経験談

生きづらさを感じる人が語る 経験談

経験談はそれぞれの投稿者の個人的な価値観や感じ方をそのまま掲載しています。一部、リアリティのある描写や強い価値観が含まれるため、読む人にとっては負担等を感じる場合もあります。各自の判断で閲覧してもらえるようにお願いします。

ひたすらつかれた

とても疲れた
いろんなことが積み重なって話しても多分わかってもらえないことが多くてそれは私のせいでもあるんだけれどどうしようもなくモヤモヤする 

誤解されたことに対してあれは私のせいだったのだろうかでも違うのに自分の真実を捻じ曲げて
相手の都合に合わせて嘘ついた方が和解できる可能性が上がることのしんどさと頭の矛盾した考えとの葛藤で 家族に相談しても半ば鼻で笑われたり的外れなことを言われたりしてもっと辛くなるので自分で解決するしかありません

(↓過去のことです)
揉め事の予兆を察するたびに嫌な予感がしてまさかね、相手はこんなことしないよね、私の気のせいだよねと思い、だけど決めつけたら相手に失礼なのでギリギリまで気のせいだと言い聞かせて確信的なことが起こると気怠い気分になります。そしてそれを気にせずにわからないふりをすればいいのに相手の機嫌(あんまりよろしくない)を私は察してしまって察したことを多分相手に察されて(?)この後どういう対応をとるのが正解か悩んで自分では無難な方(考えに考え抜いて相手を怒らせない傷つけない)と思った方をとったつもりが尚更ダメだったということが本当に多いです。

それから、無言語や、遠回しな表現による、私にしかわからないようにするなにかで確実に私の神経が削られていくのに私が怒ることは赦されません。確信が持てないからです。なので、あれは私の考えすぎだったのだろうかと振り返ります
もしも私が間違えて誤解していたら相手に嫌な思いをさせてしまうからです。

が、もしもあからさまなわかりやすい表現を使わないからって人のことを傷つけようと思って直接醸し出してなにかする人がいたとしたら、それはあんまりだと思うのは私がバカ真面目だからなんでしょうか気にしすぎなんでしょうか

そういうことをもしする人がいたとしたら、謝らなくてもいいから反省して改心して今後は一切そのようなことをやらないでほしいと思ってしまいます。
何かを憶測する前にそれが本当なのか確かめてから怒ってほしいと思うのは自分勝手に人の気持ちを決めないでほしいと思うのは私の我儘なのでしょうか 

辻褄があっているから絶対こうなんだ、とは限らないし、私が信頼されないことに私にも原因があるとしても自己分析して私が悪かったのかめっきり心を全く妥協しない真っ白な心で見つめて一ミリも嘘つかんように向き合ってもそうじゃないという、真実を導き出したのに(そうしないと真実は導き出せないからですそして真実でない自分に都合のいいことを言ってしまったら相手に不愉快な思いをさせ不条理を突きつけることになるため、失礼だから私もそんなことされたらイヤなので後悔してることもあるのでやりたくありません。)ーが、私が心の中でそんな作業してるなんて証拠がないので、口先だけと思われて理解してもらえないのが悲しい

どんなに努力しても一度誤解されたら無駄なのかなと思います(私の頭が変わってるせいでわかってもらえないのも多分あります)なので、普通の常識にあった嘘を言った方が理解してもらえるのが悲しくてたまりません

 なにか相手にもやっとされることをされても最初は怒ってても私がこんなしょうもないつまらないことで怒ってもしょうがないし、私が我慢して平和を乱しちゃあかん、長年の自省癖で、私が気にせずに、細かいことでカリカリ怒らなければいいんだ、私が理想とする寛大な人は自分の感情よりも平和に仲良くすることを重視するはずだ揉め事は控えるべきだと思えば自分の怒りをすぐに抑えられることも、(ずっと怒っていると私も疲れるので)そんなことすぐにできるなんて、相手は知りませんのでごかいされます
そんな人いないとか辻褄合わせだと思われやすいけれど本当にそうだったのに。

 だけどそんなことできますなんて言ったって心の中で行われる自己批判の時間は証拠に残りませんから口先だけと思われてしまってもしょうがないしこういうこというとなにか胡散臭い気がしてずっとモヤモヤを紙にかきなぐっていたけれどげんかいにちかいです
ずっと解消できてないもんだいのことでモヤモヤモヤモヤして思い出してはあれは私が悪かったのか相手のせいにしているだけなのかきがくるいそうです(本当に真実だけ抽出して言ってるのかなんて本人にしかわからないからです。真実が自分にとって都合がいい内容の場合、相手目線では自分の都合のいいように取り繕って言っているのではと思われやすいからです

