経験談

生きづらさを感じる人が語る 経験談

経験談はそれぞれの投稿者の個人的な価値観や感じ方をそのまま掲載しています。一部、リアリティのある描写や強い価値観が含まれるため、読む人にとっては負担等を感じる場合もあります。各自の判断で閲覧してもらえるようにお願いします。

ハッピーになりたい

私は今から3年前くらい、高2の冬に初めて自殺未遂をしました。理由は中学の部活でのいじめ、家庭で時々起こるモラハラや否定、高校で抱いた自分の学力や見た目やコミュ力に対する強い劣等感、コロナ禍による学校行事の中止でさらに無くなった人との関わり、温かい会話の不足による自分の人生観・価値観の歪み等だと思います。私の勇気と準備不足で未遂に終わってしまい、その日の夜に泣きながら初めてスマホで「しにたい」と検索しました。検索結果のトップに死にトリが出てきて、「つらチェック」をしてみたらゴリゴリの人生ハードモードだったので少しおかしさを感じたり、他の方の経験談を声が出るほど泣きながら読んだりしたのを覚えています。
そこからは辛く感じたらこまめに自分の気持ちで検索するようになり、「うつ病を治してみようかな」と時間が経って思うようになりました。死にトリの力も大いに借り、精神疾患の治療の漫画や精神科医の方の話などを本当に少しずつネットで読んだりしました。文字を読む気力が無く、自分の体や頭をしっかりと動かすというのが無理だったので、布団の中でスマホを見ていました。文字が大きめか少なめで、丁寧語で書いてある文だとパニックにならずに文字を読むことが出来たので、丁寧語って大事なんだなと思いました。
今は文字が多い本も読めたり、こうして文章を自分の頭を使って書いたり、学校の廊下で人とすれ違っても過剰にビクビクしたり急に泣いたりしないという感じになりました。高校の時は何で皆があんな風にかっこよく廊下を歩けるのか不思議でした。「自分は存在していい」と思えているような感じが、足さばきや猫背じゃない姿勢、下向きじゃない目線から伝わってきました。私は常に「私の存在はいらないんだ、死なないと。死にたい。」みたいな気持ちだったのに。
今は大分メンタルが安定しましたが、月に2回以上は「自殺したい。今年中/来年に自殺しよう。」と思います。私は小学生までは人間関係に恵まれていたし、自殺も結局未遂1回で終わったため、心の根底に「自分が好き、大切にしたい」というような我が身可愛さがあるのだと思います。
自分が嫌いで自分の存在を消したいから自殺したいという気持ちと、自分のことが好きで幸せになって欲しい、これ以上辛い思いや悲しい思いをして欲しくないから自殺したいという気持ちがあるなーと感じました。私は、ハッピーになりたいから自殺したいんです。
先日初めて大学の学生相談室に行き、自殺未遂の経験や暗く考えがちなことや人と関わりたくないことなどを話しました。自殺未遂のことをネット越しではない生身の人間に話したのは初めてです。以前死にトリで行われていたLINEのグループチャットで1回だけ自殺未遂についてちょろっと言ったことはあります。カウンセリングを受けるのも人生で初めてなので次回以降はどんな感じになるのか分かりませんが、何かいいことあったらいいなと思っています。ダメだったら自殺すればいいし。また未遂で終わるかもしれませんが。スクールカウンセラーは何より無料で受けられるのがいいなと思います。遠出もしなくて良いですし。自分のためにカウンセリングを受けたり、自分を労わってあげるのってすごく面倒くさいと感じます。
最後になりますが、死にトリさんの自殺をするな等の命令をしないところ、自殺をしても許してくれそうなところが好きです。活動をされる中で大変なことも多々あることと思いますが、陰ながら応援しております。

