経験談

生きづらさを感じる人が語る 経験談

経験談はそれぞれの投稿者の個人的な価値観や感じ方をそのまま掲載しています。一部、リアリティのある描写や強い価値観が含まれるため、読む人にとっては負担等を感じる場合もあります。各自の判断で閲覧してもらえるようにお願いします。

この人生の何がダメなのか

お金に不自由があるわけではない裕福な過程に育ち、大学院も情報系で、就職先は引く手あまたであり、結果だけ見ると、いわば「勝ち組」に近い人生を歩んでいます。

しかし、最近になって自分の将来のことを考えると、フッと力が抜けて死にたいような感情に襲われることが増えました。

これまで、人生において「正解」とされるレールを一直線にすすんできていました。しかし、どうしても社会に入って40年間IT企業で働いていくことに本能が拒否反応を示してしまっているのです。

バイトでもプログラムを書かせてもらっているのですが、プログラミングは好きでも、新技術に適合していくことは全く面白いとおもえず、むしろ新技術を勉強することが大好きではないとやっていけない業界であることをひしひしと感じています。

そして、私は現在大学院3年目です。大学院での指導教員とどうしても合わず、何度も適応障害と診断されながら、大学院はなんとか卒業するために頑張っています。
頑張っていますが、多分、もう限界です。

大学院をでるためにがんばることは、なんとかギリギリできそうです。
しかし、その先に数十年、もしかすると一生。社会で同じように頑張り続けないといけないとおもうと、もうなんのために生きているのかがわかりません。

家族や友達に相談しても、「頑張るのが当たり前」「社会はつらいものだ」とか、ゴミを見るような目でみられてしまい、この心からの思いを誰にも相談することができません。

もう何も、頑張りたくありません。
週5日フルタイムで働けるとは、全く思えません。
月10万円だけ稼いで、一生部屋で寝ていたいです。ソレが本音です。

今は、山奥ニートというものがあり、私と同じように働きたくない若者が山奥で細々と生きています。

本当は、これまでの地位をすべて捨てて、そういうところで細々と暮らしたいです。

ITは、社会の発展や利便性には大きく寄与しています。ですが、ITでは衣食住を満たすことはできないのです。
プログラミングができたからといって、大災害が起きたときになんの役にも経ちません。

IT業界は、非常に給料がよく、30代で1000万を目指すこともできます。時代の波に乗った、非常に、合理的な選択だと思います。
だから、ここで急にすべてを投げ出して、山奥にこもるのは、これまでなんのために何をやってきたのかがわからなくなってしまう行為です。

将来のことを考えると、間違いなくここで耐えて、大企業に入り、ITの知識を蓄え、転職し、結婚し、子供を作ることが正解です。一瞬の気の迷いで訳の分からないことをやってしまうのは、まちがいなく不正解です。100人に聞くと100人が失敗だと言うと思います。

実際、山奥ニートはまだ40代になった人がいません。そうなると、生き方としてはまだまだ前例がないものとなります。もしかしたら、その生き方だと50代で社会福祉からも見捨てられ、体も動かなくなり、自死するしかなくなってしまうかもしれません。
サラリーマンは、そうではありません。前例が多くあり、非常に安定した選択肢です。若くして貯金をすることができ、老後の不安もありません。