とはいえ、私も今までの行いで後悔していることも最低だったことも沢山あるので、そのせいで信じてもらえなくてもしょうがないと自戒していますが、本当に我儘だけれど、自分が完全にわるいことではないこと(私にも多少は責任があると思いますが)に対しては、気持ちを理解してもらいたいと思ってしまいます。

 そしてこれからは遠回しに壁越しに察して察して大会じゃなくて本音でお互いの心を大切に、ストレートに伝えながら(マイルドにお互いを尊重してかつお互いの意見(あまりにも過激なもの人を傷つけるもの差別的な意見は除いて)を受け止め合う、気に入らないからと言って排除しない)めっきりお互いが嘘つくことなく誠実に、思いやりを持って大切にし合いながら生きていける人間関係を求めてしまいます
(ただし現実そんなに上手くいくわけがないので他人に過剰に完璧さを求めようとは思いません私も完璧じゃないからです。でも、理想こうだったらいいのになと揉め事があるたびに思ってしまいます。)

 色々書いてしまったけれど
今日までのことは、相手のせいばかりではなくて、もっと私がちゃんとしっかりしていれば誤解されなくてすんだ、自分に自信を持っていれば小さい頃から自分のことをもっと自制して教育していればおきなかったことだと思います。環境のせいもあるかもしれないけれど、もっと上手くやれたんじゃないかと思います
これまでのことは、私のいい加減さがもたらしたこと、なんだろうなとはわかっています。

 でもこれでも自己改善して自己啓発して自己矯正して嫌な思いにさせないように空気壊さないように普通でいられるように不愉快な思いをさせないように迷惑なるべくかけたくないと思ってきたことも本当で、
でも、全然パーフェクトにできなくて子供の頃、自分がされたらいやなことはしないと決めたはずなのに、小、中、高と、最低最悪なことをしてしまったこともあり、後悔してることもたくさんあって人のことなんか全然言えないのに、だけど傷つくことをされると無駄に傷ついてしまって、これ以上迷惑かけるわけにはいかないからこれまで以上にもっと向上していきたいと思っているけれど自分にもまだまだ未熟な面があるから未熟な面を全て自己矯正しよう、私が変わればいやなこととかへんなことされなくなるかもしれんから私にもまだまだ足りないところがあってこれからもっと精進していかないと過去の人たちに失礼だと思って心磨いてこうと思いつつ、もう疲れました
だけど人のことはこれから一層絶対に傷つけたくありませんだから磨いていかなきゃいけないしそれは当たり前だからです
私が一番そういうことをされてイヤだったからです相手にけだるい思いをさせたくありません心を大切してほしいと思うからあいての心も大切にしたいけれどたまには私の心も大切にしてと思ってしまいます(かといって我儘にはなりたくありません)

 身近な人に悩み相談するとなぜか相手の過去や悩みや意見を聞いていたり全然違う解釈をされて一方的にまくしたてられ気持ちをねじまげられて一層モヤモヤしたりして、モヤモヤが解消されなくて私だったらもっと丁寧に聞くのにと思いつつ相手に腹を立てている自分も何か理不尽でいつまでも誰かに頼っていたらダメだなと思うけれど他人に救いを求めてしまいます(身近な人がきらいなわけではないです。感謝してることもありますがこれはこれ、それはそれ、と思ってしまいます)
大変我儘ながら、勝手にこの人ならわかってくれるんじゃと期待してしまいます

 こういう人がいたらいいなとおもうひとになりたいけれど努力すれば努力するほど普通とかけ離れていってそんなのうそじゃんと思われますでも本当なのに証拠がない
また、努力しても相手の解釈次第でどうにでもなってしまうから、努力してもむだなのかなとすら思います
また、そんなに努力しても迷惑かけてしまったことがあるならそんなことしても無駄じゃんと言われたらそれはそうかもしれませんが諦めたくありません。
ーし、努力しても迷惑かけるならもっと向上しないとと思います。他人は他人の方法で生きればいいけれど自分にはこの生き方でないと失敗するからです。油断して失敗してまた過去と同じ失敗を繰り返したくありません。

