パート1
もう歳だし良いかな?と言う題材で投稿し、感想を頂き私のこれまでに興味があると拝見しました。皆さんの投稿も拝見して、私の人生が皆さんの希望になればと筆をとります。
昭和42年名古屋で平凡なサラリーマンの父と頑固な母の元に生まれました。病弱で5歳まで生きられないだろうと医師に言われたらしいですが、この歳まで生かして頂いています。頑固な母と書きましたが、私が病弱な事もあってか、喧嘩や虐められて泣いて帰ると家に入れて貰えずバットを渡され相手を泣かすまで帰ってくるなと締め出された事を覚えています。それが原因か私の不良人生が始まりました笑 中学時代ですが年代的に不良がモテる時代、キャロル、横浜銀蝿、なめ猫、金八先生等の影響もあり荒れた時代でした。日本最大の反社組織も半分に割、抗争事件が毎日のように報道されるなか反社との関わりを持つようになりました。中学生活はシンナー煙草は普通に教室で吸い、暴走族を作り喧嘩に明け暮れる毎日、尾崎豊の15の夜みたいな感じかな笑警察にシンナーで補導されても覚醒剤だけはするなと注意で終わるような時代、土地柄でした。卒業を待たずに教護院に1年半程入り矯正に励み出所後保護士の先生の会社で働く事になりましたが直ぐに退社。
建設会社を転々としましたが。働く事で反社に入る事はなく建設で独立ができました。18歳の時です。不良時代の仲間とはなるべく付き合わないようにして居ました。19歳で結婚
20歳で長男誕生、3人の男の子に恵まれ幸せな生活でした。某大手ハウスメーカーの仕事を請負っていた関係もあり26歳で妻念願のマイホームを建てる事もできました。
平成7年阪神・淡路大震災があり復興支援に行く事を決め震災後2週間で現地入り、住まいや職場を失った方をスカウトし、あっという間に60人を超える会社に成長しました。
事業も建設全般に貿易、飲食店経営など手を広げ贅沢な暮らしをして居ましたが心の隙間、油断からから不良時代の仲間との関係が増えいつの間にか反社の人と兄弟と呼び合う仲になって行きました。貿易で海外出張も増え建設、飲食店など多忙で家族の元に帰る事もせず、仕事に明け暮れる毎日、その時は何も考えていませんでしたが、今思うと兄弟と呼ぶ事で家族に会えない寂しさを埋めていたと思います。そして1度目の挫折、信頼していた副社長に会社の資材など全てを売却され、社員の給料、ボーナスを持ち逃げされ10億を超える負債を背負う事になりました。
パート2
1度目の挫折の時は借金の返済とどう立ち直るかを目標に未来を夢観る事ができました。
復興で頑張った事が評価されたのか、私の母体ハウスメーカーは独立採算性で建設部門や営業、様々な部門に別れそれぞれに社長が居ます。神戸の建設部門社長が借金の半額を肩代わりしてくれた事もあり家族の家以外に2軒の住居、飲食店ビル、自家用車、クルーザーなど家族の家以外を売却して補填しました。しかしまだ数億が足りませんでした。
普通に働いても返せる見込みもありませんでしがその時の私には未来しか見えない笑
この文章を考え、自分ながら良く頑張れたなと自分を褒めてました笑
話しが逸れましたが当時パチスロの体感機と言う攻略法(現在では窃盗罪と業務妨害)があり純粋な攻略法でした。半年程で法律が変わり犯罪行為となりパチプロ生活も終止符が打たれましたが、半年で全ての借金を返済することができました。2度目の人生もフリーランスで建設を細々としていましたが、転機は突然訪れました。太陽光発電所建設工事が国の推進する事業になり活性化しました。
平成23年の三陸沖地震もあり、復興工事と太陽光発電所工事の二本柱で再起を図る事になりました。この時は兄弟と呼と呼んでいた方を社長に立て私は会長職になりました。兄弟分は2人居て2人共に元反社です。昔の演歌の歌詞ではないけど、血を分けた兄弟より我が子より大切な存在と思うようにしていました。会社も順調に成長し法人化し株式会社になりました。社員、パート、アルバイト、下請けを合わせ1200人の企業になりました。
しかしリーマンショック、トヨタショック、ロシア進行による経済危機、コロナ禍の影響による事と兄弟の裏切りにより会社は倒産、妻と離婚しました。幸いにも2度目の倒産は借金はありません。倒産、離婚後宮城で復興の仕事と太陽光発電の仕事に従事しスナックのママさんと再婚しましたが不景気の波は激しく仕事をしても未払いなど生活が苦しく2度目の結婚生活も仕事から帰ると私の荷物が全て外に出され離婚届けが置かれてました。
死について考えるようになったのはこの頃からです。自殺のやり方を検索したり調べるようになりました。マイナス思考とプラス思考が毎日自分の中で戦っています。本文で現在離島で生活と書きましたが、それは子供の頃からの親友が(唯一真面目な親友)スイスで会社経営をしていてヨーロッパは日本食ブームなので一緒に店を出そうと夢と希望をくれました。出店の為に魚料理や和食の勉強に離島に移住しました。環境や心の変化など人それぞれで感じ方も違うし、その時々でも感じ方が変わると思います。夢や希望があっても挫折はいつも夢や希望の隣にいます。私が死のうと考える時、いつも頭を過ぎるのは明石家さんまさんの【⠀生きてるだけで丸儲け⠀】と言う言葉です。この言葉は長野の御巣鷹山に墜落した飛行機に乗る予定でしたがお仕事の都合で新幹線移動になったそうです。その時に思ったのが生きてるだけで丸儲けだそうです。少し詳しい自己紹介みたいになりましたが、文にはできないような心の変化や葛藤がたくさん有ります。いつか皆さんとお話し出来たら嬉しいです。理解者や光を与えてくれる人、言葉に出会い皆さんの心の安らぎに繋がり一歩を踏み出せるようになれたら良いですね。
学がないのでトンチンカンな文で失礼しました┏○ペコッ
最後まで読んで頂きありがとうございましました。
感想1
また死にトリに来てくださったんですね。今回も経験談の投稿、ありがとうございました。「これまでの話を聞いてみたい。」という私たちの思いに応えてくださり、嬉しく思います。全て読ませて頂いて、これまでの人生で本当に色々なことがあったんだな…と、1つのドラマが作れそうなほどだと私は思いました。
人生の中で何度も挫折があったと思うのですが、何度も何度も立ち上がってこられたのですね。「相手を泣かすまで帰ってくるな」という親御さんからの教えが、あなたの簡単にへこたれない精神をつくったのかな?と私は思いました。また、死のうとしたけれど、人生をやり直そうとした過程の中には、明石家さんまさんの言葉の存在があったんですね…。
前回は一筋の光も消えたと仰っていましたが…今はどうでしょうか。こうして経験談を通して自分の人生を振り返り、そして振り返りながらご自身を褒めたあなたのもとには、既に光が差していらっしゃるように私からは見えています。
これからも、マイナス思考が優勢になるときがあるかもしれないけど、あなたはその度に心のバットを手に持って戦い続けるような方なんじゃないかと私はこの経験談で感じました。私も、日々マイナス思考と戦っています。長い戦いかもしれないですが、一緒に頑張りたいです。