経験談

生きづらさを感じる人が語る 経験談

経験談はそれぞれの投稿者の個人的な価値観や感じ方をそのまま掲載しています。一部、リアリティのある描写や強い価値観が含まれるため、読む人にとっては負担等を感じる場合もあります。各自の判断で閲覧してもらえるようにお願いします。

よかれと思って

私は拒食症の摂食障害です。
8年ほどになるでしょうか。
調子のよい頃もありましたが、
BMI1桁で、生死の境にいます。
本来、入院して絶対安静ですが、
入院したくないので、家で何とか生きています。

家族は、私の面倒を見て、心配をして、愛情をかけてくれます。
けれど、彼らのすることの中には、私にとってはつらいこともあります。
彼らは精いっぱい、やってくれているんです。
それなのに、そのことを喜べないどころか嫌に思う自分。
なるべく黙って喜んでいるふりをしなくちゃ、と思うのですが、
余裕がない時はそれもできずに露骨に嫌そうにしてしまい、
「喜ぶと思ったのに」「これ以上どうしたらいいの」
と、苛立たれたり、悲しませたり、あきれさせたりして、
そんなふうにしてしまった自分がもっともっと嫌になって、
私はなんて嫌な奴、ダメな奴、親不孝者で、自分勝手なんだろうと、
自己否定して落ち込んで。
そうすると、元気を出してよ、と言われます。
そして元気なふりを私はまたがんばって、自分を偽ります。

よかれと思って、
してくれたこと。
それが、私にとっては、振りかぶって包丁を突き立てられているのと、
同じこと。
そのねじれがつらいです。
うまく応えられない、また間違えた。
だめだ、私なんか。
がんばってるけど、わたしのがんばりじゃ、間違っているって、
みんな言うんだ。
自責の念で息ができなくなります。
よかれと思ってしてくれた、愛情だからこそ、
素直に受け入れて、幸せな気持ちを返してあげられないことが、
私にはつらいです。

経験談の多くは、つらい厳しい環境下での経験がたくさん語られていますよね。
私は、恵まれた環境にいると思います。
それでも、心のすれ違いがあると、こんなふうに辛い思いをすることがあると、
同じような気持ちの人に向けて、届けばいいな、と思い、拙いながら、投稿しました。

最後にひとつ。
今日は、自分の「核」のことを考えました。
私にとっての生命線、大切にしたいこと、生きがい、そのようなものについてです。
そこがブレずにいたら、踏み出す勇気が出るかな、と思ったのです。
私にとってのそれは、「人を支えられる、寄り添える、思いやり、助けられる人でいたい」。
今の私は、人を苛立たせたり悲しませたり失望させたりするばかりで、
面倒や迷惑をかける存在です。
生きがいが、感じられないのは当たり前だと思いました。
今は他人のことを考えている場合ではない、自分の幸せを第一に考えて、と、
友人は励ましてくれます。
けれど、自分を優先させること、自分のことだけ考えることが私には苦痛なのです。
私が元気に回復することで周りは幸せになれると信じて、
つらくても、がんばる。
それしか道はないのだなと、思いました。
日々のねじれと向き合いながら、一歩ずつ、時に後退しても。
「それが大事」という歌の歌詞が、辛く感じられました。
負けない、投げ出さない、逃げ出さない、信じぬく。
一番大事なこと、けれど、険しい、厳しい言葉だと思いました。

どんなところで、どんなひとたちと、どんなことがしたいか。
そのことを、考えていきたいと思っています。

感想1

私は「例え恵まれた環境にいたとしても、心のすれ違いがあると辛い思いをする」という箇所に、とても納得しました。そして私自身も「自分は環境が恵まれているのだから、辛いと思ってはいけないのではないか」というようなことを考えてしまうことがあるので、自身の経験も交えて書いてくださったこの言葉に、辛さを肯定してもらったような感覚になりました。経験談を通して発信してくださりありがとうございます。
投稿者さんは、家族が苛立ったり悲しむ姿を見て、嫌だという気持ちを表に出してしまう自分を責めていたのですね。心のすれ違いも大きいけれど、家族が感情を決めつけてしまっていることも辛く感じられる理由なのではないかと想像しました。
愛情(家族が投稿者さんに喜んでもらいたいと思ったこと)を大切に受け取っていきたいという気持ちも、私はとても大切なものに感じられましたし、それとは別で、家族がやったことに対して「振りかぶって包丁を突き立てられている」ような苦しさを感じたこともとても大切なことなんじゃないかと私は思いました。自分でも上手く言語化しきれていないのですが、相手の望む反応ができない=愛情を大切に受け取っていない、ということではないんじゃないか…ということを言葉にしたかったのかもしれません。
自分のことだけを考えるのが苦痛な時はありますよね。人を支えられる、寄り添える人でありたいという考えに至るまでも、自分がどうしたいか、どうするかを考え続けてきたのではないかと感じました。「どんなところで、どんなひとたちと、どんなことがしたいか」この言葉が印象に残りました。応援したい、見守っていきたい…どれも少し違う気がするのですが、この文章を読んでそれに近い気持ちになりました。