 一時1人でいればだれも傷つけなくて済むと思って人から離れていたこともありますが逃げてばかりな気がしてむしろ離れれば離れるほど逆に誤解されたり、表面上のなかなのでへんに憶測されたりして私じゃないキャラ(子どもみたいになにも考えてない幼稚でなにもわかっていない単純なアホキャラ)(私がバカなのは本当のことですが)が相手の中で構築されていってそのキャラ通りに生きていないといけなくなる、相手が私のことをどういう風に見ているのかを模索しながら、あんまり賢い(?)意見を言わないようにしてそのことを頭に入れておきながら行動しなきゃいけないのがしんどいです。
自分で考えたこともマウント取りと思われないように 自分で考えて見つけた答えも本から読んで学んだんだーと言わなきゃ
(勿論本から学んだことも沢山あります。それも事実なので嘘ではありません。)
ナマイキと思われるのがいやです
人から影響されていることも沢山あります。でもそれだけじゃない、そしてそのことを特別になんか思ってないのに、自分で考えたことも私なりにあるのに
言ってもあんまり理解されないだろうなと思ってしまいます。

ただし、これは私が勉強をサボってきたり傷つくのが怖くてずっと本当の自分を隠してきたせいもあるので私の責任も大いにあると思います。

きらいになりたくないしおこりたくないし揉めたくないしイヤなこと(レッテルつけられるのは私がいい加減で、人と深く付き合わなかったことが原因なのでイヤなことではあるもののしょうがないと思っています。)はやめてくれさえすればそれでいいからと思うけれどイヤなことをされ続けると自分だって過去に拙いことをしたくせに相手のことをイヤだなぁと思ってきらいになってしまって優しくできなくなって家の中でモヤついてイライラしてしまう自分が赦そう赦そう思いつつ、なんでなんでと引きずってしまう自分が情けなさすぎてあんまり好きになれません

こういうことをいうのはぐちなのであり、あんまりいいことじゃないとわかっているのに書いてしまいました

ただ、理想の自分になれるまでなにがあろうと今度こそ信念を曲げずに生きていきたい、これからも人を傷つけないようにするのは当たり前だしモヤモヤしている人のことばかり言うのもなんだかと思う反面
私の気持ちもわかってほしいと思ってしまいます

しにたい、なにもかも誰にも迷惑かけないまま今日寝たら朝スゥーっと楽にしんでいけたらいいのにと思います

しがらみから解放されたい
広大な青空の下、自由に草原を走り回る馬みたいに自由になりたい
長文ごめなさい

全然経験談になんかなってなくてごめんなさい

これを読んでわたしもこうしなきゃいけないかなとか、つらいきもちにさせてしまっていたらごめんなさい

まじめに生きてるだけでそれだけで充分すごいことなので誇りを持ってほしいです。
書いてあることと矛盾しているように思えますが完璧になんかならずに
最低限人を傷つけないように心がけていればそれでいいと思います
これを読んで私もこうしなきゃいけないのかなと思えるのはあなたが充分すぎるほど優しいからです
その優しさに誇りを持って自信を持ってほしいです (もちろんそう思えなかったとしても最後までこの長文を読んでくれたあなたは優しいと思います。)

感想1

経験談を読んで、投稿者さんには「こうありたい」と思う姿や考え方、行動があり、それになるべく背くことなくいようとしてきたのだろうと思いました。そしてその理想の姿は投稿者さんにとって「こんな人がいてくれたらうれしい」「こんなふうに他者が自分に関わってくれたらうれしい」という姿なのだろうなと想像しました。
でも、いくら努力を続けても相手がその対応を返してくれることはほとんどなくて、徒労感があるのかなと思います。

5000文字ほどの文章のなかに、投稿者さんの葛藤がたくさん書かれているように思い、どこか共感しながら読みました。葛藤というと、Aがあり、Bがあり、その間の板挟みの感情のようなイメージがあるのですが、投稿者さんの持っている葛藤は、Aがあり、それについてはBあるいはCという考えがあるけれど、それにはDがあり…それにはAが関係していて…というように、もっといろいろな要素があることによってぐるぐる考えている感じがしました。
……ちょっと伝わりづらいイメージだったらすみません。悪い意味ではまったくないです。
投稿者さんには「一方ではこういう視点もある」という考えがたくさんあり、それは他の人と関わったり、物事を考えたりする上で大きな強みなのだと感じました。
でも、自分の中で「でもこれは」みたいにつっこみを入れ続けると、頭の中ではたくさんのことが巡っているのに、それをどう表現していいかわからなくなったり、表現できなくなったりしそうで、その折り合いをつけることは簡単ではなさそうだと思います。

