経験談

生きづらさを感じる人が語る 経験談

経験談はそれぞれの投稿者の個人的な価値観や感じ方をそのまま掲載しています。一部、リアリティのある描写や強い価値観が含まれるため、読む人にとっては負担等を感じる場合もあります。各自の判断で閲覧してもらえるようにお願いします。

私は優等生だったはずなのに

私は生まれつき学力が高くて姉は小学校高学年ごろからうつになったから優等生でいることを余儀なくされた。というか、親に姉のためにたくさん時間を使ってほしくて自分から手のかからない子になるべく奮闘していた。だけど、親は私しか見なかった。それでも優等生をやめるなんて私に許されるはずもなくて、自分ひとりで姉を助けようとするうちに共倒れしても、誰にも言えなかった。軽くいじめられたこともあったけど、そんなんじゃ傷つかないくらいには私の心は壊れてた。そんな中でも、推しだけは私の味方だった。味方だったのに、炎上して結局は私を傷つけて去っていった。推しを失った私は殺されることも助けられることもない闇の中で液晶の光で目を痛めてばかりで、救いとなりうるもの全てから目を背けていた。
ある日たったひとつの操作ミスで出会った新しい推しは、最初は純粋な救いとなってくれたけど、だんだんプレッシャーになってきて結局毒になった。優等生の私だけを肯定しているように見えて。自由でいいと言いながら優等生という括りの中でという条件を暗に付け足しているようで。どこにも救いがなくて泣きたくてたまらなかったけど、気づいたときには涙が出ない体になっていた。これ以上光を求め続けるのはまずいと心が判断したのか、明るい優等生を演じながら絶望して生きたほうが身のためだと思うようになった。善意に傷ついても表に出しはしない。素性はネットにしか明かさない。そうすることでしか自分を守れなかった。
中学に上がって順位が示されるようになってから、私はせっかく木漏れ日を浴びられる程度に回復していたのにまた闇のどん底に突き落とされた。最初のテストで学年一位になり、一学期末を風邪で休んだところまではよかった。が、一学期の通知表を返されたとき。教室の奥で歓声が聞こえた。最初のテストで二位だった奴がオール5だったらしい。オール5なんて、優等生の象徴じゃないか。私は美術の評定の欄に1が印字され、Cが五つ以上入った通知表を机に叩きつけ、クラスメイトに「何も訊かないで」と言って必死に涙をこらえた。
思ったより少ない課題を7月中に片付け、父親に大事にしていたものを勝手に捨てられた夏休み。休むことなど、この家に身を寄せている限り不可能だった。二学期になり、また毎日長い階段を急いで上らなければならない生活に戻ると、すぐに教育実習生がうちのクラスに来た。休み明けの学力テストで四位に落ちて絶望したときに慰めてくれて余計に悲しくなったことと、学校祭のことは鮮明に覚えている。学校祭に向けて彼女とともに装飾と合唱練習に励み、学校祭の当日私は彼女のために書きなれない世界観の小説を書いて渡した。そして彼女の実習が終わる日、学校祭で最優秀賞を取った合唱を彼女にもう一度届けた。どういうわけか、涙が溢れたのは翌日の深夜だった。宿題のワークを開くとちょうど彼女に教わった範囲が出てきて、急に寂しくなった。それでも、私は優等生を取り返すために勉強した。つい最近中間テストの結果が返ってきたが、一位には戻れなかった。一位は一学期の成績がオール5だったあいつだ。あの時のように歓声が上がった瞬間、私のやる気と優等生に戻らなくちゃという焦りはあいつに対する嫉妬に変わった。学校ではいつもクラスのうるさい奴らと遊びほうけているくせに、私を軽々と超えやがって。なんで、なんで血のにじむ努力をした私より頼られて、先生にも好かれてくれちゃってんだよ。嫉妬の獣となった私にさらにぶつけられたのは、二位は私以外にもいる事実だった。私には、もう優等生を名乗る自信はない。だけど、ふとした時に私は優等生だと豪語してしまう。このジレンマの対処法は、私にはわからない。最近、私は自分に味覚があるのかすらよくわからなくなってきた。勉強してわかることが増えるにつれて、基本的なことがわからなくなっていく。本当に、私は優等生を名乗っていいのか。もう何もわかりたくない。生まれる家庭を間違えなかったとしてもどうせ私は別のことで悩んで、家庭によってはこの年になる前に命を絶っていただろうし、むやみに親に怒ることもできない。どこにも逃げ場がない。今も推しのおかげで死んでないけど、救済してくれないんならいっそ早く殺してほしい。

