしたいと思っています。
私の知人であなたと同じように子ども時代におままごとで犬の役ばかりやっていた人がいます。その人はおままごとが大好きだったし、犬の役をやるのが大好きだったと言っていました。他の人と競合しないし、「ワン」と言えばみんなに喜んでもらえるし、他の役は何を言っていいか全然わからなかったと言っていました。同じように犬の役をやっていたのに、あなたは非常に苦い思い出となり、私の知人は楽しい思い出となっていることを考えると、周囲からの理解や受け入れや扱いが違っていて、それが人が生きていくうえでとても大事なのだろうと思いました。私はあなたのままでいいと思いました。あなたは今の自分でいいとは思えない、普通になりたかったと思うかもしれません。その気持ちもわかりますし、受け止めたいです。でも、やっぱり無理して何かをできるようにならなくても、こうして死にトリに気持ちを書いて、自らつながってくれたあなたのままでいいと素直に感じています。

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