「確信が持てないからです。なので、あれは私の考えすぎだったのだろうかと振り返ります/もしも私が間違えて誤解していたら相手に嫌な思いをさせてしまうからです。」
「おかしいな」「いやだな」と思いつつも、「絶対とは言い切れないよな…」と思うとき、私もその場で足踏みするような気持ちになることがあります。エスパー能力もないし、その人の言葉だって本当とは限らないのだから、相手のことが絶対にこうだとわかることはほとんどありえないのかもしれません。
本来なら、相手がどうであるかは想像しつつも、「(少なくとも自分にとっては)これはいやだった」というようなことを相手に伝えられたらいいのかもしれませんが、この社会では、そういうふうに自分の気持ちを率直に伝えつつ、相手との距離をアップデートしていくやり方はあまり練習する機会もないので、自分にとっても、相手にとってもどうしたらいいのかわからないこともありそうです。
そういう意味で、この社会や教育の問題も大きそうだと感じました。

理解されないこと、誤解されてしまうことが書いてあって、周りにいる人や関わる人に自分の思っていることや言葉が伝わらない感じはしんどいなと思いました。
自分の内面が100%伝わることはないにしても、「そんな人いない」と言われるのは、自分自身の置き場所がわからなくなりそうです。

「しがらみから解放されたい/広大な青空の下、自由に草原を走り回る馬みたいに自由になりたい」という文章が、個人的にすごく好きです。草原を走り回る馬! いいなぁ、私もなってみたい。その馬は「馬はふつうこんなことはしない」とか「このくらいは走れないとだめ」とか言われないで、自分の力を発揮して、そして自分がいる世界を感じて、心地よさを覚えることができているからかもなぁと想像したりもしました。

タイトルにある「疲れ」というものの反対に、その「自由」はあるのかなと思います。
「自分の真実を捻じ曲げ」ることのつらさが書いてあり、投稿者さんは「自分の真実」を持っている人なんだなと思いました。自分にとっての正しさとか、自分にとってはこう考えると腑に落ちる、納得できる…ということはきっと誰にでもあるのだと思いますが、それをつきつめるタイプの人と、あまり重視しないタイプの人はいるようだなと思います。
私はかなり自分の納得を重視するタイプのため、納得のいかないことを強いられることはとても嫌で、その折り合いをつけようとするにしても、とても疲れてしまいます。投稿者さんと同じかはわかりませんが、文章の中にある「疲れ」にはそういう面もあるのかなと思いました。

風を感じながら草原を駆け、気持ちよく過ごす馬そのものにはなれないですが(馬にしても肉食動物に狙われることもあり、自由ではない時もあるかもしれませんね)、そういう自由な時間が投稿者さんの日常の中に少しでも増えていくといいのかなと思いました。
お風呂のなかでぼんやりする時間かもしれないし、好きなことをしている時間かもしれないし、もっと別のなにかかもしれないですが、投稿者さんの疲れを癒し、頭を動かさなくても大丈夫な時間があるといいなと思います。

また、相手を大切にするためにどうすべきか考えてきた投稿者さんと、個人ひとりひとりの足場となっているこの社会についてどう考えていけばいいのか、一緒に考えてみたいと思いました。

感想2

経験談の投稿をありがとうございます。

読ませてもらっていて浮かんだのは「理想の自分」を持ち、「理想の自分」になるために自分自身を律し続けようとしているあなたの姿でした。もちろん、あなたのことを知らないので姿というと少し違うのですが、あなたが悩み・葛藤し続けている臨場感のようなものを感じながら読み、今その勢いのままに感想を書いているところです。その中で率直に感じたのが、あなたの「理想の自分」はあなたにとって生きる指針となりつつも、「理想」とはほど遠い環境・現実を前にして、自らの力のみで律し続けて「理想の自分」でいる・なることの難しさ・疲れを実感しているところなのかなということでした(以下の内容も含めて、もし解釈がずれていたらすみません、予めお伝えしておきたいます)。あなたのその「理想の自分」像はどのようにして生まれたのかをもう少し聞いてみたいなとも感じているところです。

