経験談

生きづらさを感じる人が語る 経験談

経験談はそれぞれの投稿者の個人的な価値観や感じ方をそのまま掲載しています。一部、リアリティのある描写や強い価値観が含まれるため、読む人にとっては負担等を感じる場合もあります。各自の判断で閲覧してもらえるようにお願いします。

生きづらさ

私は40過ぎた社会人失格の人間です。
私という人間は幼少期から人一倍食べ、太っており、両親からは太り過ぎ、食べ過ぎ、周りは痩せてる子ばかり、と周りと比較されて私を否定されて育ってきた気がします。
物心ついた時から私は太ってるんだ、皆んなと違うことが恥ずかしい事なんだと認識してました。両親からの愛情が無い訳ではないですが、お互い高卒の共働きで低賃金の肉体労働で心身的に余裕が無かったんだと今は思います。
私の真剣な悩みも勇気を出して相談したのに、次の日には親戚一同に笑い話となり小学生の低学年ながらにショックを受けたのは今だに覚えています。多分そういう事が積み重なって人に相談するのが苦手になったのかもしれません。
それでも10代、20代は控えめながらも友人がいて、人付き合いもそこそこ楽しさを享受していました。
20半ばで父が仕事を失敗し、保証人であった私は、私自信も現実逃避で遊び倒し借金を抱え債務整理しました。
そこからの10年間はひたすら返済する日々で、仕事を3つ程掛け持ちした結果、鬱になりました。
そこから仕事が続かなくなり、収入が安定せず
40を過ぎて結婚詐欺にあい、また借金、人付き合いが苦痛になってきました。ストレスを感じると過食する傾向があり、肥満も加速し、しまいには糖尿病、肝脂肪になりました。
40過ぎて未婚で生活能力無くて実家暮らし、連絡とれる友人もおらず、病気持ちの肥満、コミュニケーションをとれず社会からつまはじきになった感じです。精神的に疲労してると感じています。結局休むと収入が無く、病院にも行けず、借金も返せずなので悪循環に陥っています。借金を返す大変さは経験済みです。
糖尿、PMS治療、心療内科に通うにもお金が必要です。
そこで最近よく思うのが「死」についてです。
「死」については恐怖はないですが、死ぬための過程での痛みへの恐怖はあります。
それさえなければ今すぐにでも私は喜んで死を迎えようとさえ思います。
死後なんて誰にも分からないから分からない恐怖は少しありますが、それも死んでしまえばそんな感情すら「無」だと思っています。
私は充分生きたと思います。
自ら命を絶つ事をダメだとは思いません。逃げだとか命を粗末にするな、とか思う人もいるでしょう、残された家族や友人はどうなる?って言う人がいるかもしれませんが、「死」を考えてる人に周りを気に掛けれる余裕なんて少なくとも私にはありません。
人はいずれ死にます。そのいつか来る死を自分の好きなタイミングで好きな場所で迎えたいって思うことはダメなことなのでしょうか?
私は病院のベッドや自分の部屋で死にたくないと思っています。
せめて今の苦痛の人生の中で最後ぐらい自分が好きな場所、海外の素晴らしい景色の中で死にたいと強く思うようになり、今そのために英語を勉強し、少しずつお金を貯めています。
そう考えて生きてると少しだけ楽になります。
都合のいい綺麗事言ってますが、結局は今の問題をもう解決する気力がない、こんな考えをくり返すのに疲れたってだけです。
毎日泣きながら眠るのはもう嫌です。
このような自己中の思考に共感出来る方はいるのでしょうか…

