経験談

生きづらさを感じる人が語る 経験談

経験談はそれぞれの投稿者の個人的な価値観や感じ方をそのまま掲載しています。一部、リアリティのある描写や強い価値観が含まれるため、読む人にとっては負担等を感じる場合もあります。各自の判断で閲覧してもらえるようにお願いします。

永遠に生きられたら。

以前「下手に理性があるせいで」というタイトルで体験談を投稿した者です。
あれから約半年が経った。
学校を辞めた。
やはり、私には集団に属する事が向いていないんだなと痛感した。
学校を辞めた後、ただの無職になるのは嫌だと飲食店でバイトを始めたが、3ヶ月で辞めた。
人間関係によるものだった。
常々思っていた事が、最近さらに大きくなっているような気がする。
人が怖い。関わりたくない。
でもそれ以上に、失う事の悲しみに耐えられないからこそ、自分から歩み寄ることをしない。
9月に祖父が死んだ。口を開けばうるさく、自分の過去を誇らしげに延々と語る鬱陶しいジジイだった。
父親の顔を立てて何度か会いに顔を出したが、癌を患っているとは思えないほど彼は元気そうに見えた。
彼に最後に会ったのは死す2週間前。
彼は最後まで、自分の過去を自慢げに語っていた。私はそれを煩わしく思っていたが、本当に嫌なわけではなかった気がする。
「また来なさい」「うん。またね」
それが最後のやり取りだった。
呆気ないほど早く、彼は息を引き取った。
最後に見た、僅かに頭を覆う白髪にしわくちゃの顔を崩しながらはにかむ彼の笑顔が、今でも忘れられない。
棺桶に入った祖父は、ただの抜け殻のようだった。
魂が抜けた、ただの肉の様だった。
白濁した薄開きの眼、乾ききって紫になった唇。物言わぬただの器が、そこにあったのを覚えている。
私は彼の額に触れたが、それには既に温もりなど残ってはいなかった。
嫌なジジイだった。
本音を言えば嫌いだった。
思い返しても、いい思い出よりも、嫌な思い出の方が多かったのに。
なのに私は、葬式に参列した誰よりも泣いていた。
どうしてだとか、もっとこうしておけばだとか、ありきたりでどうしようもなく手遅れな後悔が頭を埋めつくして。
程なくして、彼はただの骨の山になった。
遺体を焼き終わる頃にはとうに涙は枯れ果て、虚脱した私はどこか遠く骨が壺に収まる様子を見ていた。
人は死んだら、ただの骨になる。
そして狭苦しい壺の中に入れられて、小さいお墓に入れられて。
分かっていてもそれがどうしようもなく恐ろしくて、悲しかった。
だからこそ私は、人と関わる事が余計に怖くなった。
人と交わり紡いだ思い出が多ければ多いほど、喪った時の悲しみも大きくなる。
なればこそ、最初からなければいいと思った。
そうすれば、悲しまずに済むから。
あと何回、大切な人達を見送ればいいのだろうか。
だがそのような私の考え方は、どうやら少数のようで。
よくも悪くも、人は忘れる生き物らしい。
忘れるからこそ前を向いて生きられると。
そうかもしれない。でも、私はそれほど強くは無い。
吹けば消えるような存在価値で、今日も思い悩む。
どうすればいいのか。
死ねないから生きていると言った半年前からは、それなりに前向きに、いや、投げやりになったような気がする。
でも相変わらず自分に価値を見いだせなくて。
でも死ぬのは怖くて。
そして何より、このままずっと1人でいるのが、本当に少しだけ、寂しい。
永遠に生きていたい。
永遠に生きられれば、どんなことでも叶う。もしかしたら、私が求めるものが見つかるかもしれない。
祖父の死が私に影響を及ぼしたのは間違いないが、私が10月半ば、コロナに罹った時もなぜかそう思った。
消えてしまいたいと願っていたはずなのに。
死ぬのだろうか、なんて思った瞬間、やりたかった事なんかが頭の中に浮かんで来て。
未練たらたらじゃないかと、我ながら恥ずかしいやら情けないやらで複雑だった。
人は怖い。他人の言うことは全ての様に思えて、自分が歪められていくのが怖かった。他人の存在が全てに思えて、自分なんかがと今でも思っている。
でも最近は、なんとかなっている。
酷く曖昧で抽象的だが、少し美味しいものを食べたり、暖かくしたり、星を見たり。
自分を慰める術を身につけたと言うべきだろうか。
他人の声はとても大きくて、まるで正しいように聞こえるけど。
「でも私はこう思う」と、頑張って思うようにしている。
時間は皆同じように流れるが、私は少し遅れて行こうと思う。
タイムリミットは設けてある。私は今20歳、30までに職に付けなければ死ぬと親に伝えてある。
本当に死ねるかは怪しいが。
これから先、死ぬより辛い事が沢山ある。それでもなぜ、人々は自ら死を選ぶことなく生き続けるのか。
なんでだろう。
問題は山積みで、私自身も、自信の欠片も何も無い。才能も能力も、何もかも。
だからこれは、きっとただの現実逃避なのだろう。
それでもいい。今だけ、今日だけ。
いつかツケを払う時まで。

感想1

投稿ありがとうございます。
「永遠に生きられたら。」というタイトルが印象的で、どういうふうにこの思いを持ったのだろう?と気になりながら読みました。
祖父さんとが亡くなったエピソードを読み、あなたの中で祖父さんは簡単にいいとか嫌とか決めることのできない、さまざまな感情を持つ相手だったのだろうなと思いました。その祖父さんが亡くなり、それまでは動いていた体が棺桶の中では動かない、今までとはまったく変わったものとしてあって、あなたはそのこと自体に衝撃を受けたのかな、と書かれている表現から思いました。私も亡くなった方の遺体をみると、なにかすごく「違う」ということを感じることがあります。「物言わぬただの器」「抜け殻」という表現に納得するような気持ちにもなりました。私自身は魂というものはよくわからなくて、私自身がだれかを「存在している」「もういなくなった」と捉えるその違いはなんなのだろう、とよく考えてしまいます。