ですが、そういった生き方を考えると、どうしても希死念慮が迫ってくるのです。
頑張って耐えよう!とは全くならないのです。

こんなことは、友達の誰にも相談することができません。

こんな考えは、時間が立つと消え去って受け入れられる様になっていくのでしょうか。

感想1

この先の自分の人生について迷い、葛藤する気持ちが読んでいてとても伝わってくるなと感じています。これまで「正解」とされるレールを一直線に歩んでこられたのは、自分の意思でもあるかもしれませんが、それは社会の“こうあるべき”といった風潮も強く影響しているのかもしれないなと考えていました。多くの人が正しいと言う進む道に対して、本能的に拒否反応が出ているということは少なからず投稿者さんは違和感を抱いているのだと思います。
しっくりこない感じは感覚として確かにあっても、これまで「正解」を進んできた投稿者さんにとっていわゆる「不正解」の道(私は人生において自分以外が正解か不正解を決めるのはおかしなことだと思っていますし、そもそも正解・不正解で人生の良し悪しを判断するのはどうなのだろうと感じていますが)に進むことはどことなく許されないという思いや怖さのほうが勝ってしまっているのではないかなと想像していました。けれど、ここに書いてくれた本音の部分や抱いている違和感(希死念慮も含め)を無下にはしてほしくないなと勝手ながら私は思っています。
人生の選択は、最初に決めたものから外れてはいけないなんてことはないと感じます。やってみて、やっぱり自分には合っていないなんてことも十分に考えられますしその逆も然りです。私も学生時代様々な資格を取得し、安定した業界への就職活動もしましたがそもそもその分野が得意ではなかったことと、将来的なことを考えた時に自分の中でしっくりこない感じがあって今は全く分野の違う仕事をしています。だからといって学んできたこと、得た知識が無意味なものかと問われると時々考えてしまうこともありますが、合わないと感じるところで頑張り続ける自分を想像すると今の選択で良かったという気持ちのほうが大きいです。だから投稿者さんも、ということではないのですがIT業界やそもそも社会に出てしっかり働くというスタイル自体に縛られる必要もないのではないかなと私は思いました。
これから先も自分の気持ちと現状との折り合いで葛藤すること、それによってしんどくなってしまうこともあると思います。身近な人に正直な気持ちを話すことができない時はいつでも死にトリを活用してもらえたらなと思っています。周囲の「正解」ではなく投稿者さんにとっての「正解」を見つけられることを願っています。経験談の投稿ありがとうございました。

感想2

とても興味深く読みました。そして、かなり共感もしました。IT関係のサラリーマンになって、社会から当然幸せの選択だと思われている道に強い違和感があり、山奥ニートに惹かれる気持ちは私の中ではまったく同感でした。100人中100人が失敗というとのことですが、実は公言はしないだけで、もう少し似たように思う人はいるように感じています。今の社会の中で虚像に近いような仕事やお金が優先され、地に足の着いた暮らしが軽視される傾向には危うさを感じています。誰もが必要とする衣食住がどんどん離れていくような感覚になります。
別の生き方として、山奥ニートの例がありましたが、私はそれだけではなく、いろいろな形があるのかなと思いました。サラリーマンか山奥ニートかという2択ではなく、生き方はもっといろいろあるはずだと思いましたが、世の中では一定の形が正解とされたり、不正解とされたり、多様な生き方や何を大切にするのかという選択肢や幅はとても狭いように感じています。その狭さが生きづらさや、死にたい気持ちの背景にはあるのではないかと思っていました。
自分が使えるスキルがある場合、サラリーマンになると労働力として提供することになり、自分の意思や自分という存在が薄らいだり、制約されることもありますし、今の競争社会や能力主義の世界ではスキルや能力が搾取されることもあります。だから、サラリーマンになって雇用される形ではなく、フリーで必要な分だけ仕事をする方法もあるだろうと思います。また、スキルの活用の仕方は他にもいろいろ方法はありそうに思いますし、実際にそうした生き方をしている人、したい人はいそうな気がしています。そして、あなた自身もプログラミングだけではなく、他にも自分らしく社会とコミットできる資源があるように感じました。
また、そもそも私は持っているスキルが社会に必要とされているからといって、それがその人の価値を決めるものではないとも思います。確かに努力によってスキルを身につける人はいて、その努力は努力で否定はしませんが、努力以上にいろいろなめぐり合わせや環境の違い、運などが絡み合ってスキルがあるのかなと思っています。だから、スキルや能力がある人だけが幸せになれるような社会はおかしいと思います。あなたが抱いている違和感は今の社会にとって大切な問題提起のように思いました。あなたが希死念慮に迫られない社会とはどんな社会なのか、一緒に考えられたらと思いました。

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