感想1

投稿ありがとうございます。まずあなたが幼少期から人と比較され、否定されてきたことに対して理不尽だと思いました。とくに親や親戚が子の容姿や体型などを無遠慮にからかったり否定したりする場面には私も何度も遭遇したことがあり(私自身も私の親からいろいろなことを言われました)、そういうことがまかり通ってしまう状況がこの世の中にはあるのだろうか…と改めて考えました。そもそも、それが子どもを苦しめてしまうこと自体があまり理解されない(大したことではないと思われてしまっている?)ということがあるのかもしれません。
20代半ばからの借金と返済、鬱、40歳をすぎてからの結婚詐欺と再びの借金、糖尿病、脂肪肝、これをみるだけでもあなたがたくさんの苦労を抱えてきたのだということがわかります。「社会からつまはじきになった感じ」という言葉にはあなたの苦しさの実感がこもっているように感じました。
あなたが休めること、回復するための治療を受けながら暮らせることはあなたの当然の権利であるはずですが、それが叶わない状況があるということで、そのことにこの社会の大きな問題を感じます。お金は人が使うことで人が豊かに暮らすためにあるべきだと思いますが、むしろお金のために苦しめられているようだと思います。それは資本主義というシステム自体の問題なのかもしれません。そういうものの皺寄せがあなたに押し付けられているように感じています。
その中であなたが死について考えているのは、苦しさをどうにかなくしたいという思いなのではないかと思いました。「最後ぐらい自分が好きな場所、海外の素晴らしい景色の中で死にたい」という思いは、死ということではありつつも、あなたの苦痛を一時優しくするような想像でもありそうだと思いました。私もしんどい時によく死にたいと思うのですが、「今の問題をもう解決する気力がない、こんな考えをくり返すのに疲れた」という感覚にはとても共感しました。それは「自己中の思考」でもないと思いました。あなたは実際疲れていて、困り果てているのだと思います。
あなたが抱えて困っていることをあなた一人の問題とするのではなく、一緒に考えて解決に近づけていくことは社会の役割なのではないでしょうか。電話相談やSNS相談などもありますのでよかったら利用してみてください。
私はお金のことに詳しくなくてその部分でなにも言えることがないのですが、少なくとも、あなたが苦しんでいて、その状況からどうにか楽になりたいと思っていることはあなたの持つ真っ当で当然の権利だと思います。あなたの心や体、そして状況が少しでも楽になることを強く願っています。

感想2

穏やかに過ごしたいという願いは自然な気持ちだと思って読みました。これまでのあなたの人生を垣間見ると、社会の一方的な価値観に煩わされたり、あなたの思いや願いを利用されて傷つくようなことが起こっていて、そこから逃れたい気持ちやもうたくさんだという気持ち、そしてこのような社会で生きていくことが苦痛だし、希望もないので、人生を終わらせたいと思うのも無理もないと思います。私が残念に思うのは、そう思わせているのはこの社会の在り方であって、あなたのせいではなく、そしてあなただけではなく、他にも同じような思いをしている人がたくさんいることです。
特に最初の主な内容である太っていることについては、何とも理不尽な話だと私は常々思っています。体型などの容姿についての価値観は、時代や国など文化によってずいぶんと異なることだと感じています。食べるのが好きで太っていたとしても、それが自分を必要以上に否定するような要因になってしまうことは合理性はなく、本人が不便さや病気などの課題を抱えるのなら、本人が考えればよいことであって、周囲が否定する理由には何もならないと思います。太っているという事実にはそれほどのデメリットがないのに、太っているということへの周囲の価値観が太っている人を不当に生きづらくし、自己否定を蓄積させるような世の中だと考えると、それ以外にも似たようなことがたくさんあることに気づきます。特に身体的な特徴や持って生まれた能力などで一方的に評価されるのは不合理で、どうしてこんなことになるのだろうかと考えています。ひょっとしたら、平気な顔をしていても、多くの人たちが不安を抱え、誰かを否定しないと自分を保てないような状況に私たちはいるのではないかとも考えています。
最後にどのように死にたいかということが書いてありました。人生の最後の迎え方であっても、あなたが明確な希望を描いていることに興味を持ちました。そして、そのためにお金を貯めようとしていることにも希望を感じています。本当はやりたいことや自分の好きなことがあるのではないかと感じました。経験談を読み、あなたの中に隠れている希望がもっと自由に表現できるような社会のあり方について考えています。よかったら、またあなたの気持ちを伝えに死にトリに来てもらえたらと思います。

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