感想1

死にトリへの労いや感想をたくさんいただき、ありがとうございます。活用してもらえたことも嬉しいですし、活動が大変なことも多々あることを想像してくれたこともとても嬉しく思いました。
あなたがこちらのことを想像して声をかけてくれたことに敬意をもって、私もあなたの人生や状況を想像しています。自殺未遂をするほど、苦しかったこと、特にハッピーになるために未遂をしたとあったので、よほど現実がつらく耐えられないのだろうと思いました。最初の方でさらっと学校のいじめや家での否定のことが書かれていましたが、おそらくそれらの説明では伝わらないような、過酷さや一人ぼっちの孤立感、それらからくる自己否定感情など、たくさんのつらい思いがあり、つらさや苦しさがデフォルトになってしまい、自分が存在する感覚が薄れ、現実感覚も曖昧になっていたのかもしれないと思っています。そんな中で、その局面をどうにかしようとして自分の存在を消そうとした行動には無理もないだろうし、それを誰も批判することはできないと思いました。
最後に「死にトリさんの自殺をするな等の命令をしないところ、自殺をしても許してくれそうなところが好きです。」と書いてくれました。自殺をするな等の命令はもちろんするつもりはないです。というのか、この社会の現実を考えたときに自殺をするな等の命令をする人は社会の現実についてあまりにも知らない世間知らずの人だと私は思います。そういう人たちは死にたい気持ちの人を逆に常識知らずだとか、恩知らずとかいうのかもしれませんが、とんだお門違いだと私は感じています。ただ、自殺をしても許してくれそうかということについては、ちょっとニュアンスが違うかなと思いました。おそらく、あなたは自殺しても責めないという意味で書いてくれたのかなと推測しましたが、どうでしょうか?であれば、責めるつもりは全くなく、むしろ、こんな世の中であることが悔しいし、その悔しさに対して一緒に戦いたかったと思う気持ちはあると思います。だから、自殺を許さないわけではないのですが、自殺という選択ではなく、できるのならこうして声を届けてくれるなど、一緒に社会にコミットするような選択をしてもらいたいという願いは持っています。
今の社会でハッピーになるのは本当に難しいのかもしれません。でも、違和感を持つ人たちがつながって一緒に考えられたら少しは変わるのかなと思っています。あなたの真摯に生きてきたこれまでの道を想像し、つらい状況にあるのに死にトリを運営する私たちのことを想像し労いを考えると、私は一人の仲間としてこれからも死にトリに参加してもらいたいと思いました。ハッピーについてもう少し考えてみたいと思っています。

感想2

タイトルもそうですし、文中にも出てくる“ハッピーになりたい”という言葉が印象的で、投稿者さんにとってどういう状態であることがハッピーだと感じられるのだろうかと考えながら読んでいました。自分が嫌いで否定をしてしまう自分と、自分が好きで大切にしたいと思う自分と両方の自分が投稿者さんの中でどこかせめぎ合っているように私は感じました。
冒頭に書いてくれた学校や家庭で経験した様々な出来事はこうして言葉で表現してくれている感じ方以上にとてもしんどいものだったのではないかなと想像しています。そのような状況下でも最初のきっかけは未遂で終わってしまったからだったかもしれませんが、自分の気持ちと向き合おうと(知ろうと)する力があるのは投稿者さんの強みなのではないかなと私は思います。以前に比べてメンタルが安定してきたと感じる理由には、自分の気持ちと向き合ってきたからこそ、最後のほうにも書かれてはいましたが「ダメだったら自殺すればいいし」と現状の自分を受け入れられたのも大きいのではないかなと感じます。生きることって容易じゃないなと私自身も日々感じながら生きていますが、面倒くさいと感じながらも自分のためというのかとりあえず何かできることをしてみたりちょっとだけ足掻いてみるのも必要なのかもしれないなと考えさせられました。
最後に、死にトリを活用していただいてありがとうございます。こうした形で参加してくれている人たちの声を聴くことは活動していく上での励みになりますし、とても嬉しく思います。また投稿者さんの思いや考えをお聴きしたいなと思いましたし、良ければこれからも投稿者さんなりの死にトリの使い方をして、様々な角度から生きづらさや違和感を抱いてしまうこの社会について一緒に考えてもらえたらなと思いました。経験談の投稿ありがとうございました。

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