経験談

生きづらさを感じる人が語る 経験談

経験談はそれぞれの投稿者の個人的な価値観や感じ方をそのまま掲載しています。一部、リアリティのある描写や強い価値観が含まれるため、読む人にとっては負担等を感じる場合もあります。各自の判断で閲覧してもらえるようにお願いします。

誰かに聞いてもらいたかった

学校に行かないことは「悪いこと」か。

僕はそうは思えない。でもそれが、自分の甘えから来る答えなのかもしれないとも思えて矛盾の繰り返しになっている。

半年ほど前から学校に行くのが突然嫌になり、ぱたんと行く気がなくなった。すごくすごく、本当に唐突で、あれ、何で今まで当たり前のように学校に行けていたのかな、と思い立つほどだった。

ネットで色々と調べてみた。

一旦長い休みを取って休養すべきだとか、保健室登校とかで少しずつ慣れていくとか。

そういう類のアドバイスもたくさんあったし、確かにいいと思った。

でも僕は今年で受験生ということもあり、後がない。本当に後がないのだ。

来年度からは指導要領が変わるからそれこそどうしようもない。今年一年を棒に振るわけにはいかない。今まで、ずっとずっと頑張ってきた(と、思う)んだから。

小さい頃から塾に通って勉強して、勉強は好きでじゃなかったけどそこそこいい学校にも入った。ハイレベルな周りの子たちに嫉妬したり共鳴したりしながらも、人並みに生きてきた。

で?

そうやってがむしゃらに生きてきて、それから何かいいことはありましたか?

突然思った。

生きている意味ある?ただ勉強してただ学校に行って、ただ大人になってもただ働いて、社会の一部として生きて、死んでいく。よくわからない。それだったら生きている意味なんてない気がする。とにかく疲れた。

話が少し変わるけど、昔から人よりちょっとだけズレているという認識があった。たとえば大きな音が苦手。みんなが楽しそうに見ている花火が苦手でしょうがなかったり、運動会で合図に使われるピストルが苦手で、毎回耳を塞いでクラウチングスタートをしたりしていた。あとは人が苦手。人混みはもちろん、学校で人と喋るのもかなり苦手。一挙一動がギクシャクしてしまう。最近はまともに喋るのも苦手になってきて、極力人と関わるのを避けるようになったり。それに過度に緊張することまで増えてきた。人の前に立つと手足があからさまに震えて、でもどうしようもなくて、恥ずかしくなってまた気が滅入る。最悪のループ。

だからこそ、「自分は人より少し違う!だから学校を休むのも仕方ないことなのだ!」などともっともらしい理由をつけて自分を甘やかそうとしている気がしてならない。それは違うと思う。みんなができることはやろうと思えば普通にできる。少し違うとか、そういうのは関係ないはず。

なのに何で、みんなが当たり前にできることが最近できなくなってきているのか、皆目検討もつかなくて焦る。もう時間がないのに。

親にその旨をぶちまけることがよくあって、さすがに親も疲れてきていると思う。申し訳なさと苛立ちがごちゃごちゃになって、なのに結局いつも親に対して怒ってしまう。親は学校に行かなくてもいいと言ってくれたけれど、平日の朝に「今日は学校行くのやめる」と話すとあからさまにがっかりしたり、苛ついたりしている。それを感じると申し訳ないけれど正直いらっとする。

何でわかってもらえないのかがわからない。

最近、消耗することもないのに勝手に消耗して、死にたいとよく思うようになった。けど痛いのも嫌だから自殺はしたくない。どこかに逃げてしまいたい。

綺麗なもの、うつくしいものが好き。

僕は趣味で物語をよく書く。

物語の中だけはそういう綺麗なもので満たしておきたいし、書いている間は少しリラックスした気持ちになれている、かもしれない。叶うならば、記憶の中にあるどこかの風景を探して旅をしたい。綺麗なものを探しに行きたい。そこで見つけたものを、のんびりとお話の中に書き込みたい。そして自由になりたい。

