「死にたい」と思っても、その場で即死しない限り明日はやって来る。私は10年付き合った希死念慮を緩やかに忘れながら、この文章を書いている。
以下、「死にたい」から「死ななくてもいい」への乗り換え記録、それを振り返る後日談だ。
高校時代に初めて「生きなくていい」と思った。
とはいえ、明確な理由を求められると言葉に詰まる。とある感覚が原因なのだが、その説明が少し困難だからだ。
感覚の呼称は「現実感喪失・離人症」という。現実世界を成り立たせている意味合いや、自分が自分であるという確かさが曖昧になる症状だ。当時の私は、「本名」と身体と「思考し感じる私」が一致しないちぐはぐさを強く感じていた。
戸籍上の「本名」はなぜかよそよそしく、私を示す名前にしては違和感があった。なぜ私が「本名」として扱われているのだろう、なぜ私はこの身体を操って「本名」の人生を生きなくてはならないのだろう、と心底疑問に感じた。
はじめは歯車が噛み合わない居心地の悪さだった。それが生きたくないに移行したのは、受験期がきっかけだったろうか。私は「本名」や「本名」の家族に対して、義務感じみた情はあっても、親しみを持てなかった。自分にまつわる全てが他人事のように感じられ、精神や思考を上滑りしていく。そのような状態で進路を考えた。その時私は、自分の人生を想像できないことに初めて気が付いた。1年2年後を想像すると、脳内の自分は自死していた。また、過去へ1年
2年と遡っても、記憶が生き生きとした感情を伴って再生されない。まるで他人の人生を俯瞰しているかのように、16年間の思い出は味気なかった。これからもこの監視カメラが捉えたような人生が続くなら、早く切り上げたいと思った。
それでも当時はまだ、積極的に「死のう」とはしていなかった。漠然と3〜4年後には死ぬだろう、もしくは死ぬ気になっているだろうという想定の元、大学を選び、合格した。また、気が向いたときに死ねるよう、非常階段付きのマンションの隣にあるアパートを契約した。
(かけられた労力・金銭・気持ちに対し不誠実だったと、「死にたくならない」今だから思える。だが「死にたい」当時はどうだったか…)
結局大学は4年+1年の留年で退学した。そのうちの3年間は、精神科に通院しながらの通学だった。先に述べた「現実感喪失・離人症」も、通院をきっかけに知った呼称だ。
「自分を生かさなくていい」
「どうせ来年死んでいる」
「頑張っても明日の自分には他人事だろう」
それらの考えが将来設計を常に白紙にした。単位は常に取れず、ゼミの出席率も低かった。それではいけない意欲を出そう、努力をしようという心がけさえ、明日には他人事になってしまい継続がままならない。
学費を出してもらいながら、留年を許されながら、通院・服薬による治療を受けながら。特権と言うべきサポートを活かしきれず、後悔している。「死にたくならない」今は。
しかし、「死にたい」大学生の私は、後悔や自責の念に対してもかなりの無感覚でいた。というより、それを当事者として感じるための自己が失われていた。
私の症状は基本的に、あるはずの感覚が消失することだった。
あるはずの感覚。それは自己や、感情や、見聞きするものから得られる親しみだ。親しみから得られるこの世と繋がって生きている感覚、つまり現実感だ。それが失われた苦痛を、そうではない人に伝えるのは困難だった。症状そのものが抽象的・観念的なため、とにかく実態が分かりづらい。自分ですらはっきり言語化できない感覚を他者に分かれというのも妙な話だろう。だが、相談するたび「現実感喪失・離人症」が気の持ちようや考え過ぎと捉えられるのは堪えるものがあった。
そういうわけで大学を退学する頃には、
・症状自体による消耗
・症状を伝えられないストレス
・症状を誤解されるストレス
・通院や服薬で改善しない徒労感
などにより、本格的に自殺願望が強まってきた。
退学きっかけで実家に戻ることになったが、とある落とし穴があった。地元には継続して通院できる精神科がなかったのだ。
(精神科自体はあるが、症状に対応できる医院が安定して通える範囲になかった、と一応補足しておく)
しばらくは電話による相談サービスやチャットカウンセリングを頼った。また、市の福祉課による無料カウンセリングにも助けられた。
やや気力体力が回復した時点で、アルバイトを初めた。その収入で自己への関心のなさゆえに放置していた体調不良(虫歯、視力矯正、めまいなどの症状)をケアすると、精神にも好影響があった。次に、大学時代から書き溜めていた日記から思考や不調パターンを見つけ、希死念慮との関連を探った。そのうち、理想の生き方が叶わないから死にたいのかもしれない、という気付きを得た。私の場合、とにかく筆記して思考を深めるのが性に合った。
だが、それで全てが解決したわけではない。