読んでいてハッとしたのは、私もあなたの求める「お互いが嘘つくことなく誠実に、思いやりを持って大切にし合いながら生きていける人間関係」(この前の部分も含めてすべてを引用したいくらいです!)を求めている人だなということでした。しかし、今の社会・現実では実際のところは周りに合わせるように察したり、嘘をついたり、差別や排除があったり、傷つけたりしてしまう人間関係の方が(残念ながら)多いのかなと私自身は感じています。そのギャップに強い疲労感・無力感を覚えながら私自身は生きているよなぁ…と思わされています。意図的なかたちでそうされることはもちろん嫌だなと思っていますが、難しいのはそういった人間関係やコミュニケーションが生まれる背景には、実は「思いやり」があって起こるパターンもあったり、意図せず(なんなら善意から)に起こるパターンもあったりするところと私は実体験から感じています。そうした経験から、人の気持ち・人間関係というのはなんとも複雑なものなんだろうなと私は考えていて、だからこそ、あなたのように「理想の自分」になる・目指すことで、いい人間関係やコミュニケーションを築いていくという考え方も生まれるのかも、などと考えます。
ちなみに、私も多少なり「こうでありたい」といった「理想の自分」を持っています。しかし、はじめから「そうなれない」と諦めていて、というのも、この社会・環境で「理想の自分」になることは(自分の努力だけでは)正直難しいと考えているためです。そのため、私は「なるべく」という言葉を自分につけるようにしていて、「なるべく」自分に嘘はつかない、「なるべく」自分の言いたいことを言うようにする(怒りの気持ちを含めて)、「なるべく」自分の気持ちを大切にする、といったそんな感じで過ごすようにしています。正確には、あなたの経験談を読んでそのことに気づかされました。そのスタンスがいいかどうかは正直わかりませんが、私がそう考えるようになったのは「諦める」というのは元々「明らかにする」という意味だそうだと聞いたときな気がしていることも思い出しています。私はこの社会・環境では無理だと諦めた(明らかになった)のかなと思っていますが…他にも理由がありそうなので、もう少し考えてみたいと思います。

最後に、あなたは「考えすぎ」「気にしすぎ」という言葉をよく使っているように思ったのですが、それはあなた自身から出てくる言葉か、誰かに言われたことで出てくる言葉かどうかが少し気になりました。最近私が思っているのは「考えすぎ」や「気にしすぎ」という言葉は「考えさせたくない人」「気づかせたくない人」が使う言葉ではないかなということです。考えること・気づくことというのは、生きていく上で私はとても大事な力だと思っていて(もちろん、それが強い不安や恐怖などにつながってしまうこともあるので、そのあたりはほどほどがいいのかなとも思うのですが)考え続けること・気づいたことを大事にすることはそれほど悪いことではないのではないだろか、と思っています(あくまで私は)。そのため、あなたの「考えすぎ」や「気にしすぎ」という言葉がもし誰かに言われてきたがための言葉なのであれば、私としてはそれは横に置いて、あなたの気のすむままに考えてほしい・気づいてほしいと思います。そして、それをひとりで抱えずに共有していてほしいなと思いました。「モヤモヤ」ともあなたは書いていますが、考えること・気づいたことと同様「モヤモヤ」というのも大事な感覚だと私は思っていて、そこには(あなたや誰かにとって)よりよい生活・よりよい社会になるために必要なものの大事なヒントが含まれているかもしれないと私は思っていました。もしよければ、また死にトリであなたの考え・気づき・モヤモヤをはじめとした気持ちを共有してもらえたらと思います。
あ、私が「なるべく」とつけるようにしているという話ですが、もしかしたら私もあなたのように「しがらみから解放されたい」と常に思っているからかもしれない!と、ふと思いました(「最後」と言った後に書いていてすみません)。私は「しがらみ」が大嫌いなので、その場に「留まらせる(しがらみに巻き込まれる)」物事や状況から全力で避けよう・逃れようとする傾向があります。「なるべく」というのは、どっちつかずのスタンスでいることでもあるので、いつでもどっちかに逃げられるようにしているのかもしれないと思いました。ちなみに、私は(馬もいいなぁと思いつつ)鳥になって飛び回りたいと思う性質です。あなたの経験談を読んでいろいろ気づかされています(ありがとうございます)。またよければ死にトリに来てください。

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