ずっとずっと、そんなふうに考えている。

感想1

 行きたくないと思うことは、自分の甘えなのか、そうではないのか…そのように悩んだことが私にもありました。それは休んだ罪悪感なのか、周りの目を気にしているからなのか、自分の理想に反しているからなのか…。私の場合は、休む自分を許せず、周りからの評価が下がることを恐れていたからだったんだと思います。あなたの場合は、どうしてだったのか気になりました。
 そして実は私もあなたと同じように、大きな音が苦手で、人と関わることにちょっと難しさがあります。しかし、やろうと思えば(我慢しようと思えば)普通にできるんですよね。ただ、これはもしかすると他の人はそもそも「やろうと思えば」など意識せずに、当たり前にこなしているのかもしれません。(もちろん、人それぞれですが。)私やあなたは、意識しないと難しいのかもしれない。そう考えると、他の人よりちょっとエネルギーを多く使う必要があり、消耗するのが早かったり、疲れやすくなるのかもしれません。この今までの積み重ねが、あなたが学校に行けなくなった理由と繋がっているかもしれないと私は考えました。
 また「消耗することもないのに勝手に消耗して」とあったけれど、あなたが自覚していないだけで、かなり消耗している可能性があると私は思いました。それはどういうことかというと、今学校を休んでいるから消耗していないと感じていても、休んで家にいる間は様々なことを頭の中で考え、悩み、消耗しているということです。
 休んでいる間のあなたの頭の中には、甘えなのかどうか・受験生ということも踏まえ今後どうするか・そもそも生きている意味はあるのか・みんなができることが何故できないのか…このように、様々な考えがぐるぐると駆け巡っていそうです。もしそうだったら、頭が疲れて、消耗してしまいますよね。あなたが死にたい、どこかに逃げてしまいたいと感じるのも、無理もないように思います。
 しかし物語を書いている時だけは、先ほど私が書いたような考えが頭の中で駆け巡らないのかもしれません。綺麗でうつくしいものが頭の中でいっぱいになって、頭と心が休まっているように私には見えます。今のあなたにとって物語を書くことは、とても大事なことなのではないでしょうか。
 最後に、もしまだやったことがなければ、死にトリの「つらチェック」をあなたにやってみて欲しいと思いました。経験談の中に「何で」という表現がいくつかあり、自分自身が分からず、困惑している様子が私には浮かびました。あなたの抱える「何で」を少しでも解消する手助けとなるかもしれません。

感想2

経験談をありがとうございます。
あなたの投稿を読ませていただいて、たくさんのことを考えました。そして、私としては同じようなことを考えている人がいるんだな…と知ることができて、少しホッとしています。そのことについて書きたいと思います。

まず私は「甘え」について考えました。あなたの文章を読んだときに、私は「甘え」っていったい誰が決めるものなのだろう、と思ったのです。
私にはあなたの言う「甘え」は「甘え」とは感じませんでした。「学校に行かないことは悪いこと」というのも、全くそう思いません。「人と違う」ということ=「当然休める」ということではないのかもしれないなとは思いましたが、子どもには休む権利は保障されているものであり、働いている大人も休暇は取得しなければならず、有給休暇という制度があったりもします。それなのに(あなたが感じているように)「学校を休む」ことは「甘え」とされる風潮があるのはなんでなのだろうって不思議に思います。私も学校に行きたくなくて休んだことが何度かあったのですが、その時は家族等から「甘え」ていると思われ、ガッカリ顔をされたりもした記憶があります。「休む」ことはその時の私には「必要」なことであったのにもかかわらず、そうされたことが思い出され、「甘え」っていったいなんだろうって思います。
そんなことを考えながらあなたの文章を読んでいると、「みんな」という言葉と「当たり前」という言葉が出てきました。あなたは「みんなが当たり前にできること」という風に書いてくれていますが、「みんな」って誰のことを指す言葉なのだろう、「当たり前」って誰が決めることなのだろう、と私は考えたくなりました。私はよく「みんな」の中に私が入っていないと感じることがあります。また「当たり前」というのも「自分」の「当たり前」と「他人」の「当たり前」は違うはずなのに、なんでこの社会には「当たり前」がある(らしい)んだろう、誰が決めてるんだろうって思います。それで考えてみて思ったのが「学校を休む」ことを「甘え」と見なすのは「(学校に行くのは)当たり前」とする「みんな」に含まれる人たちが決めてるのかなということでした。だとすると、それはちょっと乱暴なような気が私はします。
ある聴覚障害の方が、この世界に住む「みんな」の耳が聞こえなくなったら、手話や字幕を通じたコミュニケーションが「当たり前」になると話していたことがありました。そのコミュニケーションは「甘え」ではなく「みんな」にとって「当たり前」なものになると。その時思ったのが、環境が変わればそれらは簡単に変わるものであり、今たまたま「当たり前」とされているものが押し付けられるのは違うということでした。
そんなことを言ってもあなたの焦りは変わらず、もしかしたら「みんな」への憧れもあるかもしれないと思いますが、私は「あなた」が「みんな」としてちゃんと含まれると感じられるところ、あなたの「当たり前」を大事にする人と出会ってほしいなと思いました。それを見つけるのは簡単ではないかもしれませんが、一緒に探したり考えたり創ったりできないだろうかと思いました。
最後に、同じように考えている人がいてホッとしたということについてですが、それはあなたが書いた「綺麗なもの」から始まる文章のことを指していました。あなたが書いてくれたこれは私が探し求めているもののような気がします。あなたのように言葉にはできずにいたので、こう書いてくれたことに深く感謝したいです。ありがとうございます。あなたが書く物語…あなたが見る風景…よければ、そういったものにまた触れさせてもらいたいなと思います。

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