経験談はそれぞれの投稿者の個人的な価値観や感じ方をそのまま掲載しています。一部、リアリティのある描写や強い価値観が含まれるため、読む人にとっては負担等を感じる場合もあります。各自の判断で閲覧してもらえるようにお願いします。
努力だけじゃどうにもならない
もう時期成人しようとしているがもう何をやってもどうにもならないのではないか、そんな気がしている。というのも、今まで自分なりに努力しても変わった試しが無いのだ。(分かりやすく伝えるため、努力という言葉を使わせて頂きます。)
ただそういう事を言うと、やり方が間違っているだの努力が足りないだのと言う人も出てくるだろうが、少なくともあの時の俺は何もかもが命懸けだった。学校でも、家でも、安心出来る場所なんて無かった。家に居れば夫婦喧嘩、虐待もされる。かといって学校に居れば嫌な奴に目をつけられるし、キモイだのなんだので虐められる。ただ日常生活を送っているだけでありえないほどのストレスが掛かる。そんな状況で俺は生きてきた。その期間はたった15年だったけれど、俺という人間を殺すには十分すぎる時間だった。
数年前に両親の離婚という形で住んでいた場所ともおさらばしてようやくそんな状況から抜け出せたが、長時間にわたる高ストレスにより心身を壊してしまい一時期は布団から起き上がる事さえ出来ない廃人状態になってしまった。今はようやく普段の生活を送れつつあるが未だに本調子では無く、ストレスを感じると冷や汗が出たり眠くなったり、酷い時は腹痛によりトイレにこもりっぱなしになる為大学へ行ったり就職する事は難しいのではないかと感じている。精神も病んだが、少しづつ前向きな考えになってきていると思っている。
自分は心身を壊す事自体が避けられないものであったと考えており、今までの自分の考え方や価値観は親や教師など周囲の環境によるものだったと今になって思うけれども、当然その時の自分自身がそれに気づける訳が無いので変えようが無く、仕方が無かったことだと割り切っている。こんな事になってしまったが、ちゃんと身体を治して社会に出たいとも思っている。
だけど、自分がそうして普段の生活を送ろうとしている間にも周りの人達は社会で生きる上で有利な資格や技術を習得していると思うと生きる希望が見いだせなくなる。命懸けで生きて足掻き続けてようやく人並みに生きていけると思った矢先に、今度は今まで培ってきたもので勝負しろと言われる。ましてや日本はステータス重視の側面がある(と思っている)ので誰も自分にどういう事があったかなど気になる訳が無いし、技術も資格もない今の自分では負けるのは分かりきっている。じゃあやれよという話になるけど、身体を治したり勉強したりしようとすると時間が圧倒的に足りなくなり、どうすればいいのか、何が正解なのか分からなくなるので余計に絶望しかけてしまう。自分にどれだけやろうという意思があっても、それを達成する為の環境などの外的要因が無いためか何もかも上手くいかない。更にその環境は自分ではどうする事も出来ない。だから余計に辛くなるし、無力感に苛まれる。
以前は努力すれば何とでもなると思ってましたけど、やっぱり限界というのはどこにあるかは分からないけど確実に存在するんでしょうね。限界を超えて無理したせいで身体を壊す事になったのについ最近まで気付かなかったっていうのは皮肉なものですね。
ここまで読んでくださりありがとうございます。気持ちの整理も兼ねていますが、もうひとつ目的があって書かせていただきました。
努力だけじゃどうにもならないとか書いておいてこんな事を聞くのもおかしいですが、未だに前向きなりきれないので教えてください。
自分はまだ頑張りが足りなかったんでしょうかね。
感想2
経験談の投稿をありがとうございます。
読ませていただき、あなたが(「たった15年」と言われていますが…)長期間にわたって過酷な環境の中を生き延びてきたことを感じました。「生き延びる」と書いているのは、あなたの言う「努力」は正確には「サバイブ」だと私には感じられたためです。本か何かで「被害者ではなくてサバイバー」と称するといった話を目にしたことがあるのですが、あなたの投稿を読んでふとその話が思い出され、あなたが生き延びてきたことに対して敬意を表したいと思っている自分がいます。
さて、あなたの投稿の中で、深く唸らされ、考えさせられたところが(特に)二点ありましたので、その点について書かせていただこうと思います。