感想2

ひとつの経験談の中に、辛さを感じるあなたと今後に向き合おうとするあなたという2人のあなたをはっきりと感じとれました。印象的に残ったのは「よかれと思って、してくれたこと。私にとっては、振りかぶって包丁を突き立てられているのと、同じこと。」という一文です。あなたの家族関係のお話だと思いますが、同時に社会の中で日常的に見かける現象でもあり、とても本質的な言葉だと思います。私は愛情や思いやりといった気持ちや行為は“一方的”でも許されがち(押し切られがち?)なのに対して、どちらかといえばそれを受け取れない側に問題があるといったような風潮や価値観があると思います。そのすれ違いが時には暴力になることもあります。ひとそれぞれに経験や土台、気力の違いがあるので頑張っているという尺度は様々です。愛情や思いやりは良いけれど、価値観のもとにそれを押し付けないで欲しいって強く思います。あなたが家族のことを「彼ら」と表現しているので、あなたは家族と精神的に一定の距離を置こうとされているのかなと想像しました。
「私は、恵まれた環境にいると思います。それでも、心のすれ違いがあると、こんなふうに辛い思いをすることがある。」この言葉も多くの方に届くと思います。
色々な経験談を読んでいると「恵まれているのにしんどい」という言葉を時々見かけますが、家があり、食べ物があって、愛情を受けていたとしてもそこに「個人への尊重」が無いと恵まれているとは言えないのかもしれません。そんなことをあなたの一文から考えました。
自分の「核」についてはひとりで考え続けているのか、それとも誰か近くにあなたのことを尊重している存在がいるのでしょうか。自分を客観視して、見失わず、できることに目を向けていますね。自分のことは二の次で生きてきた(生きてこざるを得なかった?)あなたが垣間見えましたが、しんどい日々の中でひとつひとつ内省されてできることを探されているあなたを私は応援したいと思いました。
負けること、投げ出すこと、逃げ出すこと、信られないこと…それは生きていく上で大切なことなのかなって私は考えます。
この感想を書く前にたまたま知人と「逃げる」ということをテーマに話していたんです。「逃げると思うと自分を責めてしまうけれど、「避ける」「変える」「距離を取る」とも言えるよね。逃げるという表現は、○○でなければならないというものがあるからそう考えるのかな…」とか色々話しました。あなたともこういうことを語ってみたいです。
今回、私は現状を受け止めて振り返っているあなたの経験談から個人の尊重について考える機会をもらいました。ありがとうございました。

お返事1

感想1さんへ
『心のすれ違いも大きいけれど、家族が感情を決めつけてしまっていることも辛く感じられる理由なのではないかと想像しました。』
と、書いてくださった部分、私のつたない経験談から、しっかり、私の気持ちを受け取ってくださった、と、とても、ありがたかったです。
他の経験談にも、まわりに、思春期だからねと決めつけられて、何も言えなくなる、というような声がありましたが、本当に、そうです。
助けを求めて声に出してみても、こうだからだよ、こうしたらいいんだよ、と言われてしまうと、違うと思っても、言葉にしてはいけないのでは、間違ってるのは私なのだ、まわりは、正論を、まっすぐ、この道だよと言っているのに受け入れられない自分がやはりだめなのかと、言葉を飲み込み心を殺していくことになる。
下手なことは口に出さない方がいい、と、いつも思います。
『相手の望む反応ができない=愛情を大切に受け取っていない、ということではないんじゃないか…ということを言葉にしたかったのかもしれません。』にも、救われました。ありがとうと伝えても、本当はそんなこと思ってないんだよ、私のことを憎んでるんだよ、そうじゃなきゃこんな行動とらないと、家族に言われました。反抗してしまう私への言葉です。ありがたい申し訳ない傷つけてごめんなさいという気持ちは本当なのに、否定されます。つらかったです。信頼を裏切っているんだ、もう、信じられていないんだとかんじました。それはすべてわたしのせいなのだ、とも。
わたしのこと、わかって寄り添ってくれたあなたを、私も応援しています。

感想2さんへ
丁寧に読んで、社会でもこういうことがあると、分析までしてくださり、ありがとうございます。
『そこに「個人への尊重」が無いと恵まれているとは言えないのかもしれません。そんなことをあなたの一文から考えました。』が、胸に残りました。個人の尊重があれば、押し付けるようなこと、しないはずですものね。
よかれという気持ちが、個人の尊重を、できなくしているときもあるのだと。うまく言語化してくださいました。
私の核探しは、ひとりでの戦いです。
結局人に助けを求めても、決める、踏み出すのは、自分です。
その自分を愛せず自信も持てないから、選べず、決められず、踏み出せない。
逃げる、ということについてのお友だちとの話し合い、そうですよね。
つらいところから距離をおいて自分を守る。行為は同じでも捉え方を変えることで、感じ方が変わりますよね。
ルチャリブロという私設図書館が奈良にあります。
逃げる、ということについて、参考になると思います。興味がおありでしたら、調べてみてください。

今回感想をいただいて。
いごこちのよいところがないかと、ずいぶん探しました。
けれど、それは自分でつくりあげるものなのだろうと、思います。
自分にとってなにが、楽なのか。それは自分にしかわからないのだから、一人一人違うのだから、自分で作っていく。

居心地の悪いところからどうしても、年齢のことや経済、心身面から逃れられないから、つらいのですけれど、そのままならない現実のなかでも、きついものから自分を遠ざける、守るすべを、小さなことでも、つかめたら。
耳を塞ぐとか、黙りこむとかでもいいから、しんどさ、生きづらさを抱える、世界のなかまたちが、できたらと、ねがいます。
そうして少しずつ何かが、変わってきたら、いごこちのよいところを、少しずつ作っていけたらと、ねがいます。
私も含めて。

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