感想1

幼少期の頃からお姉さん含め家族のことを優先的に考えざるを得ない環境で、「優等生」で居続けることが投稿者さんの役割であることを自然と植え付けられていたり、「優等生」である自分にどこか違和感を抱きつつも、それを一つの自分の価値として思ってしまう(自分を保つためには必要なことなのかなと私は感じていますが・・・)気持ちとで葛藤しているようなそんなことを想像しながら読んでいました。そのような中で、孤独や周囲への嫉妬、絶望感なども抱きながら一人耐え抜いていることが伝わってきました。
私はどちらかというと学校の成績がすべてではないと思っているのですが、学生時代は成績という形で人と差がつくこと、比べられることに焦りや自分の評価を気にしていたなと思い返し、投稿者さんの文章を読んで改めて日本の教育の在り方に疑問を抱いてしまいました。もちろん学力も大切なことだとも思いますがそれがかえって自分を苦しめることになってしまうのは勿体ないなとも私は感じてしまいました。投稿者さんがこれまでたくさん努力してきたことは確かなことだと思いますし、あまり自分で自分を厳しく評価しなくてもいいのではないかなと私は感じています。教科学習に重きを置くよりも、教育実習生との出会いで感じたことや学校祭での出来事のほうがよっぽど投稿者さんにとっては価値のあるものだと私は感じましたし、そういった経験からでしか得られない学びもあると思いました。
「優等生」という肩書きから自分を解放させることは至難なことかもしれませんが、投稿者さんが優等生かそうではないかなど気にせずに楽しく安心して過ごせる日が来ることを勝手ではあるのですが願っています。もし、また何か気持ちや考えを外に出したくなった時はいつでも死にトリを活用してほしいなと思っています。経験談の投稿ありがとうございました。

感想2

読んでいて、「優等生である」ことがあなたを支えるものだったのだと思いました。それは最初からそうだったわけではないのだと思いますが、家庭で頑張らなければいけなかったり、推しを失ったりしている中で、「優等生」でいることが残された支えだったのかなと思いました。でもそれが支えというだけでなくプレッシャーにもなる中で「優等生」というなにかに拘らざるを得なかったのかもしれないと想像しています。
そういうふうに読んでいて、優等生というのはあなたにとってどんなイメージのものなのだろう?と気になりました。「オール5なんて、優等生の象徴じゃないか。」という文章もありましたが、「優等生」ということ自体が、なにかの象徴みたいなものなのかな、と想像しました。よかったらあなたの考えを聞いてみたいです。

私も学生時代、学校での成績に固執していたことがあったのですが(当時はすごく辛かったです)、いまは個人的には学校の成績はあまり重要ではない気がしています。世の中にあまたある力のうち、かなり限定されたものでしかないということが1つの理由ですし、比べることにもあまり意味がない、とも思うからです。
日本の学校は順位を出したりして人を比べるやり方をすることが多いですが、それは学校教育のやり方の一つにすぎず、海外ではかなり違うやり方の教育をする国もあるようです。
学力はもちろん大切な、使い道の多い能力の一つだと思いますが、それは点数で評価されることがゴールというよりも、むしろ例えばあなたが教育実習生に渡した小説を書いたといとか、これからあなたが理解したいと感じることを理解するときに役に立つ、ということなのではないかと思います。
だけど順位を出すような場所では、それを意識してしまうのも無理はないなぁとも思います。それはあなたの問題ではなく、学校教育のあり方の問題だと私は思っています。
また、一つ伝えてみたいと思ったのは、あなたが優等生であっても、優等生でなくても大丈夫だし、ダメじゃないということです。あなたは元々の力があるだけでなく、努力もしてきた人なのだと思います。私は努力をするときもあれば、しないときもあっていいと思います。でも、少なくともあなたの努力やあなたの持つ感性が、あなたを苦しめるものにではなく、あなたを楽しませたり、安心させたり、あなたの(学校と家庭以外で、かつ安全な)世界を広げるものに使えるといいなぁと思います。そういう方向性の一つには、もしかしたらあなたにとっては「推し」があるのかも、ともなんとなく思ったりもしました(推しを好きになって楽しんだり、応援したりするやり方も、お金をかける以外にも色々なものがあると思います)。投稿ありがとうございました。

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