「どうしてだとか、もっとこうしておけばだとか、ありきたりでどうしようもなく手遅れな後悔が頭を埋めつくして。」ということを別れのときに思うのは、真っ当な心の動きであるようにも思いました。
あなたの「永遠に生きられれば、どんなことでも叶う。もしかしたら、私が求めるものが見つかるかもしれない。」ということもつながっているのだと思いますが、「生きる」ということはある意味で可能性や未確定な未来があるということなのだろうと思います。たとえとても遠くにいたとしても、お互いが生きていればいつか会う可能性もある、とか。今はわからないこともいつかわかるかもしれない、とか。でも、人はそれぞれいつか「生きる」が終わり、その人の人生が終わるときがくる。そのようなことにハッとする瞬間があなたにあったのかなと想像しています。

私は不変よりも変化が好きなタイプで、悲しみがあっても出会いたい、そこにだれかがいることを知りたいと思うタイプなのですが、あなたにとってはきっと悲しみが深く衝撃的で、だからそれを避けたいという気持ちが強いのかなと思いました。「よくも悪くも、人は忘れる生き物らしい。」と書いてありましたが、記憶の持ち方は人によってかなり違うみたいだなぁと思います。私はおそらく平均的な人よりもかなり忘れっぽいタイプであるようで、それが変化を好むことにも繋がっているのだとすれば、逆に言えば、もしかするとあなたはどちらかというと記憶を忘れずに持ち続ける性質の人なのかな?と思いました。(違ったらすみません)

経験談を読んでいて印象的だったのは、あなたの具体的な出来事に対する感じ方、そこから発展した考え、日常を過ごしながら考えたことが混ざり合いながら、文章として調和しているような感じがしたことです。祖父さんへの描写から、あなたは元々感受性が豊かな方なのだろうと思います。それを一つ一つとらえながら生きているのだとしたら、それだけで多大な労力がかかりそうだなぁと思いました。
またあなたが「自分を慰める術」としてあげられているものは、すべて感覚することにかなり直接的につながっていることも心に残りました。それはあなたの感覚的な鋭さや受け取り方自体を「慰める術」ということでもあるのかなと思います。
私は職につくかどうかは生きることに先立つものではないと思いますが、仕事が人を判断する基準にされてしまっていることも多い世の中でもあるとも思います。
あなたの心の中にあるもの、体で感じ取っているものを否定する必要もないし、だれにもなににも否定されてほしくないと思います。あなたが日々目にするもの、感じたこと、心に残るものの中には、あなたを傷つけるものもたくさんあるし、一方でときには慰めるものもあるのかなと思います。そういうことを話し合えるような相手がいるといいな、とも思いつつ、簡単ではないのかもしれません。もし身近にいなければ、死にトリであなたの感じたことや考えていることを教えてください。

感想2

二度目の投稿、ありがとうございます。祖父の死という出来事があなたに与えた衝撃や影響について詳細に書かれていて、興味深く読みました。私が最も印象的だったのは、あなたの文章から祖父を嫌っていたことは本心だと伝わってきたのですが、それでも亡くなった時に誰よりもあなたが泣いていたという点でした。それはあなた自身でも意外だったことから、こうして書いてくれたのだろうと思いましたが、私もそのことに強く興味を抱きました。
私は誰かの死に対して抱く感情には大きく二種類あるように思っています。一つは本当に密な利害関係や情緒的なつながりがあった場合に抱くその人の存在がなくなってしまったことに対する喪失感や安堵感のような直接的な感情です。そして、もう一つは直接的な利害関係や情緒的なつながりがあったわけでもない場合に出てくる、潜在的な感情の動揺のようなものです。言い換えると自分の心の内を投影して出てくる感情とも言えます。あなたの場合は祖父の死を通じてそれが大きく噴出してきたように思います。おそらく、あなたは内面的な不安や葛藤、恐怖などの感情を抱えて生きてきたのだろうと推測しています(それは1回目の投稿でも伝わってきました)。
コロナになったことも同じようにあなたの心の混乱や不安を刺激する出来事だったのだろうと思います。そう考えると、私たちの感情は何か目の前の出来事に対して動いているよりもそれまでに蓄積していることや自分の中に抱えていることの投影の方が圧倒的に大きいのかもしれないと思いました。
あなたの一度目の投稿が「理性があるせいで」という内容だったことを改めて考えています。つなげていくと、あなたがこれまで静かに人知れず感情を抑えてきた姿を想像しています。祖父の死を前にして心から泣けたことはあなたが抑えていたものがちゃんと出てきた大切なターニングポイントだったように感じました。『「でも私はこう思う」と、頑張って思うようにしている。』というくだりにあなたがあなたの気持ちを自分に引き寄せて、自分という存在を積み上げている様子が見えたように思いました。
ちなみに私は個人的に永遠に生きることほど怖いことや究極の孤独はないと思ってしまう人間です。いつかは死ねるということへの安心感が私の中にはあります。あなたが永遠に生きていたらという表現は永遠に生きていたいと願う気持ちというより、今、生きるということの意味や遠い先に何かしらの灯が見えたような気持ちから、もう少し猶予がほしいという願いが込められているように私は感じています。
これからも、死にトリが何かの役に立ちそうなら、こうして来てもらえると嬉しいです。

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