経験談

生きづらさを感じる人が語る 経験談

経験談はそれぞれの投稿者の個人的な価値観や感じ方をそのまま掲載しています。一部、リアリティのある描写や強い価値観が含まれるため、読む人にとっては負担等を感じる場合もあります。各自の判断で閲覧してもらえるようにお願いします。

行き止まり

父親は安定した職につき、ほぼ定時で帰ってきて休日もよく家にいた。母は専業主婦。兄弟が一人いる。子ども時代には海外旅行に何度も連れて行ってもらっていた。経済的に安定した家庭で育った。
結果的に私が育ったわけだから家にも何かしら問題があったのかもしれない。だが兄弟は十分すぎるほど高学歴で、高い世帯収入をもつ家庭を築き、子どもを育てている。もし家庭環境の影響が強いのなら、兄弟もここまでうまくは行かなかっただろう。
立派に育った兄弟に対し、私は中高と不登校・ひきこもりを繰り返し、高校卒業後はずっと家にいた。不登校だった時期の記憶はうっすらとしかない。勉強や運動で躓くこともなかったし、明確なイジメと呼べるようなものはなかったんじゃないかと思う。この時期のことで語れる内容はほぼないくらいに覚えていない。今の自分のベースとはなっているはずだが、今振り返ってみれば虚無である。高卒後は大学進学をすすめられた。私が望めば親はサポートしてくれただろうが、外出もままならない有り様で、ネットやゲームに逃避して日々を過ごしていた。

長期のひきこもりの後、二十代後半になってやっと「何か」に追われるような焦りを感じはじめ、三十歳を過ぎたころになってやっとアルバイトなどで一応の社会復帰を果たした。当時は「働いていない」ということへの危機意識があり、ひとまずの「就労」を出来たことを喜んでいたように思う。アルバイトを何年か経験したあと、縁があり正社員として働くことになった。そこで数年続いたが、結果的にわかったのは、その職場は「さほどキツくない」というところの他には良いところがなく、尊敬できる人もおらず、給料も上がらず、やりがいもなく、成果を適切に評価もされず、所属感も得られない、自分には合わない職場だということだった。
「ここは合わない」と大分時間がかかってから気づいていたところに、仕事と人間関係のトラブルを抱え、さらに勤務中に人格を傷つける行為を受け、不眠と辛さで仕事に行けなくなった。精神科を受診したら「抑うつ」と診断され、医師に言われるがままに休職した。結果的に1年以上の休職期間になったが、明確に良くなることはなかった。
当時の医師の見立ては「定型的なうつではなさそう」というような見立てだったように思う。元々の性格が抑うつ的で、たまたま不運な出来事が重なって不眠・適応障害的な形で現れただけだったのだろう。
あまり効果のない療養期間を過ごし、休職可能な期間も終わりに近づいた頃、医師から「このまま退職して無職になるよりはいい」と復職可能の診断が出た。「医者が言うならそうなのだろう」と、治療や心理療法を続けながら復職したが、居心地の悪さ、しんどさは続き、「この仕事は合わない。続けられない」と改めて気づかされた。休職前の状況に加えて、明らかな体調の悪さと医療の負担が増えただけだった。
そんな経験を重ね、気づけば四十代。今になって「転職か?」と考えてみたが、キャリアと呼べるような経験もなく、専門的スキルも、年齢に対して求められるようなマネジメント経験もない、””ただ歳をとっているだけの人間””には、当たり前の話だが現実はなかなか厳しいようである。もし転職が実現したとしても今と同程度の待遇の仕事くらいのものだろう。今のぬるい職場ですら病んでしまう自分には別の環境で生き残れるほどのタフさは明らかにない。アルバイトなどで負担を減らして生活していく道もあるのかもしれないが、「アルバイトだから楽」なんてシンプルな話ではないのもわかっている。結局人間が関わる仕事、そもそも””社会””で生きていくこと自体が難題なのだろう。転職に向けて動く気力も出ず、今の職場で無為に日々をやり過ごしている。

