普段学校で何気なく話していた友達とある日を堺に話しにくくなった。それが原因で不登校期間もあった。でも、不登校の時も休めた気分になれなかったし、むしろ同期たちを気にして休めなかった。学校の先生も信じれなくなり、辛かった。親にも相談できない環境の中、1人ストレスと疲労を溜め込み、学校へ復帰出来たものの、今でも友達と話すと友達の態度や質問攻めにされる場があると恐怖をおぼえる。迫られた時もそう。
私は「友達を信じれなくなった自分」にビックリし、同期、大人、年下全てにおいて恐怖になった。表情や気持ちも読み取るようになり、読み取ってしまったあと、後悔してしまう。
学校がもう少ししたら再開し、久しぶりに同期に会う。会うって考えるだけでも怖い
経験談はそれぞれの投稿者の個人的な価値観や感じ方をそのまま掲載しています。一部、リアリティのある描写や強い価値観が含まれるため、読む人にとっては負担等を感じる場合もあります。各自の判断で閲覧してもらえるようにお願いします。
友達を信じれなくなった
感想2
投稿をありがとうございます。
あなたが「友達を信じれなくなった」ことや「全てにおいて恐怖になった」こと、「表情や気持ちも読み取るようにな」ったのは、学校での人間関係においてあなたがなんらかの傷つきを経験したためのように感じましたが、どうでしょうか。なんらかのきっかけ(「ある日を境に」の「ある日」に起こった出来事といったイメージ)があって傷ついたのかもしれませんし、溜め込み続けたストレスが抱えきれなくなったということかもしれず、そのあたりは私にはわかりませんが、いずれにせよあなたはダメージを負っているのかなと感じました。「休めた気分」になれないのはその通りだと思いつつ、休息が今のあなたには必要なのかもしれないと思うのと、もし「学校へ復帰」することこそがいいことだとあなたやあなたの周りの人たちが考えているのであれば、そんなことはなく、それはそう思わされているに過ぎないとお伝えしたいです。子どもには「休む」権利があり、そして様々な形で「学ぶ」(教育を受ける)権利があって、学校に通うことが正解というわけではありません。あなたの「権利」(人権)が守られてほしいと切に願います(それを身近な大人が守ってほしい!と叫びたくなっています…)。
感想1
学校での友達関係って、大人になってからの友達関係とはまた違うなぁと大人になった今、そう思っています。大人は家や仕事、そして学生時代の友達、大人になってからの友達など、自分が所属しているものが色々あるし、自分で選ぶこともできる。けれど、小中学校なんかは自分で選べないし、子どもの時って家と学校が自分の世界の全てですよね。だからこそそこで何かが起きてしまうと、世界が終わった…それくらい思ってしまうんじゃないかって思います。信じられなくなった自分への驚きは、本当は信じたい気持ちがあるからなのかな?と想像しました。私は「人を信じることと同じくらい、疑う気持ちも大事だ」と教えてもらったことがあります。だから、今は信じられない(≒疑う)気持ちが100かもしれませんが、それを0にする必要はないのかもしれません。経験談の投稿も怖かったでしょうか?ここならまだ怖くないかも、そう思えるところで少しずつでもあなたの恐怖心が取り除いていけたらいいなぁって思いました。経験談の投稿ありがとうございます。