経験談

生きづらさを感じる人が語る 経験談

経験談はそれぞれの投稿者の個人的な価値観や感じ方をそのまま掲載しています。一部、リアリティのある描写や強い価値観が含まれるため、読む人にとっては負担等を感じる場合もあります。各自の判断で閲覧してもらえるようにお願いします。

自由に生きます

高校生です。最初の最初から話そうと思います。私が生まれた次の日祖母が亡くなったそうです。ただの偶然です。そんなことがあったので、祖父にこう言われたことを覚えています。私が書道を習った時にそれなりに上手かったことと祖母が書道の先生だったことが重なったのか、「sはおばあちゃんの生まれ変わりなんじゃないか」そう言われたことがありました。何故か頭から離れません。それから、特に何の問題もなく幸せな時を生きていました。ですが、小5の8月、母から「お父さんは病気で余命が長くない」と言われました。はっきりと覚えています。私は黙り込んで「何で今まで言わなかったの」そう言って部屋に篭ったことを覚えています。その、およそ半年後私の誕生日の前日に車椅子で梅を見に行ってその後、息を引き取りました。ただの偶然です。ですがその日を忘れられません。長年の闘病生活だったそうで、彼は私といることを多望しました。習い事の帰りの送迎など、幼い頃の思い出は父との思い出しかないのです。彼は私によく「普通が一番」と言っていました。そして、「愛している」と言っていました。幼かった私は恥ずかしくてよく逃げていました。
中学校に入学しました。突然私は、悲しくなりました。父の死をやっと受け入れたのかもしれません。ですがその悲しみの吐き口はどこにもありませんでした。家では姉が母親に対してものを投げたり争ってて、母は「もう一回こうゆうことがあったら警察に行くから」と言ってたほどです。その理由は、学校でいじめがあったかららしいです。私は、そのストレスを勉強のエネルギーにしました。だから、成績が悪かったわけではありません。父の死から2年後祖母が亡くなりました。ただの偶然です。それほど悲しみも感じることもありませんでした。何の責任も取らず、姉は急に静まり返りました。そして、私も限界がきたようで、「辛い」と母に言い始めました。ですが相手にされず、中学を過ごしました。必死に生きるための音楽を探しながら。高校になって、もう本当に限界が来て、不登校になりました。私は、転校を決めました。苦しい記憶が詰まっているところでしっかり生きれる自信がなかったからです。ですが、今でも家のなかでさえも苦しくて、学校でさえ苦しいです。家では、母のことが大好きで私にいつ暴力振ってくるかわからない姉がいるからです。(前に叩かれて彼女が荒れてた時には罵倒されました)
何となくもう少しで死ぬような気がします。自殺の予定とかではなく、何故かそう思います。なので、自分の好きなように生きるになっています。学校をサボって一人旅でも行って綺麗な景色でも見たいと思います。それくらい、いいですよね。

感想1

書き込みありがとうございます。幼少期からの心に残っているイメージと、今の苦しさがどこか結びついている状況なのかなと想像しました。
これまで家で感じていた辛さを頑張りに向けてこられたりして、知らず知らず心に大きな負担をかけながらも、ひとりで頑張ってこられたのかなと思いました。
今も安心した環境ではなく、お姉さんのことで心が随分と疲れてらっしゃる部分が大きいのかなと思いました。死ぬかもしれないという感覚は、これまでの死に対する漠然としたイメージと、ご自身の現状の辛さが結びついてそういうイメージとして涌いてきているようにも感じましたし、現状の生活がストレスフルなものであることや、それを回避したいという身体からのメッセージでもあるのかなと思いました。
少しでも安心できる時間や場所、安心して話が出来る人が出来ていくとまた変わっていくのではないかと感じましたし、見つけていってほしいと思いました。ここももしかしたら、そういう場の一つとして見つけられたのかなとも思いました。
自由に生きたい。学校サボって一人旅。綺麗な景色を観たい。など、ご自身を助けようとするイメージもご自身の身体には備わっているのかなとも思いました。いいイメージのようにも感じました。私もそう感じることが多々あります。
私自身は学校に行くことよりも、そうした自分なりのイメージやバランスの取り方を見つけていくことの方が、大事だと思っていますし、身体が求めている時間が何かあると思いますので、それを見つけて行ければいいのかなとも思います。ただそれを周りに理解して貰えないのはなかなか辛いことですし、こういうところで少しずつ言葉にすることは、やはり大事なんだろうなと思いながら読んでいました。
またいつでも死にトリ訪れてくれたらと思います。

感想2

投稿をありがとうございます。
「人生の妙」とでも言うのでしょうか。読みながら、何とも言えない不思議な巡り合わせのようなものを感じてしまいました(あなたの言うように「偶然」なのですが、そう感じること自体は自然なことのようにも思ったため、書かせてもらいました)。
私の知り合いに災害が起こった日と誕生日が同じという人がいます。聞いてみないとわかりませんが、その方にとってその日は二重の意味でずっと「忘れられない日」となっている(く)かと私は想像していました。それとは少し事情が異なると思いますが、あなたが所々で語っている「忘れられない」という日や言葉・出来事は、あなたにとって様々な感情や記憶を蘇らせるものとなり、もしかしたらそれは長く「そういうもの」としてあなたの中に存在し続けるのかもしれないと想像しています。

お父様が亡くなられてから、あなたは「悲しみの吐き口」がどこにもなかったと書いています。中学生くらいの年齢になると、死が取り返しのつかないものであることを理解できるようになるなどと聞いたことがありますが、そのくらいの時期は自分の気持ち(特に「悲しみ」など)を吐き出すことも難しくなるような気がしていました。あなたの場合にはお姉さんのこともあって、余計に「悲しむ」ことができなかったのかもしれないと想像しました。暴力は決して許されませんし、いじめが主な理由のようですが、もしかしたらお姉さんも「悲しむ」ことができないでいるのかもしれない、あるいは、それがお姉さんの「悲しみ方」になってしまっているのかもしれないなどと考えてしまいました。あなたが恐怖を感じずに、お姉さんも安全な方法で「悲しむ」ことができたらなと勝手ながら思う私がいます。

「何となくもう少しで死ぬような気がします」と書いているあなたのこの感覚、実は私も抱いたことがありました。大切な人が亡くなってからよくそう思うようになったのです。その感覚を抱いた私は仕事を休んで、その人が生まれた場所や育った場所に行って歩いてみたりしました。その人が大切にしていた本を読んだり、その人の好きだった食べ物を食べたりして過ごし、たくさん「かなしみ」ました。あなたはお父様に「愛された」と感じているのかなと想像します(違ったらすみません)。「愛しむ」と書いて「かなしむ」と読むことをご存じでしょうか。安心して「かなしめる」環境があなたの身近に今はないかもしれませんが、きれいな景色でも見ながら「愛しんで」もらいたいなと個人的には思いました。ちなみに、私は今後も長く「愛しむ」予定です。あなたの「かなしみ」についてまたいつかお話を聴けたらなと思いました。ありがとうございました。

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