生きていて家族以外の人とつながりを感じることはない。人との適切な距離の取り方がわからない。
職場にはかろうじて人間関係があり、「友人」と呼べそうな人もいるが、友人であるという感覚がわからない。こんな受け止め方をしている時点できっと友人ではないのだと思う。
仕事上で私を褒めてくれる同僚、上司も居たが、言葉を受け止めることは出来ない。「こんな自分を評価するなんてこの人の目は節穴なのだな」などと相手を否定する感情が起こってしまう。
何の縁か、求められて交際関係を持った時期もあったが「この人の幸せに私は貢献できない」と感じてしまい別れた。他者の中に自分の居場所を見つけられない。
他者との関わりが生きづらさのもとなのであればいっそのこと「私は一人で生きる」と決意できれば世界も変わるのかもしれないが、孤独を開き直れるほどの強さもない。

世間では趣味とされることをしてみてもどこまでも空虚さがつきまとう。スポーツをしても、文化的なことをしても、刹那的な快感・満足感のあとに残るのは体験の無意味さの認識、虚しさだけだ。ひきこもっていた時のゲーム、ネットと同じで、その瞬間に現実から少し目を背けるための何かでしかない。この世を真に楽しめることはもうないのだろう。

未だに経済的にも生活的にも人間関係的にも強く親に依存して、迷惑をかけ続けながら無意味に生き続けていることに罪悪感がある。私を社会復帰に追い立てた「何か」の正体はこれなのだろうが、あくまで外発的な動機でしかなく、「自分はこうなりたい」などの内発的な欲求にはついにならなかった。
社会全体を見れば恵まれた環境に生まれているのに、努力をすべき時にせず、ちゃんと生きてこられなかったことを残念に思う。今となっては自分で自分の人生をコントロール出来る感覚はない。これから変わることにも期待していない。
現状を変える力のない私に取れる積極的手段は自死くらいでありそうだが、何も成し遂げてこれなかった私にはとても完遂できない。大病や事故などに見舞われない限り、親が死に、働けるだけ働き、働けなくなったあとはあわよくばセーフティーネットに引っかかって生かされるか、そのまま死ぬか、くらいの未来だろう。

今は家があり、仕事もあるが、私の人生、命に価値があるとは感じられない。このままでいたいと思わないが、変えることも出来ない。何にもなれず、何も残せない、生きている実感もない。明日を迎えたいとも思わない、そんな人生。なんの意味も価値もない。
今の状況を一言で表せは「絶望」なのだろうが、絶望している者なりの振る舞いもできない半端な絶望者であることにも絶望する。

感想1

経験談への投稿ありがとうございます。

「何か」に追い立てられながら生きていることに、自分自身も覚えがあるなと思いながら読ませていただきました。あなたが自身に向ける言葉の一つ一つを目の前にして、「そんなことないよ」と簡単に言えない難しさを感じています。どこにも転べず、居心地のよくない場所で立ち続けることは、なかなかしんどいだろうなとも思います。

いわゆる「恵まれた家庭」こそ、見えづらい息苦しさはあるのではないかと思いますが、自身の苦しさ・生きづらさをすべて家庭環境のせいにすることができない葛藤を感じました。虚しさの中で、自分の心を守るための引きこもりでもあったのかなと想像しています。

昨今は、行き過ぎた資本主義の影響もあるかと思うのですが、成長や結果を求められ、「何をしたか」より「何になったか」「何を成し遂げたか」ということが評価され、多くの人たちを苦しめる社会になっていると感じています。特に社会人になると、「仕事」がアイデンティティそのものになってしまうことが多いように感じます。
上手くいかなくなってしまうと、自分そのものが揺らぎ、かといって他に逃げ場もなく、詰みゲーと言わんばかりに無力感や敗北感でいっぱいになってしまうだろうと感じます。(それは、個人のせいではなく社会に蔓延する価値観の影響が多分にあるだろうと)
一方で、社会に立ち向かい、ぶつかりながら削られながら、自分のかたちや大きさを確かめてきた時間でもあるのかな、とも思いました。

