私の親は教員で私が通った同じ中学の教員。学校の机上には葬式用の花が置かれ、給食時には牛乳を頭からかけられ、トイレに入ると「ウンコしてる、臭い」と上からホースで水をまかれ、私が触った物は全て「こいつのバイ菌がついてる。汚ねえ」と言われ、目が合っただけで「こっち見てるキモイ」と言われる毎日が3年間続いた。親も周りの教員も把握していたが全く見て見ぬふり。それどころか「いじめを受ける側に責任があるのでは?」
と親からも他の教員からも言われた。親からはいじめを受けることを恥として家でも「学校で恥をかかせるな!」と罵倒される毎日。高校入学してからも、兄妹自身が嫌なことがあれば、「あんた性格暗いから」「あんたがいてもろくなことない」「何でお前勉強する資格あるの?」と八つ当たりの日が続く。その時に失った生きるための感覚は、通院しても、数十年経っても、戻らない。自信を失ってからは、大人になっても人との付き合い方が分からず、人間関係が上手くいかない。大人になってからの知り合いもこういう話をすると聞きたくないから皆離れていく。聞いて欲しくていきづらビットやいのちの電話に連絡をするが、相談者が多いから繋がらない。私は同じ思いをした人しか分からない痛みがあると思う。私と同じ体験をした人と話をしたい。知人に言っても、辛い思いしてない人は聞きたくないから私から去っていく。人は人に傷つけられる。一方で人を癒すのも人。だけど、そういう方達と連絡を取り合って慰めあえるような手段がない。しょっちゅう死にたくなる。消えたくなる。孤独感でいっぱい。どうすればよいか分からない。
私は自分の親から過去にされたことを警察に相談した。そしたら警察は、私の親の名前も住所も聞かず、私自身が子供を虐待していると疑った。私は、身体的暴力もネグレクト等も一切していない。なのに、私自身のことを「児童相談所に通告します」と言われた。私の親の名前とか住所等はどうでも良いと言われた。私の親の罪を児童相談所には通告しないとのことだった。何で?私の親の罪は何で問われないの?過去のことだったら何をやっても良いとしか私には受け取れなかった。何で私に暴言を吐き続けた親の名前を聞かないの?子供に暴言も暴力もしていない私自身が通告されないといけないの?「何かあったら御相談を」と交番に書いてるからそのまま言葉通り受け取って素直に相談しただけなのに。警察の決まりかもしれない。だけど、とても悲しかった。私が住む場所では、警察内部でパワハラが原因の警官の自殺が起きた。だけど、数年間「原因は時間外労働による自殺」と発表しつづけ、本当の原因を隠蔽し続けた。ご遺族が数年かけて裁判でパワハラを認める判決が下った後、やっと「原因はパワハラ」と認めた。教員も警察も何で加害者を守るの❓物理的に血を流す殺人なら、罪に問われる。だけど、私みたいな血の流れない殺人の被害者もいがいても、加害者は罪に問われない。私は、何を信じて生きていけばよいの?この世の中の正義って何なの?全てに絶望する。血の流れない殺人を結果的に守る世の中でどうやって希望を持てば良いの?私の気持ちが間違ってたらごめんなさい。
経験談はそれぞれの投稿者の個人的な価値観や感じ方をそのまま掲載しています。一部、リアリティのある描写や強い価値観が含まれるため、読む人にとっては負担等を感じる場合もあります。各自の判断で閲覧してもらえるようにお願いします。
理不尽
感想2
読ませていただきました。鮮明に語られるこれまでの経験をふまえた、「その時に失った生きるための感覚」という言葉の重みをひしひしと感じました。言葉の刃で傷つけられて、その血を癒すはずの場所でも塩を塗られた、その痛みを想像するとあまりにも惨いなと感じました。そんな状況下では、生きることを促進するような要素の全部が、芽も出来らないうちに破壊されてしまったような理不尽さを想像しました。
そしてその理不尽の中には、「自分の体験や気持ちを語る機会のなさ」も含まれているのではないかなと、私は感じました。あなた自身も、「聞いてほしい」「人を癒すのも人」と書いてくれているように、(あくまで私の感覚ですが)人は、自分の「声」を語る機会と、誰かの「声」を受け取る機会を繰り返して、孤独から抜け出したり、自分の気持ちを認められたりするのかなと考えています。これから先の人生で、その機会を手にしていく術の一つに、死にトリも選択肢に入れてもらえたら…と思いました。死にトリは、相談窓口とは異なりますが、その分ゆるやかに、様々な痛みを抱えた人同士でつながったり、いつでも気持ちを吐き出せる場だと思うので、あなたのタイミングでまた来てください。投稿ありがとうございました。
お返事1
温かい感想有難うございます。感想を書いて下さった方の想像する通りです。吐き出す相手や場所がないことも、私が強い言葉を書いた要因の一つです。(同じ思いをした方と話せる機会があれば違う心理状態だったと思います)またこのサイトに立ち寄らせて下さい。寄り添って下さる御言葉に感謝致します。
感想1
タイトルの通りまさに理不尽な思いがぎゅっと詰まっていると感じながら読みました。文中からもう大人の年齢だと推測されますが、中学校時代のいじめの経験が非常に鮮明に生々しく脳裏や記憶に焼き付いているのだろうと感じました。ひょっとしたら、今起こっていることなのか、過去のことなのか、いつのことなのか分からないぐらいつらい記憶が染みついていることもありそうだと思っています。今、ちょうど私はトラウマに関する本を読んでいるのですが、トラウマを抱えている人は「今、ここ」の現実感覚をつかむことが難しく、過去の辛かった経験に支配されているということがたくさん書かれていて、経験談を読むと自分の記憶に苦しむ人たちがいることとつながっていましたが、あなたの経験談からはより強く感じました。
守ってほしかった子ども時代に、助けてもらえなかった経験は長期間あなたの心身を追い詰めているように感じました。しかも、親という一番守って守ってほしかっただろう、そして守るべき存在に放置されたり、責められたことへの悔しさや無力感はどれほどだろうと想像しています。その強い感情が理不尽へのアンテナを鋭くしたり、社会(経験談の中では警察がその代表のように感じました)への怒りや憤りの表現として出てくるのも自然なことのように思いますし、それがあなたの自己表現なのだろうと思いました。
最後の一文「私の気持ちが間違ってたらごめんなさい。」がとても印象に残りました。それまで過去の記憶に支配されていたあなたが、ふと今の自分の本音に戻った一文で、今のあなたの存在感に触れたように思いました。私は気持ちに間違いなんてないと思っています。謝ることなんてありません。でも、強い言葉を書いた後に読む人のことを想像して「ごめんなさい」が自然に出たのかもしれないと感じています。その人柄や人間性に触れ、少しあたたかい気持ちになりました。どうか、死にトリのような立場も権威もないところで気持ちを吐き出してもらいたいと思います。相談で聞いてもらうのもいいかもしれませんが、あなたのペースであなたらしく表現することをお勧めしたい気持ちです。死にトリには掲示板もありますので、よかったら必要な時に気持ちを吐き出しに来てください。