たとえば、悪戯のバレた子供が「ごめんなさい」と言ってきた際に、大人 (親や先生等) は直ちに許しを与えず、目の前の子供が心から反省しているのかを訝しんでいるとします。
その時大人は、子供が大した反省もなく咄嗟に謝ったのではないか、あるいは、謝れば何でも許されるなどと勘違いしてないかと懸念しています。
そこで、「何故悪かったと思う?」といった質問を投げかけることにより、具体的な反省の弁を子供に述べさせてみるといった状況は、現実にもよく見られることと思います。
ただし、この状況下において、子供は必ずしも自分の考え (反省の弁) を自由に述べさせてもらえるとは限りません。
大人によっては、たとえ表面上は話を聞く姿勢を見せていても、その胸中に、反省の弁の厳密な “模範解答” を秘めている場合があるからです。
そのような大人が相手である場合、子供には、自分の考えを素直に表現する余地は残されていません。大人の顔色を伺いながら “模範解答” を推測し、見事言い当てることにより、「反省しているな」と納得してもらう必要があります。このような場合において、子供はいわば ”言い当てゲーム” に突然・強制参加させられていると言い換えられるかもしれません。
ところで、私自身は幼い頃、悪戯はほとんどしませんでした。しかし、当然、故意か否かにかかわらず、子供のやることの範疇で、間違い・不注意等をおかすことは数えきれないほどありました。
私が両親に向かって「ごめんなさい」と言う時、両親は私によく「何故悪かったと思うか」と尋ね、反省の弁を述べさせました。ただし、その時の状況は、実際には常に上述の “言い当てゲーム” だったのです。
また、実は私の両親は精神的な病を抱えており、特に私の子供時代、かなり情緒不安定でした。両親の課す “言い当てゲーム” を クリアできなければ、果たしてどのようなペナルティが待っているかの予想がつかず、幼い私はいつもハラハラしていました。
以下に、いずれも私が小学生の頃の “言い当てゲーム” エピソードを記します。
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多くの場合、私がうっかり母の基準と違う考えを述べたり、行動をしたりしてしまうことが “言い当てゲーム” のはじまりでした。特に低学年の頃など、クリア率はほぼ0%でした。「違う!」と激昂されて以降は問答無用です。頭を叩かれたり、束ねた髪を上下に引っ張られてからさらに横方向へ引き摺り回されたりもして、痛かったです。
一方で、ある日、私が珍しく父の “模範解答” を言い当てたこともありました。その日、両親は私の “不注意” を叱ったのですが、実はその “不注意” とはそもそも冤罪だったのです。したがって、両親が何に対して怒っているのかがサッパリわからないにもかかわらず、私は「叱られて反省している子供」を “演じる” ことにより、状況を切り抜ける必要に迫られていました。当時は小学校も高学年で、”言い当てゲーム” の経験値も溜まっていましたから、私は状況や両親の顔色などから計算し、即興で、もっともらしい “反省の弁” を述べました。父の表情の変化が、普段の “ゲームオーバー” の時とは明らかに異なるのを見て、私は “クリア” を確信しました。安堵も束の間、父は唐突に台所に赴くと包丁を取り出してきて、「じゃあこれで死ね」と私の目の前に差し出してきました。認めた罪を死で償えということでしょうか。私は泣き叫んで命乞いをしました。
この時まで私は、いつか両親の期待に沿う子供になり、“言い当てゲーム” も安定的にクリアできるようになったら、命の危険を感じさせるペナルティを与えられることはなくなると信じていました。
意味のないことを頑張ってきた自分自身が、ひたすら滑稽で、情けなく、惨めな存在に感じられました。
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今現在の私は、とうに成人して一人で暮らしています。経歴や暮らしぶりだけを見た人から、人生順風満帆で羨ましいと言われることすらあります。
実際は、他人から何気なく「これどう思う?」と自分の意見を求められる度に、内心ビクビクしてしまう小心者です。
しかし、私はそんな素振りを露ほども見せず、いつも堂々と答えてみせます。
そして、答え終えると束の間の安堵に浸りつつ、このような日々が今後も続いていくことに絶望します。
いっそ、あの時命乞いをしなければ良かったのかもしれない。
今からでもいい、突然通り魔とかがやってきて、標的を私にしてくれないだろうか、などと思うこともあります。
仕事をしながら、カウンセリング、心療内科、精神科には何度かお世話になりましたが、根本的な「死にたい」という気持ちに効く治療法は見つかりませんでした。
こんな私の体験談がどなたかの役に立つかはわかりませんが、送信ボタンを押してみます。
感想1
親子間だけでなくカップルや夫婦の間でも「何に対して謝っているの?」という質問は頻出だなあと思って読んでいました。
その質問の意図は「すべきでないことはどんなことだったのか」「自分の気持ちは伝わっているか?」という認識を確認し、再発防止に努めるため(事務的な言い方ですがか)だと思っていました。
それが対等な関係でいない間でなされると、「”私を”納得させてみろ(理にかなっていようと私が気に食わなければ却下)」と、独裁的な意味を持つことになると、改めて考える機会になりました。
そして、納得させることがゴールなのでなくて、その先に死を持って償うことを強要される家庭を生き抜き、大人になった今も日常生活で飛び交う数々の質問に、ジャッジされているような感覚を今も抱き続けながら生きていくことの心労は計り知れないと思いました。
他の誰かのためでなく、あなたのために、間違いも正解もないと安心してあなたの答えを言える場所があるといいな、もしなかったら、死にトリがそんな場所になれたら良いなと思いました。