「人生になんの意味も価値もない」というのはある意味で本当にそうだと思います。「ある」も「ない」もジャッジせず、そのまま受け入れることができたら変わるのか、それとも変わらないのか、長年続いてきた不全感を癒すものがもしもあるとしたら何なのか…あなたと話してみたい思いです。また、最後の「ない」の連続は、本当はあったらいいのにという微かな希望も踏みつけたいのか、ほとほと疲れきった嘆きなのか、どんな気持ちで書いたのか聞いてみたいなと思いました。

感想2

経験談の投稿をありがとうございます。
率直に、なんだか一度話をしてみたいなぁと感じる内容で、興味深く読ませていただきました。その思いのまま、一気に感想を書きます。
まず私が「話してみたい」と感じた理由を勝手ながら書くと、ひとつは、あなたの投稿には「虚無感」や「否定する感情」「絶望」といった言葉が散りばめられていますが、どこか開かれた感じがして(それは「半端」だからという理由ではないように思います)端々から知的な感じ(理路整然とした感じ)が伝わってくる気がしたためでした。あなたは私のこの視点を「節穴」と思われるかもしれませんが、あなたがこの力をどのように捉えているかを知りたいと私は思いました。もうひとつは「「自分はこうなりたい」などの内発的な欲求にはついにならなかった」と書いているように、投稿全体からあなたの気持ち・内発的な欲求があまり垣間見られなかったように感じたため、そのあたりについてもう少しお聴きしてみたいと思ったことが挙げられます。そもそも日本社会において、気持ちを言葉にすること自体が困難(機会が少ない)ということもあるかと私は思っていたので、そうした機会を一緒に持つことができたらと思いました。
個人的な意見を言うと、人生を虚しいと感じることはまっとう(?)な感覚のように私は思っていて、特に「経済的に安定した家庭」で育った中で(育ったからこそだと言えるように思いますが)その感覚を持っていることや、中高であなたが不登校であったことなどは、私からするとあなたが「ちゃんと」生きようとしてきたからではないのかなと勝手ながら思いました。ここで言う「ちゃんと」には二種類あり、社会的に推奨されがちな「ちゃんと」(=高学歴や高収入、人は「ちゃんと」働くべきなど)と、自分自身の「ちゃんと」(=内発的な欲求)とがあって、あなたの場合にはその二種類の「ちゃんと」がせめぎ合っているように私には感じられました。あなたの育ってきた環境を考えると、前者の「ちゃんと」が身近にあるがゆえにそちらに誘われる・導かれる機会が多くあった(ある)のかなと想像し、実際はそうでない「ちゃんと」があなたにはきっとあったはずが、それをあまり大切にされずにきたのかななどと勝手に想像しています。このあたりはいかがでしょうか。唐突に私の話となって恐縮ですが、このように私が想像をしたのは、何を隠そう私も人生は虚しいものだと感じながら生きているからであり、私も多少なり恵まれているからこそ、どこにこの生きづらさや虚しさの根拠を求めたらいいかわからないということがあったためでした。あなたもそういったところがあるのかなと思い、それもまた話を聴いてみたいと思う所以かもしれません。今私は無力感と絶望感を抱きながら、「真に楽しめる」ことなどどこかに置き忘れたような感覚になりながら、ただ生きていて、そうした人生で私の「ちゃんと」とはいったいなんだろうかと考え続けています。そういう生き方もあるのかなと最近は思っていました。
ちなみに、あなたは家族とのつながりを感じているようですが、あなたの言う「つながり」とはどのようなものかも私としては気になっていました。私は正直家族にはあまり「つながり」を感じていません。その代わり、すでに亡くなったかつてお世話になった学校の先生とは「つながり」を感じていて、あなたの家族との「つながり」とは何か違いがあるのだろうかと気になっています。ひたすら私の興味・関心・聴きたいことばかりが前面に出た感想となってしまい、なんだか申し訳ない気持ちですが…機会があればお話をお聴きできればと思いますし、またよければ書きに来てもらえたらと思います。

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