経験談はそれぞれの投稿者の個人的な価値観や感じ方をそのまま掲載しています。一部、リアリティのある描写や強い価値観が含まれるため、読む人にとっては負担等を感じる場合もあります。各自の判断で閲覧してもらえるようにお願いします。
これを読んだ人に聞きたいことがあります。
自分を愛すには、どうすればいいですか?
私には好きな人がいました。今でも割と好きですが、もう前のような感情はありません。
その人は数年前に自殺をしようとしたことが何度もありました。彼が入院している際、私は彼が「死にたい」と訴えるのに対して、「生きてほしい」と言ってしまいました。心を病んだ人にその言葉は酷だと分かっていて、気持ちを抑えることができませんでした。
それから暫く経って彼が退院したとき、彼は「まだ死にたい」と言っていました。私はそのとき初めて絶望しました。
彼が「死にたい」と言ったことにではなく、私が彼の生きる理由になり得なかったことが辛かったのです。
きっと当時のことを何度繰り返しても、私一人ではどうにもならない問題だったと分かっています。それが分かっていて、自分では駄目なんだと勝手に傷ついてしまいました。
それから私は自分を憎み、自分ではない誰かになろうとしてきました。正直、しんどいです。頑張るのはつらく、死にたくなる。でも弱音を吐く度に、数年前の記憶がよぎって私の背中を押してきました。
言葉一つで、簡単に人を救えるような人になりたいんです。そのくらい、絶対的で圧倒的な光になりたい。その願いが叶うまで歩みを止めることは許されないと、もう一人の自分が言っています。
でも最近、このままではそれを叶えることができないと感じてきています。なぜなら、誰かを大切にするには自分のことを大切にする必要があり、私は根っこの部分で自分を愛せないからです。
皮を被って、自分ではない魅力的な誰かに成り代わって、そういうときの自分は誇れるのですが、私自身を肯定したことはありませんでした。寧ろ殺したいとさえ思うくらい、私は自分のことが憎いです。そのことが私の足を引っ張っていることに気づいたのです。
私は悲しい記憶に浸って自己満足で終わりたくありません。しかし、自分を愛す方法もわかりません。
だから、これを読んでくれた人に質問します。
どうすれば、自分を愛せますか?
正解でなくても構いません。貴方の意見を聞かせてください。どうかお願いします。
感想1
ご投稿ありがとうございます。「死にたい」と語った人との関わりから、「どうすれば自分を愛せるのか」という投稿者さんの切実な問いが出てきた経緯を、とても興味深く思いました。私は過去に重い希死念慮に囚われた経験や、自殺未遂による入院の経験もあります。今でも自分を愛することに苦労しているので、「正解」には至っていないのですが、内容に共感しましたので、考えたことを書かせていただきます。
彼の「まだ死にたい」という言葉も、それを聞いてあなたが感じた絶望も、どちらも分かるなと思いながら読みました。まず、「死にたい」と言う身近な人に対して「生きてほしい」と伝えるのは自然であり、人間関係さえできていれば問題ないと思います。個人的には、変にマニュアル通りの対応をされるより、素直な言葉を伝えてもらう方が嬉しいです。ただし、あなたも認識されているとおり、その言葉によって心理的な負のループから抜け出せるかどうかは、また別の問題です。友人や恋人どころか、守るべき家族や子供がいたとしても、希死念慮に抗うことは困難だと思います。休息しながら自分の苦しみを見つめ、場合によっては半生をかけて築いた価値観を覆すような、息の長い取り組みが必要になります。
要点は、それを行うのはあくまでも本人だということです。私自身そうでしたが、誰かの存在や、誰かの言葉によって人が変わることはあります。でもそれは、本人の環境や準備が整っているときです。自分以外の自分になることはできませんが、それと同じように、外側からの絶対的な働きかけによって救われるということも、少なくとも人間の力では、不可能なのではないかと考えます。
私は、おそらく投稿者さんの苦しみは、不可能なことを引き受けていた点にあったのだろうと思います。そして今は、そのことの無理に気づき始めておられるのではないのでしょうか。先ほど申し上げたとおり、私は「こうすれば自分を愛せる」と断言できる、誰にでも当てはまる答えをもっていないのですが、すでにここに書いておられる思考の道筋のなかに、投稿者さんが自分を大切にするヒントが散りばめられている気がします。とくに、自分への憎しみや怒りがどこから来ているのか、そして「歩みを止めることは許されない」と言うもう一人の自分は、なぜそんなことを言うのか、この二つは、じっくり考える価値があると思いました。
あなたの文章は私にとって魅力的で、絶望を乗り越えようとする真摯な姿勢と、突き詰めて物事を考える勇気や、人としての純粋さが伝わってきました。(余談ですが、読みながら石川智晶というシンガーソングライターの「First Pain」という曲を思い出しました。)また考えたことがあれば、伝えてくださると嬉しいです。
感想1
ご投稿ありがとうございます。「死にたい」と語った人との関わりから、「どうすれば自分を愛せるのか」という投稿者さんの切実な問いが出てきた経緯を、とても興味深く思いました。私は過去に重い希死念慮に囚われた経験や、自殺未遂による入院の経験もあります。今でも自分を愛することに苦労しているので、「正解」には至っていないのですが、内容に共感しましたので、考えたことを書かせていただきます。
彼の「まだ死にたい」という言葉も、それを聞いてあなたが感じた絶望も、どちらも分かるなと思いながら読みました。まず、「死にたい」と言う身近な人に対して「生きてほしい」と伝えるのは自然であり、人間関係さえできていれば問題ないと思います。個人的には、変にマニュアル通りの対応をされるより、素直な言葉を伝えてもらう方が嬉しいです。ただし、あなたも認識されているとおり、その言葉によって心理的な負のループから抜け出せるかどうかは、また別の問題です。友人や恋人どころか、守るべき家族や子供がいたとしても、希死念慮に抗うことは困難だと思います。休息しながら自分の苦しみを見つめ、場合によっては半生をかけて築いた価値観を覆すような、息の長い取り組みが必要になります。
要点は、それを行うのはあくまでも本人だということです。私自身そうでしたが、誰かの存在や、誰かの言葉によって人が変わることはあります。でもそれは、本人の環境や準備が整っているときです。自分以外の自分になることはできませんが、それと同じように、外側からの絶対的な働きかけによって救われるということも、少なくとも人間の力では、不可能なのではないかと考えます。
私は、おそらく投稿者さんの苦しみは、不可能なことを引き受けていた点にあったのだろうと思います。そして今は、そのことの無理に気づき始めておられるのではないのでしょうか。先ほど申し上げたとおり、私は「こうすれば自分を愛せる」と断言できる、誰にでも当てはまる答えをもっていないのですが、すでにここに書いておられる思考の道筋のなかに、投稿者さんが自分を大切にするヒントが散りばめられている気がします。とくに、自分への憎しみや怒りがどこから来ているのか、そして「歩みを止めることは許されない」と言うもう一人の自分は、なぜそんなことを言うのか、この二つは、じっくり考える価値があると思いました。
あなたの文章は私にとって魅力的で、絶望を乗り越えようとする真摯な姿勢と、突き詰めて物事を考える勇気や、人としての純粋さが伝わってきました。(余談ですが、読みながら石川智晶というシンガーソングライターの「First Pain」という曲を思い出しました。)また考えたことがあれば、伝えてくださると嬉しいです。