余命宣告された直後の母に離婚して出戻った叔母のために遺産放棄しろと言った祖父母の無神経さに父が激怒して叔母、祖父母VS父の争いになった。9歳の時に私がいるから話しがややこしくなっていると葬式以来数年ぶりに会った高校生のイトコに言われ初めて消えたくなり以降ずっと死にたい、消えたいと考えるようになってしまった。
大人になるにつれ私がいるから問題になったのではなく幼い子を残して死んでいく娘に対し遺産の話しをするために病室に顔をだす親ってなんだろうと考えるようにはなったし、遺産を放棄するなら子の面倒をみてやると言われて安心して任す親はいないと思う。でも骨肉の争いは私のせいではないとわかるようになるまでに時は二十年近く過ぎていて思考のクセは根深く残っている。
片親というだけでマイナスのレッテルが貼られていた時代。死別という自然の摂理でもそれが適応され他所の保護者から冷たい態度を取られることもしばしばあったし父が長距離トラックの運転手だったため小学校卒業までは基本平日は養護施設だった。毎週必ず迎えが来る私は施設でも異端だったから針のむしろ。父には悪いが私の平穏のために迎えに来て欲しくなかった。「本当はね、あなたみたいに親がいる子は受け入れられないのよ」なにかあると大人達は必ずこう言ってトラブルを強制終了。お前がいるからおかしくなるという空気に釈然としないものの骨肉の争いのこともあったためそんなものかと納得していた。子どもが消えるということが連日テレビ沙汰になる大変なことだとわかっているから川にも飛び込むことができず下校途中にある一級河川を消えたいと願いながらずっと眺めているだけだったけれどもうあの苦い思い出の橋を渡ることは生涯二度とないだろう。8年くらい経って児相の判断のもと知事が認めて施設にいたのだからあの発言がトラブルを簡単に納めるための悪意だったのだと察し大人は汚いやつだと二十歳越えた自分まで穢された思いだった。
けれど一番の衝撃は実家だったかも知れない。中学生になり施設からでて実家に戻ってから毎日のように「養ってやっている」、「居させてやっている」と父から言われたことだろう。なぜ施設の大人と同じようなことを実家で言われなければならないのかと絶望し、会ったこともない人の息子と比較され続け体感として私の居場所は大人になり家を出るまでずっとなかった。大人になって自分の居場所を自分で確保するということがどんなに心細いか実感し父もそうだったのだろう。気が立って自ら敵をつくるほど攻撃的だったのだと気づくまでに数年かかったがそれでも納得はしていない。
だがあんなに早く自立したいと願っていても大人の集団は学生の集団より気難しく粘着質で汚い輩だという先入観から居心地が悪く、家庭事情など赤裸々にしないと有給休暇はおろか仕事すら振ってもらうこともできない世界に馴染めずなぜもっとドライになれないのかと辟易し仕事もできない部類の落ちこぼれだったため奨学金完済とともに寿退社。この時ほど自分が女でラッキーだったと思ったことはなく、その反面そんなことを思った自分を恥じ過去一番の自己嫌悪に陥った。それを周囲がマリッジブルーと勘違いするのだから人は自分の解釈でしか物事を判断しないものだと実感しこれがマイナスに拗れるとイジメなど面倒くさいことになるのだなと客観的に理解した出来事でもある。仕事ができず大人になってから社会に馴染めないのは自分になにか先天的なハンデがあるのか、それともこれがアダルトチルドレンというものなのかわからない。もし先天的ななにかがあるとしても細かく診断すると人は何かしらの病名がつくと言われるらしいので欠点は欠点として受け入れるしかないけれど寝ている子どもを眺めながら遺伝してたらごめんって何度も泣いてる。
パートナー、子どもがいるのにこんな思考だめだと思うし口には出せない。中学生の時に「死にたい」と口にしていたクラスメイトに友人が「死にたいという奴は本当には死なない。かまってちゃんかよ」と笑って返してたけれど口に出したら場の空気が凍るのわかってて言うんだか凄いなとその勇気に感動したのは墓場まで持っていくだろう。※現在は友人の認知は誤ちであると国が示しているけれど当時はそれが普通の考えだった。
死にたい、消えたいと思うようになってから二十年を越えているけれど私はこうやってなんとか仕事ができないなりにも四人家族で人並みの収入を得ながら生活しています。たぶん子どもたちが自立し夫に先立たれたら事故という形で死のうと考えていますが人に迷惑をかけない自殺の仕方が思い浮かばず模索中です。
自分の死生観を疑いますが家族のために死にたいけど死ねない。それが今の私だと諦めて生きていこうと思います。生きづらい含めて私の人生です。
感想1
経験談の文章表現が私の認知傾向に合っているのかとてもわかりやすく読ませていただきました。相続の話や養護施設での生活、実家に戻ってからの経験は、自分の存在を揺るがし、考えざるを得ないようなできごとでしたね。あなたの客観的思考によって幼少期からの様々な経験を通して多くの本質を見出してきたんだなと感じました。
大人の集団についての考察はとても興味深いものでしたし、“人は自分の解釈でしかものごとを判断しないもの”というところは深く頷くばかりです。私もそう思うことがよくあります。ひとは同じ場面を経験すると同じように感じているかと思えばそうではなく、それぞれのストーリーで解釈しています。こんなに違うことがあるだと驚くことがあります。都合よく解釈するという表現をよく聞きますが、私は不安や承認欲求や互いの人間関係が影響して解釈が変わるのだろうと考えることがあります。
ずっと消えたい、死にたいと感じるのはあなたが感じ取る本質と現実社会のギャップに直面するからでもあるだろうと私は理解しました。変な言い方ですが、考え続けて折り合いをつけながらいまを生きているあなたに死にトリへ投稿してもらいどこか光栄に思いました。機会があるなら死生観についてもまだまだ深めてみたい気持ちになりました。投稿ありがとうございました。