良い子でしかいられない。小さい頃から親に対しても、学校でも良い子を演じてきた。小さい頃はそれで褒められるのが嬉しかったし、こうすれば褒められるんだってことがわかってますます良い子を演じた。大人には自分の良いところだけを見せていた。小学校でも中学校でも先生には頼りにされ、良い子でいることを望まれているなと感じていた。父は厳しく、父の理想の子どもでなければと常々感じていた。母は過保護で心配性、母に心配をかけないようにしなければと思っていた。いや、今も思っている。
これまで良いところだけ見せてきた大人たちに駄目なところを見せたら途端に見捨てられてしまうんじゃないかと怖くなり、元気で明るいしっかりした子どもでしかいられなくなった。もはや良い子でいるしか私の生きる道はなくなった。
でも、誰にだって駄目なところや弱みはある。しかし私にはそんな自分を見せられる人はいなかった。そして自分自身も自分の駄目なところを受け入れることができなくなっていた。良い子でいると、この子は大丈夫だろうと思われる。心配されない。そして、こちらから相談なんてもちろんできない。これまで築いてきた良い子の幻影が崩れるから。しだいに追い詰められていった。この頃から死を考えはじめた。自分の弱みを他人に見せることと死ぬことは天秤にかけられることだった。
しかしそんな私にも救ってくれる人が現れた。高校の保健室の先生だった。「大丈夫?」と聞いてくれ、そこから先生に相談ができるようになった。しかし死にたさは消えてくれなかったし、むしろ強くなっていくばかりだった。誰にも必要とされてない自分なんて死んでしまえばいいんだと思っていた。
先生から病院に行くように強く勧められ病院を受診した。はじめについた診断は適応障害。その後リスカがやめられなくなり1度目の閉鎖病棟への入院。しかしここが、とっても居心地が良かったのである。まず親はいない。そして病棟では自分の素でいられた。看護師さんも担当医も優しく、心から信頼できる人に出会えた。しかし回復の途上で入院のリミットがきてしまいやむなく退院した。だがその5日後に家で自殺を試み、その後再入院。2回目の入院のうちに診断が鬱病→双極性障害に変わった。そしてこの間再び未遂をし、3回目の入院が決まった。
と、ここまで経験談になってしまったのだが、ここからタイトルに戻ると、依然として私は親に良いところだけを見せたいと思っている。病気による気分の浮き沈み、主に沈むのが辛いのだが、その苦しさの上に、苦しいのにそれを見せまいと笑顔で振る舞う苦しさがのしかかる。でも、そうするしかなくて、でも辛くて、もう死んでしまいたいと何度思ったかなんて考えるだけで気が遠くなる。
そんなことなら強がるのをやめればいいじゃんと思うだろう。しかしそうはいかない。小さい頃からの積み重ねは恐ろしく、もうそれしかできなくなっているのだ。そしてもう一つ良くないのが、強がるのをやめたら病気が治ってしまうんじゃないかと思うことだ。普通は治りたいと思うものじゃないの?と不思議に思ったそこのあなたが正しいと思う。私は病院を失うのが怖い。高校を卒業した今、頼れるのは病院しかない。自分の素を見せられて、弱さを見せるという甘えができるのは病院しかない。そして病気が治ったら病院には行けない。良い子じゃなくていい居場所が見つかっていない中で病院を失うなんて考えられない。だから私は引き続き良い子でいるしかなくて、それに苦しんで死にたくなって本気で死のうか考えながら生きるしかないと思っている。
感想1
とても切実で本当の気持ちを書き出した様子が伝わってきました。親の前では良い子でしかいられないこと、病院でようやく自分らしい姿を出せたこと、そしてその病院とのつながっていたいからこそ、病気が治りたくないという気持ち、どれをとっても深く納得することばかりでした。きっと、これまで自分の気持ちをずっと見つめながら、周囲を観察し、求められることに応じてふるまいや自分の心の在り方を調整し続けてきたのだろうかと思いを巡らせています。おそらく、病院で素でいられる自分に気づいたときは、世界がひっくり返るような、視界が開けたような、新しい世界が訪れた感じだったのかな?と想像しています。きっかけはつらい経験で心の病気になったことではありますが、人生が変わるような出会いがあったかと思うと、人生の不思議を感じていました。私も若いころに足のケガで長く入院したときの出会いが人生の中で大きな出来事だったことを思い出し、価値観がぐらぐらと揺らいだ感覚が残っていて、それが今の自分のもとになったと思っています。
病気が治ってしまったら、自分が自分でいられる場所がなくなってしまうと不安に思うかもしれませんが、私は少し違う見方をしてみました。あなたが自分らしく、素でいられるようになったのは自分自身の土台のようなものができたのではないかと思ったのです。病院で信頼できる人たちに出会えたということは、これからも信頼できる人に出会えることを意味するのではないかと思いました。また、病気が治っても病院とつながっていることもできるし、信頼できる病院があるということはこれから心が落ち着かなくなったり、つらくなっても頼れる場所が確保されているということだと思います。そして、長い間、親を前にしたふるまいの癖はそんなにすぐに変わらなくても当然だと思うし、良い子でしかいられないのもあなたのそのままの姿だと私は思いました。
そして、死にたくて、不安な気持ちのうちは病院を頼ったらいいと思います。信頼している人たちはそれを受け入れてくれると思いました。そして、死にトリもあなたの素を表現してもいい場所でありたいと思います。必要な時にはいつでも来てください。待っています。