ふとした瞬間に全てがどうでもよくなる時があります。
誰にも理解された事がないのですが、全ての事がどうでもよくなる、飽きてしまう瞬間があります。
それは好きなものであったり、人であったり、更には生きる為の気力だったり。
他の人に比べたらきっと苦しい思いをしたことがあるとかじゃないと思うんです。
虐められた事はあるけれど、誰かに相談するわけでもなく、その上で自然消滅していく程度でした。
頼れる人はいないし弱音を吐き出せる人はいないけれど、人と話す事が嫌いなわけではありません。
だけど、ある程度のラインまで仲良くなるとその人との関係全てがどうでもよくなってしまって、関係を絶ってしまう事が沢山あります。
それはまだ未だに続いていて、その人の事が好きだったはずなのに話したくなくて、相手に対して何もしたくなくなってしまうんです。
それでも人と話をしないと、誰かと何かの約束をしていないと生きる気力が湧かず、死んでしまう気がして新しく誰かと何かを約束するんです。
他人との約束があるから生きているだけできっと私は何も無くなったら死んでしまうんだと思うんです。
自分としてやりたかった全ての事は全て家族から否定され普通でいる事を良しとされてきているから、誰かと何かの約束をしないと自分の生にしがみつかないのだと思います。
死にたいとか思うわけでもなくて、消えたいとか生きていたくないとかそういうのじゃなくて、何も無くなったら死んでしまうのだろうなというたった一つの思考があるから今はまだここに立っていて、人と約束をして生きているだけなのだと思います。
あの人との約束があるからこの日までは生きてなきゃ、その次はこの日と、少しずつ生きる事を延長している気持ちで毎日を過ごしています。
そんなこともあって、恋をすることも考えました。でも、どんなに考えても誰かを恋愛として好きになる事ができませんでした。そういう気持ちが少しも湧かなくて。
こんな事はきっと他人のつらい気持ちや苦しい気持ちと比べてしまったらどうとでもないことなのかもしれません。
家族から愛されていないわけではありませんが、いる事を許容されているだけとも捉えてしまえるのでなんとも言えませんし。
そんな漠然とした何かを頭に置きながらきっと今日も次の約束の為にこの世に存在しているのだろうと思います。
感想1
「全てがどうでもいい」という感覚はどこから来るのだろうかと考えながら、経験談を拝読しました。
確かに世間一般では、好きなものや取り組んでいること、世界や周囲の人たちに対する関心によって人と繋がることが多いので、「全てがどうでもいい」という、いわば前提をひっくり返すような思いを理解してもらったり、分かち合ったりする機会はほとんどないかもしれません。でも、そう真剣に思う瞬間があるということも、その思いのなかで生きる人々がいるということも受け止めたいと思います。実際に、私自身もそう思うことがあります。理解されにくい思いを抱えながら、より生きやすくなるにはどうしたらよいのか、一緒に考えてみたいと思いました。
投稿者さんの文章を読んで、「全てがどうでもいい」という気持ちは、身近な人との繋がりの感覚と深く結びついているのだろうと改めて思いました。いざというときに頼れて、弱音を吐けるような仲間や、存在を許容するだけでなく、ありのままの自分を認めてくれるような家族を望むのは、真っ当なことです。そのような関係性なしに、人と安心して関わりながら、のびのびと自分らしい生き方を追求することはできないからです。ニュースで報じられているような、分かりやすい虐めや家庭内暴力がなかったとしても、心理的なケアを受けにくい環境は存在します。「心理的虐待」という言葉もありますが、身近な人と思うように繋がれないという苦しみは十分に重く、健康状態や心理的発達、ひいては人生全体に影響を及ぼしうると思います。(個人的には、やりたかったことを全て否定されたら、私は「自分は愛されていない」と思います。)
私の場合には、人との繋がりのなかに安心や希望を見出せず、にもかかわらず、人と関わらなければ生きていけない現実に直面するとき、そしてこの葛藤を解決する見通しが立たないときに、「全てがどうでもいい」という思いに囚われることがあります。この気持ちは、投稿者さんがおっしゃっているように、自分の死を予感させるものです。その思いを受け止める時間がどれだけしんどいかは、私も経験者として、投稿者さんに強く共感します。投稿者さんは人との繋がりを、人との約束を守るという義務感によって、辛うじて維持しておられるのでしょうか。もしそうだとしたら、その背後には、身近な関係性のなかでたくさん心を傷つけられ、忍耐を強いられてきた過去があるのではないかと思います。