まず一点目ですが、それはあなたが「今までの自分の考え方や価値観は親や教師など周囲の環境によるものだったと今になって思う」と書いているところでした。あなたのような経験をしている人の中には、その経験を「自分のせい」と捉える人が多いイメージが私にはあります。過酷な経験をしているうちは、それこそ「生き延びる」ことに必死になっているため、外に原因があることに気づけないのは自然なことだと思います。その後もそのように捉え続けて苦しむことがあるのもまた自然なことのように思うのですが、あなたは客観的に「周囲や環境によるもの」ということを理解されています。率直にすごいと思ったのと、どのようにしてその理解にたどり着いたのかをぜひ聞いてみたく思いました。あなたのその経験は「自分のせい」と思って苦しんでいる人のみならず、傷を負った人を支える誰かにとっても大切な気づきとなるのではないかと考えます。
二点目ですが、それは「周りの人たち」の優位性について言及しているところでした。私はこの社会は自己責任論が横行してしまっているように感じています。被害を受けた側が自分の力で立ち上がることを強いているように見え、どう考えてもそれはおかしいと、そのことに強い憤りを抱いています。そんな理不尽な社会を変えられないでいることに毎日無力感も抱かされています。それでも抵抗を示し、少しずつでも変えていきたい。そのために何ができるかはわからないままなのですが、あなたが挙げてくれたような声をきちんと受け取ることからしか始まらないのではないだろうかと考えており、その気持ちを新たにさせられました。
最後に「頑張りが足りていないですか?」と書いていることについてですが、あなたの抱えている「どうにもならない」苦しさや「限界」は、あなたの「頑張り」の問題ではきっとないと思います。あなたはいわゆるストイックな方なのかなと感じていますが、どんな屈強な人でも傷の影響は受けるでしょう。そこに社会の問題が覆いかぶさっている中でひとりで向き合っているがゆえに「限界」を感じているのではないかと私には映りました。もしそうであれば、一緒に向き合って、考えることができないだろうかと思います。サバイバー人権宣言というサイトがあり、もしよければそちらをご覧になってみてほしいと思ったので紹介させていただいて(→https://ikidulabo.lifelink.or.jp/build/)私の返信は終えようと思います。今後もよろしければ死にトリに参加していただければうれしいです。改めまして、投稿をありがとうございました。
感想1
最後に問いかけがありましたが、一人の人の経験というよりも、経験を通じて今の社会の課題を数多く問いかけているように感じました。最初に問いに答えてから感想を書こうと思いますが、あなたの努力が足りなかったことはないと私は思います。というより、そもそも努力はそんなに大切なのか?という疑問と同時に、私は努力は誰もが同じ条件でできるものではなく、努力のためにはその土台が必要だと思っています。あなたが書いてくれたように幼少期から安心安全が保障されず、まさに「命懸け」で生きてきた人と、安心安全に守られ、たくさん学ぶ機会が保障されてきた人では努力のための土台はまったく違いますし、努力の位置づけや中身が違うと思います。
あなたはすでにできる限りの努力をしてきたため、これ以上頑張ることはできない状況なのだろうと思うのです。心身の不調はそのことを教えてくれるSOSだと思いました。そのことは、あなた自身も無理もない当然のことだということは分かっているように感じました。しかし、一方ではそうはいっても、頑張らなければ生活もできないし、周囲に置いて行かれる現実があるため、もっともっと努力をしてみんなに追い付かなければならない焦りや不安があり、これ以上努力できないし、努力だけじゃどうにもないという悲鳴と、それでも努力し続けなければならないというプレッシャーの板挟みになって、途方に暮れている姿を想像しています。
でも、あなたは努力が足りないわけではありませんし、途方に暮れても無力ではないと思います。なぜなら、こうして私たちに経験談を書いて送ってくれ、問いかけてくれたからです。自分の感じることや体験したことから気づいたことを人に伝える、問いかけることは私たちが支え合って暮らしていくうえでもっとも大切なプロセスの一つだと思っています。
タイトルにあるような「努力だけじゃどうにもならない」というのはその通りだと思います。私たちは個人の努力だけで人生や生活を決めさせるような社会にしてはいけないと思います。それ以前にどの家庭に生まれようが、当たり前の権利の保障がされて努力のための土台が作られるような社会にしていく必要があると思います。そのことをあなたの経験談は改めて教えてくれました。しかし、残念ながらこの大切なことは当たり前に土台があった人には気づきにくく、無意識に悪意なくスルーをしてしまう実態があります。大事なことを身をもって理解しているあなたはそれを実感し、行動できる大切な存在だと思います。死にトリもそのことを大切にしたいと思って活動をしています。とはいっても、今すぐに解決する方法があるわけではないのですが、少なくともこうして声を届けてくれる人たちとつながることはできると思っていますので、これからも死にトリに来てもらえたら嬉しいです。