希死念慮が薄れていくと、今度は「死にたい」私が軽視してきたことに向き合わねばならなくなった。
1つ目は後悔。
あのとき死にたかったから
学びそこねた。スキルを得る機会を逃した。就職できなかったから自立が人より遅れている。自暴自棄になり大事なものを捨ててしまった。他人から受けた恩恵を無碍にした。余裕のなさを理由に友人や家族へのリスペクトを欠いた。
希死念慮の辛さで目隠しをし、無関心かつ放置していたものがたくさんある。そのツケをこれから私は払う。他人事にしてきたことも、死なないなら全部私の生と地続きである。
死にたかった頃の選択一つ一つが今更効いてきて、「本当に生きることがどうでも良かったんだな」と感心してしまう。どこから向き合っていけばいいのか途方に暮れてもいる。
2つ目は時間。
人は必要なくなった機能を忘れるという。私もそうで、「死にたい」と思っていた頃の記憶や感情が薄らいでいる。死にたい自己イメージにしがみついて生きておきながら、現金なものだ。
「死にたい」は不可視だ。言わなければ分からない。言ったとしても、その苦しみの程度は当人にしか正しくわからない。
なのに私はそれを忘れかけている。それが自分を本当に殺すことに思えて少し怖い。
また、死にたさのの根幹である「現実感喪失・離人症」も同じく、不可視の症状だった。
私は現実と自分自身に対して明瞭さを失い、生きることそのものを苦痛に感じていた。言葉で伝えなければ可視化されない症状なのに、そもそも不調の言語化が困難で、助けを求めることも満足にできなかった。
見えないから見過ごしてきたものを忘れて、先へ先へ進んでしまっていいのだろうか。一人で勝手に症状を作り、長らく勝手さで他人と自分を振り回し、一人勝手に忘れていくのか。
私は症状をなんとなく忘れ、自分の人生に組み込むこともできないまま楽になっていくのが許せないのかもしれない。
改めて、私は「死にたくなくなった」世界で生きている。
希死念慮が解消されても「死にたい」時期の選択や問題をもちこし、私の生は続いている。
そして「死にたい」でいっぱいだった頭の中は別の困りごとや心配が占め始めた。何とかなっても、次の何とかならないが来るのだ。
私による「死にたい」の後日談は以上である。
感想1
私にとって経験談の文章が明確で内容が理解しやすくスーッと入ってきました。
そして死にたい自分について、誰よりも理解し、よりそい、手当てしてきた“もうひとりのあなた”が語る経験談だと感じました。セルフアセスメント、セルフケア、セルフマネジメント…そんな言葉が浮かんでくるほど、その時々の自分に少し距離が離れたところから観察し、見守り、悩み、試みし続けてきた様子もうかがえました。自分の「本名」と自身の思考が一致しない感覚はどんなものなんだろうって必死に想像しながらあなたにとって「本名」は何を象徴するものなのだろう…と考えていました。自分ではない他者が自分へ関与(命名)したことの違和感なのか…機会があれば聞いてみたいです。
自身の思考と一致しない感覚から現実感がないことを共有できない日々、さらにそこで蓄積された徒労感、そして実感してきた自殺願望…あなた自身が徐々に周囲や社会とすり合わせ、折り合いをつけようとしながらこころが回復していく過程もよくわかりました。こころが回復してくると今度は現実に直面したんですね。あなたの中では問題を軽視したという感覚だと思いますが、軽視したというよりは意識を向けられるほど余力はなかったのかなと私は感じました。全体的にいまは「死にたさを理由に色々なことをおざなりにしてきた」という感覚があるのかなと思いますが、これだけ明確に深く思考される方ですからその時々で必死に考えた結果だったのかなと思いますし、その過去のあなたが死ななくてもよくなった今のあなたを助けているのかもしれません。
周囲にもSOSを出しつつ、現実的なこれからのことも少しずつ進めているようですね。
後悔はこれからのことが進むと時間とともに薄らいでいくのかもしれません。
一方で“見えにくい困難を抱えていた頃のあなた(生きづらさを抱えたとは簡単には表現できないあなた)“がいまのあなた(もうひとりのあなた)に許されるにはもう少し時間が必要だと私は思いました。今回のように語り、対話する時間をもつことは、過去の自分を今の自分の思考やこころに練り込む、もしくは過去の自分を手離しながら生きていくことにつながると思います。
あなたの経験談からたくさんのことを感じて、この感想も書くのを止めてしばらく考えたり、書いては消してみたり色々考えさせてもらう機会になりました。死にたいから死ななくていいの乗り換えやこれからの現実について機会があればあなたと話してみたいと思いました。
また死にトリに来てもらえたらと思います。